九
或人曰く、子の歌は子の歌にてやるが善けれど一々古歌を打ち毀すは不服なり。云々。
答へて曰く、「旧思想を破壊し尽し」など前に言ひし故、あるいは誤解を来せしかも知らず。この旧思想といふは『古今集』以後今日までに行はるる理窟ツぽき思想、陳腐なる趣向などを指したるにて、総ての古歌の想を含みたるにあらず。われらが作る所の歌は固より歌の一部分と見てもよろしく、半部分と見てもよろしく、これらの外に万葉調の歌にて善き者も出来べく、古今調の歌にて善き者も出来べく、将た古人の調にもあらず、われらの調にもあらざる一種の新調にて善き歌も出来べく、決してわれらの歌に非ざれば歌に非ずなどといふ狭い量見は少しも持たず。しかし古人の歌でも名家の作でも理窟ツぽき思想、陳腐なる趣向はあくまで非難を試みるべし。
或人曰く、古来、歌といひ来りたるは子の作る所の如き者に非ず。されば子の作る所は一種特別の者なれば、歌といはずに、何とか外の名を用ゐては如何。云々。
答へて曰く、面白き事を承る者かな。われらは歌といふ語を拝借してもよろしからんとの考にて、歌と言ひ来りたるも、それが悪しとならば如何にも名づけ給はるべし。俳諧歌となりと、狂歌となりと、味噌となりと、糞となりと思ふやうに名づけられて苦しからず。われらは名称などにかかはらざるなり。されど言葉の遊びを主とする『古今集』の誹諧歌と、趣味を重んずるわれらの作とは、根底において同じからざるを忘れたまふな。地ぐちシヤレを喜ぶいはゆる狂歌と、地ぐちシヤレを擯斥するわれらの作と、立脚地を異にする事を忘れたまふな。それを承知の上でなら、何とでも名づけ給はるべし。
或人曰く、われわれが梅が香を鼻に感ずる上は、それを歌に詠まれぬ訳はあるまじ。云々。
答へて曰く、固より梅が香を歌に詠まれぬといふ訳は少しもなけれど、余り陳腐なる歌多き故、前に戯言を放ちたるなり。趣味あるやうに、陳腐ならぬやうに詠まば、梅が香も好題目なるべし。
或人曰く、漢語にても俗語にても、構はず用うる事になれば、無学なる者が、飛んでもない歌をうなり出すやうな弊害を生ぜざるか。
答へて曰く、弊害までを考へらるるはよほど深切な考なれども、われらはそんな事を考へずとも善かるべしと思ふ。弊害は固より起るべし。僅に一ヶ月を過ぎたる今日にてすら、飛んでもない見当違ひの歌は、いくらもわれらの几辺に飛び来るを見る。されど弊害は何処にもある事なり。従来の如く歌を詠むには、多少古語を学ばざるべからざる時代においては如何。歌よみは文法だの語格だの詠み方だのと、から威張に威張り、ひた拘りに拘りて、無趣味なる陳腐なる歌のみを作りしにあらずや。漢語や俗語を用ゐて、それで善き歌を作り得べしとの見込あらば、何処までもそれを用うることを勧むるが当然ならん。飛んでもない歌が出て来たらば、飛んでもない歌として斥けんのみ。
或人曰く、真淵を評して存外万葉の分らぬ、などとは片はら痛し。万葉を崇拝しても万葉を模せざる所が、真淵の真淵たる所以なり。云々。
答へて曰く、これも贔屓の引き倒しには非ざるか。真淵が万葉以外に一派を立てた(一派といひ得べきか否か知らず)のはえらしとするも、その一派なる者が万葉より劣りたる者ならんには、何の取得かあるべき。われらは真淵の歌は万葉に劣れりと信ず。むしろ万葉を模倣したらば最ちつと善き歌を得たらんかと思ふなり。故に彼は万葉の味を解せぬかと疑ひしなり。右は短歌の上なれど、長歌に至りては真淵は万葉を模したり。従つてその値打短歌の上にありとわれらは思ふ。難者の如きは真淵の長歌を以て短歌に劣れりとなすにやあらん。しからばわれらとは全く見様を異にするなり。(四月十二日)