七
「もののふの八十氏川の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも」の歌を前に八田などの歌と共に挙げてかにかくと論ひしかば、八田などの歌と同じさまに誹りたりと思はれたるにや、これを難ぜらるる人多し。この歌を八田などの歌と同じ様に見たるにあらざることはその時の文にも記し置きたれど、言葉足らざれば意通ぜざりけん。故に今改めて彼歌を例に引きたる訳を申すべし。
世の歌よみに『万葉集』を崇拝する人あり、『古今集』を崇拝する人あり。いづれも一得一失はあるべけれど、大体の上よりはわれらは『万葉集』崇拝の方に賛成するなり。しかし『万葉集』崇拝家なる者は、多く万葉の区域(否、むしろ万葉中の或部分)を固守して一歩もその外に越えざるを以て、歌に入るべき事物材料極めて少く、ために吾人が感得する諸種の美を現すこと能はず。これわれらが万葉崇拝家に不満を抱く所なり。故に万葉崇拝家が常に手本として示す所の「もののふの」の歌を取りてことさらに云々したるなり。
美に簡単なる美あり、複雑なる美あり。世の文学者あるいは複雑のみを以て美となす。われら取らず。人あるいはわれらを以て複雑の美をのみ好むと為す。これ誤解なり。われらは簡単の美をも好み複雑の美をも好む。しかれども簡単の美を詠みたる歌は、複雑の美を詠みたる歌の如く、多く出来ざる事は数において明なり。例へばここに十箇の材料ありとせんに、これを一首に一箇づつ用ゐて歌を作りなば十首を得るのみなれど、二箇づつを用うれば九十首を得べく、三箇づつを用うれば九百首を得べく、四箇づつを用うれば九千首を得べき割合なり。かつ簡単なる美には趣味の少き物を詠むに不可なれども、複雑なる者には趣味の少き物も、趣味多き物と配合して用ゐ得る場合多し。また趣味のなき者とある者とを、ことさらに並べて反映せしむる事もあるべし。かたがた以て複雑的の者は多く出来得べく、簡単的の者は多く出来得べからざる理なり。しかるに和歌なる者は、千年来常に簡単の美をのみ現さんと務めたるを以て、終に重複また重複、陳腐また陳腐となりをはりたり。(これ歌の陳腐に流れたる一大原因なり)
「もののふの」の歌たけ高く詠まれたる由は前にもいへり。われらは人丸集中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり、『万葉集』中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり、日本文学の中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり。しかれどもこの歌は趣向の最簡単なる者なり、簡単に傾きたる和歌の中にても殊に簡単なる者なり。そのたけ高きもこの簡単なる処にある者なれど、さてこれを手本として歌を作らんには、さらでも陳腐なる歌のいよいよ陳腐ならん事を恐るるなり。この歌の如き調に倣ひたるは後世にありては恋歌に最も多し。
ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな
吉野川いは波高く行く水のはやくぞ人を思ひそめてし
春日野の雪間を分けて生ひ出づる草のはつかに見えし君かも
の如きを初として、どの集にもこの集にも、かくの如き詠み方の恋歌は沢山に見ゆる故に、われらが見ると同じ歌を幾度も繰返して出したかと思ふばかりに陳腐とはなれり。しかしここに注意し置きたきは、われらが今論じつつあるは陳腐と否との論にして、雅俗の論にあらずといふ事なり。もし雅俗の点よりいはばこの種の歌は歌の中の雅なる者に属し、殊に恋歌の中の雅なる者に属す。恋歌には俗なる者、理窟ツぽき者多き中に、この種の恋歌は俗を脱し理窟を離る、右に挙げたる三首の如きはむしろ恋歌中の佳作なるべし。されど陳腐と否との点よりいはば(古今集時代即ち右に挙げたる歌の如きはいまだ陳腐ならず)後世に至るに従ひ、この種の歌ほど陳腐なるはあらず。われらの歌を評するには、第一に俗なる者は俗としてこれを斥け、第二に俗ならざる者の中にても、陳腐なる者は陳腐としてこれを斥く。ここに論ずる者陳腐の一点にあり。(名所としての「もののふの」の歌は次に論ぜん)(四月四日)