二
人間が社会的に生産することにおいて相交渉することによって、ここにひとつの著しい現象が生まれる。すなわち意識の埋没がそれである。従来の唯物論が処理するに最も苦しんだところの、したがってそれらのすべてに対してあらゆる機会において試金石であったところの「意識の問題」は、この現象を根本的に把握することによってのみ無理なしに、具体的に解決され得る、と私は信ずる。
現代の認識論の中心問題は意識である。意識がむしろ今の哲学にとって唯一の、あるいはすべての研究対象を形造っている。それはいかなる哲学も必ず取扱わねばならぬ、最初にして最後の問題であり、それ故に自明なる、永遠なる問題である、と考えられている。しかしながら、我々にとって自明なるものは多くの場合我々にとって悪しき因縁であるものであるに過ぎず、永遠なるものは時として我々にとって宿命であるものを意味する。我々はかくのごときものを支配し得る位置に身をおくのでなければ、我々の学問、また我々の生を発展させることが出来ない。現代の哲学は意識の問題に対してそれを自由になし得る優越なる立場を発見し得るのでないならば、恐らく身動きのならぬ、もはや前進することの出来ぬ状態に固着されてしまうであろう。この状態を脱却するためには、哲学は我々が歴史的破壊的方法と名づけようと欲する特殊なる方法にしたがって、自己の道を開拓してゆかねばならぬ。けだし一切の存在は歴史的であり、歴史的なる存在はすべて我々を解放することから我々を圧迫することにまで必然的に転化する矛盾の存在である。この矛盾を歴史的必然性の根源において把握することが我々の要求する方法である*。
* 我々の学問にとって最も重要な意義を有するこの方法については他の場合に詳論されるであろう。 あらゆる存在は発見された存在である。いかなる存在ももともとから単純にあるのでなく、我々が歴史においてそれに出会いそれを見出して在るのである。意識が哲学の中心に現われて来たには歴史がある。外的社会的生活の一切を排して個人の内面的生活に唯一の、最高の価値をおくキリスト教の宗教的態度において意識は初めてその存在において捉えられたのである。宗教的関心の要求にしたがって、内的世界の実在性と独自性とを明らかにし、意識の事実の無限なる豊富さを顕わにしたのはアウグスティヌスであった。かくして発見され闡明された意識は、デカルトに至って、知識、殊に数学、力学等の認識の確実性の基礎づけに対する関心によって著しい変容に出会った。アウグスティヌスにあっては、意識はそれが精神生活にとって何物かを意味する限りにおいて解明されたに反して、デカルトの意識の解釈は絶えず学的認識に対する支配的なる関心によって導かれている*。カントはさらに、彼においてはまた数学的自然科学の普遍妥当性の権利づけがその中心問題であったのであるが、この関心からそれまでは「存在の領域」であったところの意識を意識一般の概念のもとに「主観」として解釈し直した。それとともに主観はもはや存在の一つであることをやめて、むしろあらゆる存在を向うに廻してそれを統括するという普遍的意味を負うものとなった。最近においてフッサールの現象学は、――彼にとっても数学や形式論理学の認識の理念性のモデルである、――デカルトの物心二元論を排棄しつつ、しかも意識を、アウグスティヌスの場合ではその最も根本的なる規定は神と関係させられて恐怖や欲望として顕わにされたところの意識の存在を、デカルトの Cogito ergo sum の方向に徹底して解釈するとともに、このものにすべての存在がそれに還元されるという普遍的意味を担わせている。このようにして、もともと宗教的内面性とのつながりにおいて見出され、その意味においてその存在を規定された意識は、その後次第にその根源を離れて、純粋なる理論、それも主として形式論理学、数学、自然科学等の基礎づけをなすべき任務を負わされて、ついにその視点からのみ根本的には解釈され闡明されることになった**。この転釈(Umdeutung)の過程において意識は次第に普遍的意味を獲得した。けれどこの普遍的意味は、マルクス的用語における「妖怪的対象性」(gespenstige Gegenstndlichkeit)のうちに横たわっているに過ぎない。かつて人間の生を解放する役目をもっていた意識は、今はそれの固定された妖怪的対象性によって我々を身動きもならず支配する。意識は今や矛盾の存在である。マルクス主義的唯物論はこの矛盾の解決でなければならぬ。
* デカルトとアウグスティヌスとの対立を、デカルトと、彼と同時代に生きていてアウグスティヌスの思想につながっていたパスカルとの対照において眺めることは、我々にとって教訓多きことであるであろう(拙著『パスカルにおける人間の研究』参照)。** 現代の心理学もまた主知的傾向から自由でない。そこでは知覚、表象、注意、思惟などが主なる問題を形成している。これに反して中世の哲学的心理学においては如何であるか。情緒もしくは情念(Passiones)はそれの最も好んで取扱った対象であった。近世の初めに当っても、デカルトやスピノザは、その主知主義的傾向にもかかわらず、また情念について詳細な、卓越した研究を遺している。 我々が足をギリシアの思想世界の中に踏み入れるとき、そこには全く新しい展望が開ける。我々はもはやいわゆる主観の概念に出会うことがない。今日主観と呼ぶ代りにギリシア人は我々(※με※)といった。主観が我々であると同時に、主観の内容としての意識に対して、我々は言葉(λ※γο)として内容を規定された。ギリシア人にとっては人間は本質的に社会的であり、孤独なる人間というがごときはそれ自身矛盾した概念であった。したがって我は最初から我々を意味する。そして社会的である限り、意識はつねにただロゴスによって代表され、むしろロゴスにおいてのみ存在することが出来る。そこで彼らは人間を二重の規定において、すなわち、社会的なる生存(ζ※ον πολιτικ※ν)として、言葉ある生存(ζ※ον λογιστικ※ν)として、最も根本的に規定し得ると考えたのである。社会的に生きる限り、個人の意識は公共的なる存在である言葉の中に埋没する。個人は自己の意識を言葉をもって表現することによって、それの主観性を言葉の中に没入せしめて、それを公共的ならしめることなしには、社会的に交渉し得ない。言葉こそ社会において唯一の現実的なる意識である。人間を歴史的社会的存在として考察したマルクスはいっている、「言葉は意識とともに古い、――言葉は実践的なる、他の人間に対しても存在する、したがって私自身にとっても存在する、現実的なる意識である。そして言葉は、意識と同じく、他の人間との交通の欲望と必要とから初めて、生ずる*。」ここでは運動する空気の層、音、簡単に言えば言葉の形式において現われる物質と結合した精神が意識と考えられたのである。物質を呪う「純粋なる」意識は実践的であることが出来ない。我々はフォイエルバッハにおいても同じような思想を見出すことが出来る、「人間は人間に話すという器官を通じて彼の最も内面的な思想、感情、欲望をみずから進んで伝達する。ところでこの感性的に言い表わされた本質から区別されて、魂、内面、本質そのものは一体何であるのか**。」
* Marx-Engels Archiv, . Bd., S 247.** Feuerbach, Wider den Dualismus von Leib und Seele etc., , 343. それ故に私は進んで言葉が存在に及ぼすはたらきのうち最も注目すべきものに関して研究しよう。言葉はその具体性において社会的である。話すということは、或る人が、或る物について、或る人に対して話すという構造をもっている*。言葉のこの構造によって、語られた物は、語る私のものでもなく、聴く彼のものでもなく、誰という特定の人のものでなく、我々の共同のものになる。このとき存在を所有する者は「我々」であり、「世間」であり、範疇的なる意味における「ひと」(ドイツ語の”man“――フランス語の≪on≫)である。言葉の媒介を通じて初めて存在は十分なる意味で公共的となる。そして世界を相互いに公共的に所有することによってまた初めて社会は成立する。言葉が社会的であるというのは、言葉によって社会が存在するということである。アリストテレスも人間がロゴスをもっていることが彼の特に社会的なる存在である理由だと述べている**。しかるに存在が言葉によって表現されて社会的となり、「ひと」という範疇において成立する世界へ這入って来るとき、それはひとつの著しい性格を担うに到る。我々が存在の凡庸性もしくは中和性と名づけるものがそれである。私がいま机を買いに行くとする。私は家具屋の主人に向って「机をくれ」という。このとき彼は私をただちに理解して、若干の机を取り出して私に示すであろう。彼が私を理解し得るのは机が言葉において中和的にされているからである。家具店よりの帰途私は電車に乗る。車の中には高位高官の人もあるであろう。場末の商人もあるであろう。また悲しみに充てる人もあり、喜びに溢れたる人もあるであろう。しかしながらこの場合それらの人々のすべては乗客という言葉において凡庸化され、むしろこの言葉の見地から経験されるのである。そのとき二、三の空席が車中に見出されるならば、私はそのいずれであるかを構わず私に与えられた席に腰を卸すであろう。それはそれらの空席がすべて空席として中和的にあるからである。存在がかくのごとく中和性においてあることによって、我々の特に社会的なる実践は可能になる。机がもし中和的に存在し得ないならば、商人は机を売り、私は机を買うことは不可能であるであろう。言葉はその根源性において理論的でなくかえって実践的である。存在の凡庸性の現象はこのことを何よりも明らかにする。言葉が本来社会的実践的であるということを理解するのは、ロゴスとともにまず第一に論理あるいは理論を考えることに慣れている今の人々にとって極めて大切である。そのことと関係して、存在の中和性があたかも概念の普遍性に基づくもののごとく見なす普通に行なわれている誤解から、ひとは全く自由にならねばならぬ。私が家具屋と理解し合うのは机という概念の普遍性によるのである、と一般には思われている。しかしながら、私が「机をくれ」というとき、私は抽象的なる、すなわち理論的に普遍的なる机を意味しているのではなく、かえって私は一個の具体的なる、現実的なる机を買おうと欲しているのである。しかもそのとき机という言葉は私が商人の示す種々なる机を選択し吟味した後買って帰るところの全く特定の机をまさに最初から意味しているわけでもない。もしそうであるならば、何故に商人は一個の机の代りに数個の机を取り出し、そして何故に私は選択と吟味を行なうか、は理解し難きことであろう。存在の中和性は概念の抽象性もしくは普遍性によって成立するのでもなく、また反対にそれの特殊性もしくは個別性によって基礎づけられているのでもない。むしろそれは独立なる、具体的なる、しかもそれぞれの存在を表現する。簡単にいえば、それは存在の Jeweiligkeit の謂である。現実のどれでもの存在が凡庸性ということによって意味される。アリストテレスのいうτ※ ※καστονとはかかる性格における存在であって、多くの場合考えられているように個別的なるものの謂ではない。言葉が最初には実践的性質のものであり、そしてこの実践が本質的には社会的性質のものであるところに、存在の凡庸性はその根源をもっている。このとき存在はもちろん交渉的存在である。前段で述べた、「意識―主観」の形式にあってはそれに対するものは客観または対象としての存在であるが、これに反して「言葉―我々」の形式においてそれに対するものは交渉的存在であるのほかない。それ故にギリシア人は物をπρ※γμαという語で表わした。ところで存在の凡庸性において意識の埋没の行なわれることはもとより明らかであろう。我々が存在に対して懐く愛も憎しみも、主観的なるもの、内面的なるものの一切はそこでは埋没してしまい、したがって存在の主観的なる、内面的なる規定はそこでは隠され蔽われてしまう。けれどもかくして失われるものに比して得られるものは一層大であるであろう。人間の社会的なる、実践的なる規定はそこにおいて発揮され、満足させられることが出来るのである。しかしながら、最も注意すべきことには、かつてはこのように人間の社会性を発展させることに役立ち得た存在の凡庸性は、今ではそれの発展に対する桎梏にまで転化した。かかる転化が行なわれるためには、現実の存在そのものの構造においてすでに重大な変化が成就されていなければならない。けだし近代における存在の凡庸化の原理は商品である。商品が次第に支配的範疇となり、ついには普遍的範疇となるに及んで、存在の凡庸性は人間の社会性の発展を拘束し、妨害することにまで到達した。存在の凡庸性はかくして矛盾に陥り、それとともにロゴスもまた同じ矛盾に陥らねばならなかった。我々はこのことについて考察を試みるであろう。
* アリストテレスは言葉が三つのものから結合されていることをすでに述べている。すなわち第一には話す人(※ λγον)、第二にはそれについて彼が話すところのもの(π※ρ※ ο※ λγ※ι)、第三にはその人に対して彼が話すところの人(πρ※ ※ν)。Aristoteles, Ars rhetorica, A. 3.** Derselbe, politica, A. 2. 資本主義社会の全体を明らかにし、それの根本的性格を示そうとした、マルクスの二つの大なる、成熟した著作が、ともに商品の分析をもって始められているのは偶然でない。社会とは近代においては現実には商品生産社会である。人類の発展の現段階にあっては、いかなる問題も、それの究極の分析は必ず商品を指し示し、それの最後の謎はつねに商品の構造のうちに横たわっている。商品の問題は特殊科学としての経済学の特殊問題ではなく、さらにそれの中心問題であるばかりでなく、かえって資本主義社会そのものの全体的なる問題である。商品の構造はこの社会におけるあらゆる存在の対象性の形式の原型である。この社会的特性に応じて、存在の凡庸化の傾向は極限にまで推し拡げられる。そしてそれに応じて意識は我々の現実の生活からますます埋没し、かくて存在の物質化はいよいよ支配的となる。そこでは人間の労働、その最も内面的なるものも、一個の商品に過ぎない。最も物質的なる労働といえども、もとよりそれが精神的なる意味を有し得ることを妨げるものではない。或る時は他に仕えて他のために働くということが、一つの道義的精神の現われであることもあったであろう。しかるに商品が全体の社会的存在の普遍的範疇として支配する資本主義社会においては、単に人間相互の間の意識的なる関係のみならず、一切の社会的関係そのものが埋没し、没入してしまう。商品の構造の本質は人間の間の関係が物質性の性格をえ、かようにしてこのものにそれ自身の厳密な法則性において人間の間の関係の一切の痕跡を隠蔽するところの、かの妖怪的対象性を賦与するところに存在する。本来おのおのの労働は社会的全体的労働の一部分であり、そしてそれらのすべての部分は互いに依存する。ところがそのことは、我々の社会においては、事実上は相互のために働くところの人間の間の社会的連関は、我々の眼に隠されてしまうような形式において、行なわれているのである。資本主義の世界においては人間の間における労働結合は眼に見えぬものである。それは何によってであるか。事物がすべて商品の形態をとり、市場において運動し、そして人間が合理的に市場を支配するのでなく、かえって市場がその価格をもって人間を支配しているからである。人間の間の関係はかくのごとくにして商品の間における関係として現われる。これがまさにマルクスが「商品の魔術性」(Fetischcharakter der Ware)と呼んでその秘密を暴露したところのものの意義である。彼は次のごとく記している、「商品形態の全秘密はそれ故に単純に、それが人間に彼ら自身の労働の社会的性質を、労働生産物そのものの対象的性質として、これらの物の社会的なる自然性質として反射し、かくしてまた総労働に対する生産者の社会的関係を、彼らの外部に存在する対象の社会的関係として反射するところに横たわっている。この quid pro quo によって、労働生産物は商品、すなわち感性的に超感性的なる、あるいは社会的なる物となる。……ここに人々の眼に物と物との関係の幻想的形態を採って映ずるものは、ただ人間自身の一定の社会的関係にほかならない*。」商品の世界のこの魔術的性質は、商品を生産する労働の特有なる社会的性質から生ずるのである。この根本的事実によって、その背後に真実には人間の相互的労働が隠れている事物の運動は自己の法則にしたがって固有の運動をし、そして逆に人間を支配するに到る。それによって、人間に彼自身の活動、彼自身の労働が或る客観的なるもの、彼から独立なるもの、すなわち商品として、彼を人間とは縁なき自身の法則性によって支配するものとして対立することとなる。簡単に言えば、人間は人間みずからの作ったものによって支配される。ここにおいて「人間の自己疎外」(die menschliche Selbstentfremdung)は成就される。資本主義社会の特質は存在の凡庸化がかくのごとき自己疎外において普遍的に完成するところにある。
* Das Kapital, , 38-39. この社会にあって無産者的存在の可能性はいかなるものであろうか。社会的存在の客観的現実性は、それの直接性においては、無産者にとっても有産者にとっても「同一」である。けだし無産者は資本主義的社会秩序の必然的産物として現われる。一切の生のかの物質化をそれ故に無産者は有産者と共同に分有する。しかしながら両階級がこの同一なる直接的現実性を、それの媒介性において、本来の客体的現実性にまで高める範疇は、両階級の存在の存在の仕方の相異なるにしたがって、根本的に相異なるものでなければならぬ。マルクスはこのことを次のごとき明瞭な言葉をもって言い現わしている、「有産階級と無産者の階級とは同一の人間的自己疎外を現わす。しかし第一の階級はこの自己疎外において幸福さと確実さを感じ、この疎外を彼自身の力として知り、そしてそれにおいて人間的存在の仮象を所有する。第二のものはこの疎外において否定されたのを感じ、それにおいて彼の無力と非人間的存在の現実性を見る。」彼はさらに我々に語る、「一切の人間性からの、人間性の仮象からさえもの抽象は、発達したプロレタリアートにおいて実践的に完成されているが故に、プロレタリアートの生活条件のうちに、今の社会のすべての生活条件はそれの最も非人間的頂点において総括されているが故に、人間はプロレタリアートにおいて自己自身を亡失しており、しかしながら同時にこの亡失の理論的意識を獲たのみならず、またもはや拒むべからざる、もはや掩うべからざる、絶対的に命令するところの窮迫に――必然性の実践的表現に――よって直接的に、この非人間性に対する叛逆にまで余儀なくされているが故に、それ故にプロレタリアートは自己を解放し得るし、また解放せざるを得ぬ*。」このようにして、同じ直接的現実性に対して相反する二様の実践的態度が可能となる。有産者はこの社会の自己疎外において彼らの存在を肯定されているから、その存在の必然性にしたがって、この疎外の現象形態をそれの資本主義的地盤から、したがってそれの歴史性から游離せしめて、それを独立のものとし、そしてそれを――商品形態において構造づけられた人間の間の関係を――人間の関係の可能性一般の無時間的なる典型として永遠化する。かくのごとき永遠化は一応可能であるかのごとく見える。なぜなら今や商品の構造は社会的存在一般の対象性の原型として普遍的意味を担うことにまで到達したからである。そこで彼らはこの永遠化を実現するためにいわゆる「永遠なる」イデオロギーを打ち建て、いわゆる「普遍妥当的なる」理論を築き上げる。真実を言えば、このそれ自身抽象的なる永遠性もしくは普遍妥当性は、商品における人間の自己疎外の、人間性そのものからの抽象の反映にほかならない。資本主義の発展の過程において、商品の構造は絶えず一層深く、一層運命的に、一層構成的に人間の意識の中にはいってゆく。あらゆるロゴスは商品の範疇の普遍的なる、決定的なる支配のもとに、人間から抽象された、したがって現実の存在から游離された、悪しき意味におけるイデオロギーに移り変ってゆき、かくして逆に人間性の発展を抑制し、圧迫する。しかしながら有産者にはこのようなイデオロギーを批判する可能性がその存在のうちに与えられていない。なぜかならば彼らの存在はそこにおいて直接に肯定されており、それ故に存在を過程において、歴史において考察することが拒まれているからである。これに反して、無産者は現在の社会においてその存在が否定されているが故に、まさしくその否定性の故に、存在を運動性において、歴史性において把握することが出来、また把握せざるを得ない。彼らはいわゆる永遠なる理論が資本主義社会の歴史的条件の上に立っていることを理解する。「支配階級の思想がおのおのの時代において支配的なる思想である**。」彼らはいわゆる普遍妥当的なるイデオロギーが有産者階級のイデオロギーに過ぎないことを理解する。プロレタリアートは、その存在の必然性にしたがって、必然的に批判的である。私はさらにこの批判の特性、そしてそれと関係して、マルクス主義的唯物論の特性を見るであろう。
* Die Heilige Familie oder Kritik der kritischen Kritik, Nachlass, Band, S. 132-133.** Marx-Engels Archiv, , 265.