五
文学の標準といふ事につきての論要領を得ず。「科学的定義を完全し」云々の語あれども、文学の標準に必ずしも科学的定義を附するに及ばず。また完全なる標準とかいふ語あれども、完全なる標準と不完全なる標準とは何に因つて区別するか。子は文学の標準なる語を全く誤解せり。また「英仏独の文学者すらも」云々の語あるは日本贔屓の人の言葉とも覚えず。子は英仏独の学者が為し得ざりし事を日本人は為し得ずとするが如し。われら敢て自ら矜るに非ざれどもそれほどまでに西人を崇拝しをらず、それほどまでに日本人を軽蔑しをらず。誤解する莫れ、われらは子の如き西人崇拝にあらず。
文学の標準とわれらの言ひしは何もむづかしき事にあらず。詩文を見、絵画彫刻を見て美なり美ならずと評するは、その評者の胸中に「文学美術の標準」あり、それに因りて評するなり。われらの言ひし文学の標準といふ者これのみ。即ち英仏独の文学者にもそれぞれの標準ありしなるべく、支那の文学者にもまたそれぞれの標準ありしなるべし。子にも標準あるべし。われらにも標準あるなり。ただ古今東西に通ずる標準と言ひしを以て誤解を来たせるが如し。文学の標準といへば古今東西に通ずる事は言はでも善かりしなり。既に標準といふ、古の歌を評すると今の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず、東洋の歌を評すると西洋の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず。古今東西に通ずるとはこの事なり。千人万人の標準が一定せりなどといふにあらず。
西洋や支那の「文学」といふ語の定義などを並べたるは全く無用に属す。何となれば古人のいはゆる文、文学なる者はわれらのいはゆる文学とその程度区域において相違ある者多きのみならず、全く意味を異にする者さへ少からず。支那にて文を道の意に用うるが如きこれなり。その根底において意味の異なる文の定義などを掲げて、駁撃せんとするは見当違ひたるを免れず。われらのいはゆる文学は理窟の外に立つ者にて道を載する者などに非ざるなり。われらのいはゆる文学はわれらがしばしば説明するが如きをいふなり。もしこれも文学といふ語が当らぬとならば美文となり言ふべし。字の定義などを説くは枝葉に渉るの嫌あればここに説かず。
文学は実用と娯楽とを兼ねたりとの説固よりわれらの説と異なり。(実用の語は普通の解釈に従ふ)理学にして文学に属すべきものありといふ事ならば、子のいはゆる文学はわれらのいはゆる文学と異なる事いよいよ明かなり。実用即ち教訓を垂るるといふに至りて益筋路の異なるを見る。普通の場合にては教訓的の者は文学の範囲外にあり。されどかかる者をも文学といふとならば子の勝手なり。他人これを如何ともする能はず。ただわれらのいふ文学と性質を異にすといふことを明言し置くに止めん。
「優艶天地を撼かす」といふ語少と変な語なれども、その意を察するに優美なる事をいふならん。支那の語にて優美なる詩が天地を撼かすとはいふまじと思へど、それも言葉咎めに類すれば言はず。ただ特に優とか艶とかいふ字をここに出だしたるは、かりそめの思ひつきなるべきも、和歌の弊風を自ら現したる者なり。歌よみは歌を優美に詠めよといふ、甚だしきは優美ならざるは歌にあらずとまでいふ者もあり。これ歌の腐敗したる一原因なり。われらをして言はしめば歌を詠むには優美にも詠め、雄壮にも詠め、古雅にも詠め、奇警にも詠め、荘重にも詠め、軽快にも詠めといはんとす。ここに用ゐし語は深き意味なしとするも、歌が一般に優とか艶とかいふことを離るる能はざりしは事実なり。
「国歌の人を鼓舞して忠誠を貫かしめ人を劇奨して孝貞を竭くさしめ」云々「豈翅に花を賞し月を愛で春霞に思を遣り風鳥に心を傾くる」云々の数行、文章も変だが議論も変なり。和歌が人を鼓舞し云々したる事もたまにはありしかも知らず、されどそは文学に多くあることにあらず。まして和歌の如く無気力なる者においてありさうにもなき事なり。「無味の感念」などいふ語奇妙な語にしてちよつと解しかぬれど、何だか花月を愛するを誹りたる者の如し。われらは花月を賞する上には趣味多し、教訓的の事には趣味少しといふ説なればとにかく大反対なり。(四月一日)