死語となつた「言文一致」
「言文一致」といふ言葉は、今では既に推移し去つた過去のものになつてしまつてゐる。死語になつた感がある。その役目をすまし、次ぎの段階に移り進んで死んで脱殻になつてしまつたのである。
私は時折、日本の文章が、この半世紀の間に急流の勢ひで変遷して、今日の姿になつて来た跡が思ひ出される。言葉の生死もそれにつれて激しかつた。これはもとより止る処なき進歩の跡だ。固い殻、型にはめられてゐた境から、その古い殻を割つて、どこまでも心の動きを言葉に移して表さうとする意慾の激流が、この変遷を作り、今日が到来したのである。これに口火をつけた或る人々はあつたとしても、実は吾が民族の精神の活躍、心の煥発の実に若々しい力が求めて進んだ結果であると、思はざるを得ない。
「言文一致」の着手実行は、際立つた文体変遷の初ではあるが、流れのはじまりではない。これは明治文学史家の各々が何れも詳しく説明してゐる事実で、改めて言はなくつてもいい事と思ふが、簡単に私なりの考へも述べて見たい。
文章に対する国字或ひは表現の問題は、既に明治の初めから、いろいろの学者に依つて称へられ始めてゐた。これは決して欧米文化の模倣からではなく、新文化の移入に従つて、従来破る可からざる殻のやうに思はれてゐた表現形式に対する自覚が生じたのに因るものと見られる。これは当然生るべき自覚ではあつたらうが、時を隔てた今日からそれを振り返つて見ると、如何にも慧敏な心の動きで、それ等の憂悶を心に抱いた先人に対し、尊敬を禁じ得ないものがある。しかし、その主張をいろいろの書で読んで見ると、それらの文章が悉く旧い表現の「漢文」読み下し体のものなので、それらの意見が一つの机上の理づめの主張か、感能不随の心から生じたものかといふ疑ひが生ずる。さう考へたと言ふばかりで、それを現前する表現に移し得なかつたのが全く、思慮と行動とに有機的の働きがなかつたあとを見せてゐる。感能不随と見えるのはこの点である。
かういふ不思議なほどの矛盾には、明治の御代を越えて大正年代になつてからでさへ、私も面をつきあはせた覚えがある。それはローマ字を国字に採用する陳情書の趣旨が出来てゐて、それの末席に署名をするといふ場合であつた。ローマ字を国字にしようといふ位の意気ごみを書くのに、極めて生硬な漢文体の古い表現で文章が書いて有つた。その文章をローマ字書きにしたらば、何人もその意味を了解するやうには読めなかつたらう。それに対して会の主脳の人達は皆署名してゐられたので、私は深く考へさせられた事がある。それはもう日本の文章がはるかに複雑になり自由に表現出来る大正の年代だつたのであつた。
この時には、私はつくづくそれに連つて署名する事が躊躇された。この意見書はどう考へて見てもローマ字で日本の言葉を書かうといふ心になり切つてゐる人の書いたものではなく、全く実行とは干はりのない空言に思はれたからであつた。かういふ自分の覚えから思ひ合せて見ると、明治の初めの頃の国字論、新文体論などの主張者の心持と実行との間の矛盾に就いての心理が、幾分かはつきりと考へられるやうだ。必要を感じてはゐる、しかし自分は習慣のままでやつてゐるといふ事で尽きてゐる。万事が新しい初めの黎明期であらうがどうであらうが、一つの主張が実行に移されないままで公けにされるといふ事は、自ら所論を裏切つたもので、不完全でも実際に行ひつゝ主張されるのでなければ、夢を談るのと同じ事になるのではないだらうか。
これが実行に移されたのは物集高見の「言文一致」がまづ初めらしい。それは明治十九年に公けにされたものでたどたどしいながら口語体の文章で書かれてゐる。処でこれらの考照、取り調べは史家に譲るべきだ。しかしこれら先覚の考慮の跡を見る時に、私どもは切実な感銘をもつてその時代の「心の悩み」に触れるのである。何か一面に汪洋として新しい眼界が展け、そこからの未知の新しい流れが流れこみ、心がそれに向つて激しい鼓動をして――さぞ黎明の初々しい勇ましさが有つた事であらう――ゐる時に、自分たちの表現は古い殻の中に閉ざされて、唖のやうな口しか持つてゐない――この矛盾から来る苦悩が時を隔てた今日でも明かに感じられるのである。そしてこの苦悩の生じる心は、全く慧敏で、尊敬すべき飢ゑであつた。しかもこれは単なる文章表現の一つだけの事でなく、その後半世紀の間に日本が内部で伸び育ち、肥え太つた万般の事の上に働いた知性の表れの一面でもあるのをよく教へられる。