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小説 円朝
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小説 円朝
正岡容
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Chapter 9 of 26

9

灯がつくとまた師匠はお座敷にでかけていった。また遅くかえってきた。また飲んでまた寝てしまった。

その次の日は文楽師匠、馬生師匠、りう馬師匠、他いろいろの人が朝早くからやってきた。そうして運座がはじまった。題は「雪」「餅搗」「落葉」だった。りう馬師匠が「からからと日本堤の落葉かな」という句をだして、そりゃお前抱一上人さまの名高え句じゃねえかと文楽さんからたしなめられ、一同大笑いになったりした。運座はいい加減にして間もなくお酒がはじまり、歌えよ踊れよの年忘れ、到底稽古どころではなかった。

次の日は誰もこなかった。「梅暦」ももうおしまいになったとみえてお神さんはおしのどんを指図して台所で春の仕度に余念がなかった。師匠一人が退屈していた。しきりに家の中を行ったりきたりしていた。でもなぜか稽古はしてくれなかった。

その次の日もまた、そうだった。いよいよ師匠は身体を持て扱っているらしく、「アー……アー……」としきりに大あくびをしては、

「誰か……誰かこねえかなあ遊びに。どうもたまにこうやってジッと家にいると身を切られるより辛い」

と世にも寂しそうな顔をした。そんなに所在なさに苦しんでおいでなのなら――ムラムラと小圓太はいまお稽古して貰いたさの念に駆り立てられてきた。

「あの……師匠……」

で、つい昼の食事の膳を片づけにいったあと、いいにくそうに小圓太は切りだしてしまった。

「何だえ」

物やわらかな調子で師匠はこちらへ顔を向けてきた。

「あの……きょう……あのすみませんが私に……あの願えませんでしょうかしら」

思い切ってさらにまたいってみた。

「何を願うんだっけなお前に」

けげんそうに師匠は少し口を尖らかした。

「いえ、あの……お稽古なんで」

ちょいと頭を掻く真似を、小圓太はした。

「何のお稽古?」

いよいよ師匠はけげんそうな顔をした。

「いえ、あの、こないだ師匠がおっしゃって下すったんで、お稽古をって」

「だから何の誰の?」

「私のなんで」

もういっぺん思い切ってこういったとき、

「エ、お前の稽古、駄目だよ今日は」

たちまち世にもおっかない顔に変って、

「オイ少し積ってもみてごらん。こんな私がクサクサしてる了見の日にお前の噺の稽古なんかできるものかできないものか。駄目駄目駄目きょうは駄目だよ。きょうはお前、私ァ退屈で困ってるんだもの」

「……」

また次の日とその次の日と座敷がつづいてフイ。もう数え日の二十七日の晩――。

「おい、やって上げますよ。小圓太、今夜は。さあ早く膳を片づけてそこへお坐り。一日延ばしに延ばして勘弁しておくんなさいよ」

何とおもったか晩酌を一本きりでやめた師匠が、いつにない上々の機嫌でいいだした。

「ありがとうございます、何分どうか」

何度目の正直だろう、でもうそもかくしもないところ、その都度、手の舞い、足の踏みどころをしらないといってよかった小圓太だった。いそいそ立ち上がって大急ぎでその辺を片づけると、

「では師匠お願いいたします」

お辞儀をしてチョコナンと師匠の前へ坐った。

「ウム」

大きく肯いて師匠も居ずまいを直した。いよいよ稽古が始まろうとしたときだった、玄関のほうで人の訪う声がした。

「あの杉大門の御主人がお見えになりましたが――」

次の間へ手をつかえておしのが取り次いできた。

「エ、杉大門が。そりゃ珍しい。オイすぐこっちへお通し申せ。そうして小圓太、お前はな、早くお神さんやおしのを手伝って酒の仕度を」

いうかとおもうと、早くも上がってきた頬に刀傷のある目の険しい五十彼是の渡世人上がりの四谷杉大門の寄席の主へ、

「よウよウ珍しい珍しい兄貴、相手ほしやでいま困ってたとこなんだ、さ、今夜ゆっくり遊んでってくれ、夜明かしで飲み明かそう」

たちまち外面のいい圓生は相好を崩してこう迎えるのだった。

いざこざなしにすぐお酒がはじまってしまった。やったりとったり――杉大門もなかなかの飲み手で尽くるところをしらなかった。さっさとお神さんはねてしまった、九つ近くになって、やっと席亭はかえっていった。

「すまなかったね昨夜、あんな剽軽者が飛び込んできてしまって、さ、今夜はやって上げますよ」

とても駄目だとあきらめていたのに、思いがけなく晩酌のとき、またこういいだされた嬉しさ。

「エ、今夜やって頂け……」

目のいろ変えて小圓太はお辞儀をした。

「やって上げますよ。いつ迄噺ひとつ稽古しないで遊ばせといたって仕様がありません。正直お前さんだって早く席へでたくってウズウズしていなさるんだろう。ウムウム分って、分ってますよ、サ、この稽古ひとつ丸ごかしにすましたらちゃんと席へでられるようにして上げましょうね」

今夜も上機嫌の師匠だった。ふた晩つづいてこんな御機嫌なんてほんとに珍しいことだった。ほんとうに小圓太は嬉しかった。

すぐ晩酌がすみ、御飯がすみ、手早く膳を片づけて、昨夜のようにピタリ向こう前に坐ったとき、また玄関のほうから声高に案内を乞う声が聞こえてきた。

「お、おい三遊亭。ご、御馳走になりっ放しじゃこん心持が悪いから、こ、今夜は、お、俺が、一升提げて、きたぜ」

もう下地があるらしくいいいろに顔を染めた昨夜の杉大門が一升徳利ぶら下げて、なんと案内も乞わずにフラフラと入ってきた。

「よッ待ってました親玉。よき敵御参なれとおいでなすったね」

またしてもおよそ調子のいい師匠はこう笑顔で迎えた。すぐまた酒盛がはじまってしまった。酔えば酒飲みの常、いつ迄もいつ迄もお互いにひとつことを繰り返しては根気よくさしつさされつ――トド杉大門はへべのれけになって小間物店まで吐きだした。命じられて小圓太がその後始末をさせられ、その上、駕籠を呼びにやられた。その駕籠がまたなかなかやってこないときた。ピューピュー筑波ならしの吹く寂しい四谷の大通りに佇っていて、小圓太はつくづく杉大門の主を怨みにおもった。何かこの人、前世で俺に怨みがあったのかしら、それともうちの先祖があの人の先祖を絞め殺したことでもあるのかしら。人の恋路の邪魔する奴は馬に蹴られて死ねばいいという都々逸があるけれど、俺の世の中へでるのを邪魔する杉大門も土竜にでも蹴られて死んじまえばいい。それにつけても今夜はちょいとこれの稽古をすませますから、ほんの少しそこで待ってて下さいとひと言そういってくれないですぐニコニコ大愛嬌でお客様を迎えてしまううちの師匠の上も、いささか怨めしくおもわないわけにはゆかなかった。

……ブツクサ呟いていることしばし、やっとのことで駕籠がきた。いっしょに家まできてもらって、てんで正体のない杉大門をかかえ込むようにして駕籠へ乗せ、そのあとお膳の片づけをして、やっと表の戸締まりをしにきた。

師走の空がよく晴れて、青い星がいっぱいチカチカまたたいていた。しきりにすさまじく凩が軒端を吹き抜け、通りのほうで犬が二、三匹遠吠えしていた。師匠の鼾がここまで絶え絶えに聞こえてきていた。

顔中を粒々に鳥肌立たせた小圓太は、土より冷たく凍てかえってしまった手で、やがて表の戸を閉めようとした。ちぢかんで、どうしてもおもうように閉まらなかった。

五

お正月の下席から思いがけなく小圓太は、文楽師匠から赤坂一つ木の宮志多亭へ借りられた。もちろん、前座としてであるが、それでも何でも嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。骨身を惜しまず立ち働いた。

ただ毎晩、高座でやる噺に自信がなくてたいへん困った。というのはあれから暮れの三十日の日、たったいっぺんだけ師匠は「蛙の牡丹餅」の稽古をしてくれた。が、小僧がお重の中の牡丹餅を食べてしまって、代りに入れておいた蛙の飛びだす眼目のところがどうしても巧くできなかった。活きていない、その蛙は――そういっては何べんも何べんもやり直させられた。でもどうしても師匠の満足するまでにはできずじまいだった。しかも、いわば本格の稽古らしい稽古といえばただそれ一回っきり。あとは父圓太郎といっしょにでている時分の聞き覚えのものに過ぎなかった。

でもこの機会を失ったらまたいつだして貰えるか分らない。面を冠って小圓太はでることにした。

いってみると自分の上がる時刻には、まだお客は五つか六つ――せいぜい十くらいしかいなかった。いいも悪いもありはしなかった。ただその十人いるかいないかのお客が、必ず下りるときには一斉に手を叩いてくれ、一人でも叩かなかった人のいる晩はなかった。せめてもそれだけが小圓太にとっては百万力の味方を得たもののようだった。

「お前、しっかりやりさえしたら、末があるってみんないってるぜ、俺はほかをやってくるからまだ聴いてねえんだが、まあしっかりやんねえ」

ある晩、文楽師匠がこういって励ましてくれた。

「ハ、ハイしっかり勉強いたします、何分……」

思いがけない嬉しさに、情に脆い小圓太はもう鼻をつまらせていた。黙って何べんも何べんも頭ばかり下げていた。

だんだん小圓太に文楽師匠という存在が、師匠圓生の次にありがたくてならない人におもわれてきた。いつも粋な唐桟ぞっきで高座へ上がる文楽師匠は頬の剃りあと青い嫌味のない色白の江戸っ子で、まだ年はうちの師匠より十も下だろうが、いまが人気の出盛りで、それには下の者へよく目をかけてやるというので滅法楽屋の評判がよかった。噺もまた巧く、「一心太助」だの「祐天吉松」だの講釈種のそれも己の了見そっくりの達引の強い江戸っ子を主人公とした人情噺がことに巧かった。ほんとうに太助や吉松はこんな人物かとおもわせるほどだった。何よりそれには「噺」の線が江戸前で、藍微塵のようなスッキリとしたものを目に描かせた。そのあく抜けのした話し口に小圓太は心を魅かれた。

「困ったなおい、俺はこれから西の窪の大黒亭まで行かなけりゃならねえ、もうこれ以上つなげねえんだ」

ある晩さんざつないで下りてきた鯉かんさんがいった。事実「両国八景」を目一杯にやって、そのあと声いろまでやって下りてきたこの人だった。俎板のようなぶ厚い顔へとりわけ今夜は寒というのにビッショリ汗を掻いていた。

「すみません。ですけど師匠、まだあとが……」

困ったように小圓太は俎板のような顔を見上げた。

「分ってるそりゃ分ってるが、こなくても俺はもうこれ以上かかり合っちゃいられねえんだ俺は。こっちはもう仁義だけは尽したつもりだ」

鯉かんさんはいった。まさしくその通りだった。

「そりゃもうよく」

小圓太はひとつお辞儀をした。

「じゃ、くどくもいうとおり西の窪の大黒亭へ駈け上がりなんだ」

駈け上がりとは時間ギリギリに楽屋へ入ってすぐそのまま一服もせず、高座へ駈け上がっていくの謂だった。

「じゃ頼むよ後」

そのまま慌ただしく行こうとした。

「ア、モシ師匠」

あわてて小圓太は花いろの道行の袖を捉えた。

「な、何だ」

立ちのまま鯉かんさんは振り返った。

「困ります師匠に行かれちゃ」

泣き声をだして小圓太は引き止めた。

「俺も困るよ、お前に留められちゃ」

「お願いしますだから」

「こっちがお願いするといってるじゃねえか最前から」

困って俎板面をしかめたが、

「ア、いいことがあら」

急に安心したように肯いて、

「上がんねえ」

「エ、上がんねえよ高座へ」

「誰がです」

「お前がだよ」

「冗、冗……」

「ほんとだよ」

「だ、だって、そ、そんな冗……」

「上がりなってば、いいから。そのためのお前、イザってときのとっときにしておく前座じゃねえか」

「でも私はもう宵に」

その宵も、あとのしんこ細工の蝶丸さんがこないで二席がけたっぷりとやってしまった自分だった。

「いいや上がったっていい。何べんでも上がりねえな。何、遠慮があるものか、お前の噺は末があるんだ。俺見込んでこねえだ文楽さんにそういっといてやったくれえなんだ」

ア、この人がいって下すったのか――。

「ありがとうございます」

傍らの大太鼓へ危うくお額をぶつけてしまうほどのお辞儀をすると小圓太は、さすがに嬉しさに胸ときめかせて、

Chapter 9 of 26
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