二
蚊遣火の煙にとざす草の庵を人しも訪はば水鶏聞かせむ
この歌句法ととのはず、四、五の句に至りて調子抜けが致し候。四の句「人も訪へかし」などいふが如き言葉つきに改めなば、少しは続きよかるべくやと存候。さるにても「水鶏聞かせむ」の句の俗なるはまた一段の事に候。
水鶏聞くべしとか何とか改め候はんには、少し俗気少かるべく候へども、さりとて善き歌にも成り不申候。
一むらの杉の梢に山見えて月よりひびく滝の音かな
上三句は尋常の景尋常の語なれども、印象明瞭なる処かへつて他の巧を弄し詞をひねくりたる歌にまさりをり候。惜いかな四、五の句上に続き不申候。上三句の景より言へば山は杉林より隔りたる者の如く相見え、さまで近きとは覚えぬに、滝の音とあるを見れば極めて近き山ならざるべからず、ここにおいて前後の撞著を来し申候。「月よりひびく」などいふ語この作者の得意の所なるべけれど多少の厭味は免れず候。この歌の作意は滝は見えずして音ばかり聞ゆる故、月中に響あるが如くいひなしたる者なるべけれど、それがかへつて厭味を生ずる種に相成候。もしあからさまに見ゆる滝の下に立ちて見あげたる時、滝の上に月ありとせんか、この場合に「月より響く」などやうの形容を用うるは厭味少かるべく候。
五百重山霧深からし菅笠のしづくも落つる有明の月
この歌の意明ならず、第二句想像の語とすれば、旅人などの笠の雫を見て山は霧深からんといへるにや、さるにても言葉少し足らぬやうに存候。旅人の菅笠とでも言はざれば三句突然に出て面白からず候。「雫も落つる」の「も」の字も意味をなさず、余儀なき「も」とや申し候べき。(十首中この歌一首は『柿園詠草』中になきやうに覚え候、如何の訳にや)
雲かかるわたのみなかにあら汐を雨とふらせて鯨浮べり
「雨とふらせて」の句この歌の骨子にしてしかもこの歌の瑕瑾と存候。箇様な場合には「ふらせる」などいふやうな「せしむる」的の語を用うれば勢を損じて不面白候。むしろ「鯨の噴いた汐が雨となつた」と言ひはなす方よろしかるべく候。この人往々この種の句を挿んで雄壮なる歌をだいなしにする癖有之候。「笠置山あすの時雨をさきだてて乱るる雲に嵐吹くなり」の如きも四、五の句極めて面白しと思ふに二、三の句異様の言葉づかひなるがため興味索然と致候。かつ鯨の歌の第一句「雲かかる」の五字極めて拙く候。かく言ひては「雨とふらせて」と照応するためにこの蛇足の語を加へたる痕跡歴々として余り見つともなく候。かつ「海の真中に雲がかかる」といふことは聞えぬ言葉つづきと存候。渺々たる空間、渺々たる海上にある雲を「かかる」とはいふべからず候。縦しそれも許して置いた処で「雲かかる」といへば一片の雲と見ゆる処いと可笑しく候。試みにこの歌の景を想像可被成候。海は漫々として広く空は一面に晴れわたりたる処に、海の真中に鯨汐を噴けば、その鯨の真上ばかりに一塊の雲ある処を描き出だして、それが天然の景と見え可申候や。われらには人間がこしらへた雲とよりは相見え不申候。いつそ雲はない方がよろしく、もしくは雲の掩ひひろごりたる処を詠むがよろしく候。(三月二十二日)