Chapter 1 of 10

伝説一

隙行く駒の足早くて午の歳を迎うる今日明日となった。誠や十二支に配られた動物輩いずれ優劣あるべきでないが、附き添うた伝説の多寡に著しい逕庭あり。たとえば羊は今まで日本に多からぬもの故和製の羊譚はほとんど聞かず。猴の話は東洋に少なからねど、欧州に産せぬから彼方の古伝が乏しい。これに反し馬はアジアと欧州の原産、その弟ともいうべき驢はアフリカが本元で、それから世界中大抵の処へ弘まったに因って、その話は算うるに勝えぬほどあるが、馬を題に作った初唄唱う芸妓や、春駒を舞わせて来る物貰い同然、全国新聞雑誌の新年号が馬の話で読者を飽かすはず故、あり触れた和漢の故事を述べてまたその話かと言わるるを虞れ、唐訳の律蔵より尤も目出たい智馬の譚を約説して祝辞に代え、それから意馬の奔るに任せ、意い付き次第に雑言するとしよう。智馬の譚は現存パーリ文の『仏本生譚』にも見えるが、唐訳律中のほど面白からぬようだ。

『根本説一切有部毘奈耶』にいわく、昔北方の販馬商客五百馬を駆って中天竺へ往く途上、一の牝馬が智馬の種を姙んだ。その日より他馬皆鳴かぬから病み付いた事と思いおった。さていよいよ駒を生んでより馬ども耳を垂れて嚏噫にも声せず、商主かの牝馬飛んだものを生んでわが群馬を煩わすと悪む事大方ならず、毎もこれに乗り好き食物を与えず。南に行きて中国境の一村に至ると夏雨の時節となった。雨を冒して旅すれば馬を害すればとて、その間滞留する内、村の人々各の手作りの奇物を彼に贈ったので、雨候過ぎて出立しようという時見送りに来た村人に、前日くれた品に応じてそれぞれ物を与えた。これは熊楠も旅行中しばしば経験ある事で、入りもせぬ物を多く持ち来てくれるは至って親切なようだが、その実盗人の昼寝で宛込があるので、誠に返礼の心配が尋常でない。ところがその村に瓦師あり、先に瓦器を商主に贈った。今彼去らんとすと聞き、その婦これに告いて、君も見送りに往って礼物を貰うがよい、上げたのはわずかの物だが先方は憶え居るだろといった。瓦師そこで泥を円めて吉祥印を作り、持ち行きて商主に訣れると、何故遅く来たか、荷物は皆去ってしまった、気は心というから、何か上げたいものと考えた末、かの新たに生まれた駒こそ災難の本なれ、これがよいと気付きこれでも将ち去かんかと問うた。瓦師どう仕りまして、それを私方へ将れ往いたら瓦器が残らず踏み砕かれましょうと辞む。爾時かの駒跪いて瓦師の双足を舐ったので可愛くなり受け取って牽き帰ると、自分の商売に敵するものを貰うて来たとてその妻小言を吐く事夥し。それを聞いて駒また妻の双足を舐り跪くと妻も可愛く思う。駒は起ちてあるいは固まりあるいはいまだ固まらぬ諸多の瓦器の間を行き旋るに一つも損ぜず。珍しく気の付いた駒と妻が感じ居る。この時瓦師土を取りに出ると駒随い行き、その土を袋に満ててしまうを見て背を低くす。袋を載せると負うて宅へ還る。因ってこれを留め糠に胡麻滓を和ぜて飼い置いた。

その頃婆羅尼斯の梵授王一の智馬を有したので他国賓服した。しかるにその馬死んだと聞き他国より使来り、王今我国へ税を払え、払わずば城より外出を許さぬ、外出したら縛って将れ行くという。王聞きて税を払わず外出せなんだ。時に販馬商人北方より馬多く伴れ来た。王大臣に告うたは、我智馬の力に由って勝ち来ったに、馬死んでより他に侮られ外出さえ出来ぬ、何所かに智馬がないか捜して来いと。大臣相馬人を伴れ、捜せど見当らず。かれこれする内かの牝馬を見て、相馬人これこそ智馬を生んだはずだといった。大臣馬主に問うて、その牝馬が産んだ駒は瓦師方にありと知り、人を使して車牛と換えんというも応ぜず、使は空しく還る。智馬は畜類だが知識人に過ぎ、能く臨機応変しまた人と語る。今使去るを見て瓦師に告えらく、我を終身こんな貧家に留め、糠滓を食わせ、土を負わすべからず、わが本分は灌頂位を受けて百枚の金蓋その身を覆う刹利大王をこそ負うべけれ、我食時には、雕物した盆に蜜と粳米を和ぜて入れたのを食うべきだ、明日また使が来たらこう言いなさい、瓦師は物を識らぬと侮って、智馬と知りながら知らぬ真似して凡馬の値で買うとは黠い、誠欲しいなら一億金出すか、僕の右足で牽き来り得る限り袋に金を入れてくれるかと言うべしと教えた。翌日大臣相馬人を伴れて掛合に来ると、瓦師馬の教えのままに答えたから評定すると、諸臣一同この瓦師は大力あるらしいから足で牽かせたら莫大の金を取るだろう、いっそ一億金と定めるがよいと決議し王に白し、王それだけの金を遣わして馬を得、厩に入れて麦と草を与えると食わず。王さては病馬かと言うと、掌馬人かの馬決して病まずと答え、厩へ往きて馬に対い、汝は瓦師方にありて碌に食料をくれず骨と皮ばかりに痩せて困苦労働したるに、今国王第一の御馬に昇進しながら何を憂えて物を食わぬかと問うた。馬答うらく、我足迅く心驍勇で衆人に超えた智策あるは汝能く知る、しかるに愚人ら古法通りに我を待遇せぬ故活きいるつもりでないと。掌馬人これを聞いて王に勧め、古法通り智馬を遇せしめた。その法式は王城より三駅の間の道路を平らに治め、幡と蓋で美々しく飾り、王親ら四種の兵隊を随えて智馬を迎え、赤銅の板を地に畳み上げて安置し、太子自ら千枝の金の蓋をげその上を覆い、王の長女金と宝玉で飾った払子で蚊や蠅を追い去り、国大夫人蜜を米に塗り金盤に盛り自らげ持ちて食わせ、第一の大臣は一番貧乏鬮で親ら金の箕を執りて智馬の糞を受けるのだ。王それでは馬を王以上に崇めるので大いにわが威を堕すと惟うたが、智馬が自分方におらぬとさっぱり自分の威がなくなるから詮方なく、なるほどこれまでの致し方は重々悪かった、過ぎた事は何ともならぬ、これから古法通りにしましょうと詫び入りて、厩に赤銅板を布き太子に蓋、王の長女に払子、大夫人に食物を奉ぜしめると、大臣も不承不承慎んで馬の糞を金箕で承ける役を勤めたとあらば、定めて垂れ流しでもあるまじく、蜀江の錦ででも拭うたであろう。かく尊ばれて智馬満足し始めて食事した。

さて王が苑に遊ぼうと思い智馬を召すと、すなわち背を偃くす。王これは背に病があるのかと問うに、御者答えて王の乗りやすいように背を偃くし居るという。王それに乗って河辺に至れば馬進まず。水を怖るるのかと問うに、尾が水を払うて王に懸るを恐ると答えた。即てその尾を結び金嚢に盛り、水を渉って苑に至り遊ぶ事多日。予てこの王を侮り外出したら縛りに往くと言い来った四遠の諸国、王が城を出で苑に住まると聞き大兵を興し捉えに来る。王城へ還らんとする中途に、蓮花咲き満ちた大池ありて廻り遠い。しかるを智馬身軽く蓮花を踏んで真直ぐにそろそろ行きながら早く城に入り得たので敵は逃げ散ってしまった。王大いに喜び諸臣に告えらく、もし能く灌頂刹帝大王の命を救う者あらば何を酬うべきやと。諸臣さようの者には半国を与うべしと白す。ところが畜生に、国を遣っても仕方がないから智馬を施主として大いに施行し、七日の間人民どもの欲しい物を好みの任に与うべしと勅諚で無遮大会を催した。販馬商主これを見て、何の訳で大会を作すやと問う。諸人答えて曰く、爾々の地である人が一の駒を瓦師に遣った、それが希代の智馬と知れて王一億金もて瓦師より買い取ると、今度果して王の命を活かし、その謝恩のための大会じゃと。商主聞きおわって、どうやら自分が瓦師に遣った駒の事らしく思い、王の厩へ往きて見れば果してしかり。智馬商主に向い、貴公が遥々将れて来た馬五百疋がいかほどに売れたか、我は一身を一億金に売って瓦師に報じたという。さては大変な馬成金に成り損なったと落胆の余り気絶する。その面へ水を灑いでやっと蘇り、何と悔いても跡の祭と諦め、これというもわれ尊公を智馬と知らず悪み虐げた報いですと、馬の足を捧げ申謝して去った。その商主は侍縛迦太子、智馬は周利槃特の前身だったから、現世にもこの太子が周利槃特を侮り後懺謝するのだと、仏が説かれたそうじゃ。

梵授王が智馬を有する間は隣国皆服従し、智馬死すると聞いてたちまち叛き去ったとは信られがたいようだが、前達て『太陽』へ出した「戦争に使われた動物」てふ拙文中にも説いた通り、昔は何地の人も迷信重畳しおり、したがって戦術軍略の多分は敵味方の迷信の利用法で占められ、祥瑞の卜占のという事兵書筆を絶えず。されば何がな非凡異常の物を伴れ行かば敵に勝つを得たので、近時とても那翁三世が鷲を馴らして将士の心を攬ったり、米国南北戦争の際ウィスコンシンの第八聯隊が鷲を伴れ往きて奮闘し、勝利事果てその鷲をその州賓として養い、フィラデルフィアの建国百年祝賀大博覧会へも出して誇り、長命で終った遺体を保存して今も一種の敬意を表し居る。まして馬には時として人に優った特性あるのもあれば、弱腰な将士の百千人にずっと勝れた軍功を建つるもあり。それに昔は人毎に必ず畜生に勝るてふ法権上の理解もなかった(ラカッサニュの『動物罪過論』三五頁)。したがって人間勝りの殊勲ある馬を人以上に好遇し、甚だしきは敵味方ともこれを神と視て、恐れ崇めたのだ。

馬に人勝りの特性ある事は後文に述べるとして、ここには少々馬を凡人以上に尊重した例を挙げんに、宋の姚興その馬を青獅子と名づけ、時に同飲してわれ汝と同力報国せんと語る。後金兵来寇するに及び、所部四百騎もて十余戦せるも、大将王権はまず遁れ、武将戴皐は来り援わず、興ついに馬とともに討死せるを朝廷憫んで廟を建てた。それへ絶句を題する者あり、いわく、〈赤心国に許すは平時よりす、敵を見て躯を捐ててさらに疑わず、権は忌み皐は庸にして皆遁走し、同時に難に死すは只青獅のみ〉と。いかにも感慨無量で折角飲んだ酒も醒めて来るが、暫くするとまた飲みたくなりゃこそ酒屋が渡世が出来る理窟故ますます感心する。晋の司馬休、敵に殺さるべきを一向気付かず、その馬食事をやめて鞍に注目するを見て乗り試むるとすなわち急に十里奔り、後を見れば収兵至った、かくて難を免れた酬いにその馬に揚武と加号した。東漢の主劉旻、戦敗の節乗って助かった馬を自在将軍と称え、三品の料を食わせ厩を金銀で飾った。その他哥舒翰がその馬赤将軍の背に朝章を加え、宋徽宗がその馬に竜驤将軍を賜うたなど支那にすこぶる例多いが、本邦にも義経五位尉に成れた時かつて院より賜わった馬をも五位になす心で太夫黒と呼んだなど似た事だ。欧州にも、アレキサンダー王の愛馬ブケファルスは智勇超群で、平時は王の他の人をも乗せたが、盛装した時は王ならでは乗せず。テーベ攻めにこの馬傷ついたから王が他馬に乗ろうとすると承知せずに載せ続けたというほど故、その死後王これを祀りその墓の周りに町を立てブケファラと名づけた。ギリシアのオリンピヤの競争に捷った三の牝馬は死後廟を立て葬られた。ローマ帝カリグラは愛馬インシタツスを神官とし邸第と僕隷を附け与えた。かかる例あれば梵授王の智馬の話も事実に拠ったものと見える。

さて智馬と同類ながら譚が大層誇大されたのが、仏経にしばしば出る馬宝の話だ。転輪聖王世に出でて四天下を統一する時、七つの宝自ずから現われその所有となる。七宝とはまず女宝とて、膚艶に辞潔く妙相奇挺黒白短なく、肥痩所を得、才色双絶で志性金剛石ほど堅い上に、何でも夫の意の向うままになり、多く男子を産み、種姓劣らず、好んで善人を愛し、夫が余女と娯しむ時も妬まぬ、この五つの徳あり。また多言せず、邪見せず、夫の不在に心を動かさぬ、三つの大勝あり。さて夫が死ねば同時に死んでしまうそうだから、後家にして他人へかかる美婦を取らるる心配も入らぬ重宝千万の女だ。それから珠宝、輪宝、象宝、馬宝、主兵宝、長者宝という順序だが、女宝の講釈ほどありがたからぬから一々弁ぜず、馬宝だけの説明を為さんに、これは諸経に紺青色の馬というが、『大薩遮尼乾子受記経』にのみ白馬として居る。日に閻浮提洲を三度匝って疲れず王の念うままになって毎もその意に称うという(『正法念処経』二、『法集経』一)。『修行本起経』に紺馬宝は珠の鬣を具うとあるもこれだ。紺青色の馬はあり得べからぬようだが、これはもと欧亜諸国に広く行わるる白馬を尊ぶ風から出たらしい。白馬が尊ばるる理由は、多般だがその一を述べると、明の張芹の『備辺録』に、兵部尚書斉泰の白馬極めて駿し、靖難の役この馬人の目に立つとて墨を塗って遁げたが、馬の汗で墨が脱ちて露顕し捕われたとある通り、白馬は至って人眼を惹く。したがって軍中白馬を忌む。しかるにまた強いと定評ある輩がこれに乗ると、同じく敵の眼に付きやすくて戦わぬ内に退いてしまう。『英雄記』曰く、〈公孫辺警を聞くごとに、すなわち色をくし気を作して、讎に赴くがごとし、かつて白馬に乗り、また白馬数十匹を揀び、騎射の士を選ぶ、号づけて白馬義従と為す、以て左右翼と為して、胡甚だこれを畏る〉。『常山紀談』に、勇士中村新兵衛、平生敵に識れ渡りいた猩々緋の羽織と唐冠の兜を人に与えて後戦いに臨み、敵多く殺したが、これまで彼の羽織と兜を見れば戦わずに遁げた敵勢が、中村を認めずこれを殺してしまった。敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を輝かし気を奪い勢いを撓ますの理を暁るべしと出づ。この理に由って白馬は王者猛将の標識に誂え向きの物ゆえ、いやしくも馬ある国には必ず白馬を尊ぶ。

『礼記』に春を東郊に迎うるに青馬七疋を用いるの、孟春の月天子蒼竜(青い馬)に乗るなどとあり。わが朝またこれに倣うて、正月七日二十一疋の白馬を引かれ、元の世祖は元日に一県ごとに八十一疋の白馬を上らしめ、その総数十万疋を越えたという。白馬節会の白馬を青馬と訓ますを古く不審しく思うた人少なからぬと見え、平兼盛が「ふる雪に色もかはらて曳くものを、たれ青馬と名け初けん」と詠んだ。しかるにその雪や白粉も、光線の工合で青く見えるから白を青と混じ呼んだらしい(「白馬節会について」参照)。さて高山雪上に映る物の影は紫に見える故、支那で濃紫色を雪青と名づく(一九〇六年二月二十二日の『ネーチュール』三六〇頁)。光線の工合でインド北方の雪山など紺青色に見えるはしばしば聞くところで、青と等しく紺青色も白と縁薄からねば、白馬の白を一層荘厳にせんとて紺青色の馬を想作したのだろう。タヴェルニェーなどの紀行に見ゆるは、インド人はしばしば象犀や馬を色々彩って壮観とする由。支那で麒麟は五彩を具うなどいうもこんな事から起ったらしく、かかる異色の畜類を見てその人為に出るを了らぬ人々は、必ず紺青色の馬も自然に存在すと信じたであろう。

仏典に載った馬譚を今一つ二つ挙げよう。『大荘厳経論』にいわく、ある国王多く好馬を養う。隣国王来り戦いしがその好馬多きを知り、とても勝てぬと諦め退去した。かの王惟えらく、敵国既に退いた上は馬が何の役にも立たぬ、何か別に人の助けになる事をさせにゃならぬと。すなわち勅して諸馬群を分ちて人々に与え、常に磨挽かしめた。その後多年経て隣国また来り侵す。すなわち馬どもを使うて戦わしむるに、馬は久しく磨挽きばかりに慣れいたので、旋り舞い行きあえて前進せず。捶てば打つほどいよいよ廻り歩き、戦争の間に合わなんだと。知れ切った道理を述べた詰まらぬ話のようだが、わが邦近来何かにつけて、こんな遣り方が少ないらしくないから、二千五百年前のイソップに生まれ還った気になり、馬譚を仮りて諷し置く。それからラウズ訳『仏本生譚』に、仏前生かつてビナレスの梵授王に輔相たり。王の性貪る。悍馬を飼いて大栗と名づく。北国の商人五百馬を伴れ来る。従前馬商来れば輔相これに馬の価を問い答うるままに仕払って買い取るを常例とした。しかるに王この遣り方を悦ばず、他の官人をしてまず馬商に馬価を問わしめ、さて大栗を放ちてその馬を咬ましめ、創つき弱った跡で価を減ぜしめた。商主困り切って輔相に話すと、輔相問う、汝の国許に大栗ほどの悍馬ありやと。馬商ちょうどその通りの悪馬ありて強齶と名づくと答う。そんなら次回来る時それを伴れて来いと教えた。その通りに伴れて来たのを窓より見て王大栗を放たしむると、馬商も強齶を放った。堅唾を呑んで見て居ると、二馬相逢いて傾蓋旧のごとしという塩梅に至って仲よく、互いに全身を舐り合った。王怪しんで輔相に尋ねると、同じ性の鳥は群団して飛び、この二馬は一和して住まる、これ両ながら荒くて癖が悪く、毎も絆を咬み切る、罪を同じゅうし過ちを斉しゅうする者は必ず仲がよいと答え、王を諫め商主と協議して適当の馬価を償わしめたとある。これも根っから面白からぬ話だが、これに関して、いささか面黒い事なきにしもあらず。皆人が知る通り、誰かが『徒然草』の好い注解本を塙検校方へ持ち行きこの文は何に拠る、この句は何より出づと、事細かに調べある様子を聞かすと、検校『徒然草』の作者自身はそれほど博く識って書いたでなかろうと笑った由。あたかも欧米に沙翁学を事とする人多く、わずか三十七篇の沙翁の戯曲の一字一言をも忽せにせず、飯を忘れ血を吐くまでその結構や由来を研究してやまず。雁が飛べば蝦蟆も飛びたがる。何の事とも分らぬなりに予も久しくこれに関して読み書きしおり、高名の人々から著述を送らるる事もあり。つらつら考うるに、かようの研究を幾ら続けたって三百年前に死んだ人が真実何と考え何に基づき何を欲してこの句かの語を筆したかは知るべからず。知り得るにしてからが何の益なし。だが古今東西情は兄弟なれば、かく博く雑多の事を取り入れて書いた物を、かくまで多くの学者が立ち替り入れ替り研究して出す物どもを読むは、取りも直さず古今東西の人情と世態の同異変遷を研究するに当るらしいので、相変らず遣り続け居る内には多少得るところなきにあらず。既に一昨年末アッケルマンてふ学者が『ロメオとジュリエ』の「一の火は他の火を滅す」なる語は、英国に火傷した指を火を近づけて火毒を吸い出さしむる民俗あり、蝮に咬まれた処へその蝮の肉を傅けて治すような同感療法じゃ。また「日は火を消す」てふ諺もある。沙翁はこれらに基づいて件の語を捻り出したものだろう。このほかにしかるべき本拠らしいものあらば告げられよと同好の士に広く問うたが、対うる者はなかったから予が答えたは、まず日月出でて※火息まずと支那でいうのが西洋の「日は火を消す」と全反対で面白い。さて『桂林漫録』に日本武尊駿河の国で向火著けて夷を滅ぼしたまいし事を記して、『花鳥余情』に火の付きたるに此方よりまた火を付ければ向いの火は必ず消ゆるを向火という。そのごとく此方より腹を立て掛かれば人の腹は立ちやむものなりとあるを引き居る。今も熊野で山火事にわざと火を放って火を防ぐ法がある。予は沙翁がこれら日本の故事を聞き知ってかの語を作ったと思わぬが、同様の考案が万里を距てた人の脳裏に各の浮かみ出た証拠に聢と立つであろうと。かく言い送って後考うると、仏説の悍馬は悍馬を鎮めた話もやや似て居るを一緒に言いやらなんだが遺憾だ。

英語で蜻を竜蠅(ドラゴン・フライ)と呼び、地方によりこの虫馬を螫すと信じてホールス・スチンガール(馬を螫すもの)と唱う。そは虻や蠅を吃いに馬厩に近づくを見て謬り言うのだろう。さて竜蠅とは何の意味の名かしばしば学者連へ問い合せたが答えられず。『説郛』三一にある『戊辰雑抄』に、昔大竜大湖のに蛻ぎ、その鱗甲より虫出で頃刻して蜻の朱きに化る、人これを取れば瘧を病む、それより朱蜻を竜甲とも竜孫ともいい敢えて傷わずと載せたを見て、支那でもこの物を竜に縁ありとするだけは解り、その形体威めしくやや竜に似て居るから竜より生じたという事と想いいた。その後一九一五年版ガスターの『羅馬尼鳥獣譚』十四章を覧るとこうあった。いわく、ルーマニア人は蜻を魔の馬という、また多分竜の馬ともいうであろう、一名聖ジョージの馬ともいいこの菩薩は毒竜退治で名高い、この名の起りを尋ぬるに、往古上帝常に魔と争うたが、上帝は平和好き故出来るだけ魔を寛宥してその乞うままに物を与えた、しかるに魔悛めず物を乞い続けてやまず、上帝耐え兼ねて天人多く集め各々好馬を与えある朝早くこれに騎りて魔と戦わしめた。聖ジョージは無類の美馬に乗って先陣したが、急にその馬退却し出し、他の諸馬これに倣うて各退却してその後の馬を衝いた。爾時上帝高声で聖ジョージに、汝の馬は魔に魅された早く下りよと告げ、聖しかる上はこの馬魔の所有物たれと言いて放ちやると、三歩行くや否やたちまち虫と化って飛び去った、それからこの虫を魔の馬と名づく、蜻の事だというと。ガスターこれを註していわく、このような伝説が西欧と英国にもあったに相違ない、そうなくては、竜の蠅てふ英語は何の訳か分らぬ、想うにこの神魔軍の物語に、以前は神軍より聖ジョージ、魔軍より毒竜進み出で大立廻りを演じ、両軍鳴りを鎮めて見物し竜ついに負けたてふ一節があって、その竜が蜻と化ったとか、聖ジョージの馬は翼あって飛び得たとかあったのが、いずれも忘れ落されしまったものかと。熊楠惟うに、ルーマニア人も支那人と同じく蜻の形を竜に似た者と見しより右様の咄も出来たので、林子平が日本橋下の水が英海峡の水と通うと言ったごとく、従来誰も解せなんだ蜻の英国名の起原が東欧の俗譚を調べて甫めて釈り、支那の俚伝がその傍証に立つ、これだから一国一地方の事ばかり究むるだけではその一国一地方の事を明らめ得ぬ。

昔オランダ国で何度修めても砂防工事の成らぬ所あり。その頃わが邦へ渡ったかの国人が、奥羽地方で合歓木をかかる難地へ植えて砂防を完成すると聞き、帰国の上官へ告げて試むると果して竣功したという。この事業上の談同然に学問上にも西洋人に解らぬ事で、わが邦で解りやすいのが多くある。三十年ほど前フレザーが『金椏篇』を著わして、その内に未開国民が、ある年期に達した女子を定時幽閉する習俗あるは、全く月経を斎忌するに因ると説いたのを、当時学者も俗人も非常の発見らしく讃め立てたが、実はわが邦人には見慣れ聞き慣れた事で、何の珍しくもない事だった。さほど知れ切った事でも黙っていては顕われず、空しく欧米人をして発見発見と鼻を高からしめ、その後に瞠若たりでは詰まらぬ。こう言うとお手前拝見と来るに極まって居るから、我身に当った一例を演べんに、沙翁の戯曲『マッチ・アズー・アバウト・ナッシング』のビートリース女の話中に出る『百笑談』てふは逸書で世に現われなんだところが、一八一四年頃牧師コインビャーがふと買い入れた書籍の表紙をかの書の古紙で作りあるを見出し、解き復して見ると損じ亡われた頁も少なくなかったが、幸いにも一部ならで数部の同書を潰し用いいたので、かれこれ対照してなるべく遺憾なくその文を収拾整復し得て大いに考古学者どもに裨益した。その『百笑談』の末段は、妻の腹に羊を画いた人の事とあって、その譚は、昔ロンドンの画工若き艶妻を持つ。用有りて旅するに予て妻の心を疑うた故、その腹に一疋の羊を画き己が帰るまで消え失せぬよう注意せよといって出た。一年ほどして夫帰り羊の画を検して大いに驚き、予は角なき羊を画いたのに今この羊に二角生え居る。必定予の留守に不貞を行うたのだと詰り懸ると、妻夫に向い短かくとまであって、上述ごとく一度潰し使われた本故、下文が欠けて居る。三十年ほど前読んだ、ラ・フォンテーンに、「荷鞍」と題した詩ありて、確か亭主が妻の身に驢を画いて出で帰り来って改めると、わが画いたのと異ってその驢が荷鞍を負い居る。妻は一向気付かずに、何と妾の貞操はその驢が確かな証拠に立つでしょうというと、いかにも大立ちだ、悪魔が騎った証拠に鞍を負うて立つといったと詠みあったと憶える。十六世紀に成った『上達方』第七章にもほぼ同様の譚を出し、これ婦女に会うと驢に鞍置くと称うる事の元なりと見ゆ。英国の弁護士で、笑談学の大家たるリー氏先年『百笑談』の類話を纂めたのを見ると、この型の話は伊、仏、独、英の諸邦にあれどいずれも十六世紀前に記されず。しかるにそれより三世紀早く既に東洋にあったは、『沙石集』を読んで知れる。その七巻に、遠州池田の庄官の妻甚だ妬む者、磨粉に塩を合わせ夫に塗り、夫が娼に通うを験証せる由を述べ、次にある男他行に臨み妻に臥したる牛を描きしに、夫還りて改むれば起れる牛なり、怒って妻を詰ると、哀れやめたまえ、臥せる牛は一生臥せるかといいければ、さもあらんとて許しつとあって、男の心は女より浅く大様だと論じある。それより五百年ばかり後支那で出来た『笑林広記』に、類話二つを出し、一は蓮花を画き置くと、不在中に痕なく消え失せたり、夫大いに怒ると妻落ち着き払って、汝は不適当な物を画いた、蓮の下の蓮根は食える物ゆえ来る人ごとに掘り取り、蓮根枯れれば花が散るはずでないかとあり。今一つは、夫他行の際、左の番卒を画き置きしに、帰り来れば番卒右にあり、怒って妻を責むれば、永々の留守ゆえ左右の立番を振り替えたのだと弁じたとある。紀州で今も行わるる話には、夫が画いたは勒附きの馬だったが、帰って見るに勒なし、妻を責むると馬も豆食う時勒を去らにゃならぬと遣り込められたという。この型の諸譚、一源より出たか数ヶ処別々に生じたか知らぬが、記録に存する最も古きは日本の物と見る。右は東京の蘭国公使館書記官ステッセル博士の請に任せ、一九一〇年発行『フラーゲン・エン・メデデーリンゲン』へ出した拙稿の大意である。

本邦で馬に関する伝説の最広く分布しいる一つは白米城の話であろう。『郷土研究』巻四と『日本及日本人』去る春季拡大号へ出した拙文に大概説き置いたから、なるべく重出を省いて約やかに述べよう。建武中、飛騨の牛丸摂津守の居城敵兵に水の手を切られ苦しんだ時、白米で馬を洗い水多きように見せて敵を欺き囲を解いて去らしめた。また応永二十二年、北畠満雅阿射賀城に拠りしを足利方の大将土岐持益囲んで水の手を留めた節も、満雅計りて白米を馬に掛けて沢山な水で洗うと見せ敵を欺き果せた。因って右の二城とも白米城と俗称す(『斐太後風土記』十一、『三国地誌』三九)。而してこの通りの口碑を持つ古城跡が諸国に多くある。土佐の寺石正路君に教えられて『常山紀談』を見ると、柴田勝家居城の水の手を佐々木勢に断たれた時、佐々木平井甚助を城に入れてその容易を観せしめた。平井勝家に会うて手水を請うに、缸に水満ちて小姓二人舁ぎ出し、平井洗手済んで残れる水を小姓庭へ棄てたので平井還って城内水多しと告げ、一同疑惑するところへ勝家撃ち出で勝軍したと記す。城守には水が一番大切故、ない水をあるように見せる詐略は大いに研究されたるべくしたがって望遠鏡等なき世には白米で馬洗うて騙された実例も多かったろう。上に挙げた二雑誌の拙文には書かなんだが、『大清一統志』九七に、山東省の米山は相伝う斉桓公ここに土を積んで虚糧と為し、敵を紿いたとあるを見て似た話と思い居る内、同書三〇六に雲南の尋甸州の西なる米花洗馬山は、往時土人拠り守るを攻めた漢兵が城内水なしと知った。土人すなわち米花もて馬を洗う。漢兵さては水ありと疑うて敢えて逼らなんだと書けるを見出し、支那にも白米城の話があると確知し得た。これに似た事は、一夜中に紙を貼り詰めて営の白壁の速成を粧い、敵を驚かす謀計で、秀吉公は、美濃攻めにも小田原陣にもそうした由。しかるに『岐蘇考』に天正十二年山村良勝妻籠に城守りした時、郷民徳川勢に通じて水の手を塞ぎけるに、良勝白米もて馬を洗わせ、一夜中に紙で城壁を貼りて敵を欺いたと見るは一時に妙計二つを用い中てたのだ。支那でも宋の滕元発、一夕に席屋二千五百間を立てた話ありて、紙を白壁と見せたに酷似す。真田信仍が天王寺口で歩兵の槍で以て伊達の騎馬で鉄砲に勝ちたるを未曾有の事と持て囃すが、似た事もあって、南チリへ侵入したスペイン最上の将士を撃退して、二百年間独立を全うしたアウカインジアンは、同じく短兵もて西人の騎馬鉄砲に克ちしを敵も歌に作って称讃した。これら似た話があるから、皆嘘また一つの他は嘘というように説く人もあるが、食い逃げの妙計、娼妓の手管、銀行員の遣い込みから、勲八の手柄談、何度新紙で読んでも大抵似た事ばかりで、例の多いがかえってその事実たるを証明する。

支那の馬譚で最も名高きは、『淮南子』に出た人間万事かくの通りてふ塞翁の馬物語であろう。これは支那特有と見えて、インドを初め諸他の国々に同似の譚あるを聞かぬ。また前年高木敏雄君から次の話が日本のほかにもありやと尋ねられ、四年間調べたが似たものもないようだから多分本邦特有でがなあろう。天文中書いたてふ『奇異雑談』に出た話で大略は、一婦人従者と旅するに駄賃馬に乗る。馬の口附来る事遅きを詰れば馬に任せて往かれよという故、馬の往くままに進行すると、川の面六、七間なるに大木を両つに割って橋とす。その木の本広さ三就ばかり末は至って細し。この橋高さ一丈余、下は岩石多く聳えて流水深く、徒で渡るも眩うべし。馬この橋上を進むこと一間余にして留まる時、従者橋の細きを見て驚き、後れ来る口附を招きて、馬に任せて行けといったからこの災難が起ったと怒りの余り斬らんとす。他の従者これを留め、この里に住む八十余の翁に就いて謀を問う。さればとて新しき青草を竿の先に縛り付け、馬の後足の間より足に触れぬよう前足の間へ挿し入れば、馬知りて草を食む。一口食いて草を後へ二、三寸引き置かば馬もそれだけ後へ踏み戻してまた一口食む。また二、三寸引きて草を置くとまた踏み戻して食む。その草尽くる時その竿を収め、今一つの竿に草を附けてやらばまた踏み戻して食む。幾度もこうしてついに土上に戻る馬の口を取りて引き返し、衆大いに悦び老人を賞賜したてふ事じゃ。予の現住地田辺町と同郡中ながら、予など二日歩いてわずかに達し得る和深村大字里川辺の里伝に、河童しばしば馬を岩崖等の上に追い往き、ちょうど右の談のような難儀に逢わせるという。

話変って『付法蔵因縁伝』にいわく、月氏国智臣摩啅羅その王昵に、大王臣の教え通りせば四海を統一すべき間、何卒言を密にして臣の謀を洩らさぬようと願い、王承諾した。すなわちその謀を用いて三海皆臣属しければ王馬に乗りて遊び行く路上馬が足を折り挫いた。王たちまち智臣の教えを忘れその馬に向い、我三海を征服せるも北海のみいまだ降らず、それを従えたら汝に乗らぬはず、それに先だって足を挫くとは不心得の至りと言った。それが群臣の耳に入ったので、多年兵を動かして人臣辛苦息まざるにこの上北海を攻むるようではとても続かぬ故王を除くべしと同意し、瘧を病むに乗じ蒲団蒸にして弑した。かかる暴君一生に九億人殺した者も、かつて馬鳴菩薩の説法を聴いた縁に依って、大海中千頭の魚となり、不断首を截られるとまた首が生え須臾の間に頸が大海に満つその苦しみ言うべからず。しかるに椎の音聞える間は首斬れず苦痛少しく息むと告げたので、寺で木魚を打ち出したポコポコだそうな。誠に口は禍の本嗜んで見ても情なや、もの言わねば腹膨るるなど理窟を付けて喋りたきは四海同風と見えて、古ギリシアにもフリギア王ミダスの譚を伝えた。アポロ大神琴を弾じ羊神パンは笛を吹いてミにいずれが勝れると問うに羊神の笛勝れりと答えた。アポロ怒ってミの耳を驢の耳にし、ミこれを慚じて常に高帽で隠しその一僕のみ主人の髪を剪む折その驢耳なるを知った。由ってその由人に洩らすまじと慎んでも怺え切れず。ついに地に穴掘って、モシモシミダス王の耳は驢馬同然ですと囁き、その穴を埋めて心初めて落ち着いた。しかるに因果は恐ろしいもので、その穴跡より一本の蘆生え、秋風の吹くにつけてもあなめ/\と小町の髑髏の眼穴に生えた芒が呻った向うを張って、不断ミ王驢耳を持つ由囁き散らし、その事一汎に知れ渡った由。高木敏雄君また前年この譚の類話を求められた時、予が答えた二、三の話を挙ぐると、まず蒙古の譚に、ある王の耳金色で驢耳のごとく長きを世間へ知れぬように腐心し、毎夜一青年にその頭を梳らしめ終ってすなわち殺した。その番に中った賢い若者が王の理髪に上る時、母の乳と麦粉で作った餅を母に貰って持ち行き王に献る。王試み食うと旨かったからこの青年に限って理髪が済んで殺さず。ただし王の耳については母にすら語るなからしめた。青年慎んで口を守れば守るほど言いたくなり、これを洩らさずば身が裂くるべく覚えた。母教えて広野に之きて木か土の割け目へ囁けと言った。青年野に出て栗鼠の穴に口当て、わが王は驢耳を持つと囁くを聞いた、その頃の動物は人言を解した故、人に話し、人伝えて王の耳に入り、王瞋りて彼を殺さんとしたが、仔細を聞いて感悟し、彼を首相に任じた。青年首相となって一番に驢耳形の帽を創製して王の耳を隠したので、王も異様の耳を見らるる虞なく大いに安楽になったという。キルギズ人の口碑には、アレキサンダー王の頭に二の角あるを臣民知らず。それが知れたら王死なねばならぬ。由って理髪人を召すごとに事済んで直ちに殺した。王地上の楽を極めてなお満足せず使者二人を遣わして、不死の水を捜さしめた。一日王理髪人を召したが、今度だけは殺さず、角の事を洩らさぬよう戒め置くと、理髪人命の惜しさに暫く黙しいたが、耐えられなくなり、窃かに井中へ囁き込むと、魚が聞いて触れ散らし角の噂が拡まったので王死んでしまい、二使人不死の水を持ち帰っても及ばず、共にこれを飲んで今に死なず、一人は人に見えずに地上を周遊して善人を助け、一人は純ら牛を護るという(グベルナチス伯とサルキンの説)。

上述の月氏国王が謀を馬に洩らして弑に遭ったり、フリギアや蒙古の王の理髪人が穴に秘密を洩らしたりしたについて想い起すは、アラビヤ人が屁を埋めた話で、これもその節高木君へ報じたが、その後これについて、政友会の重鎮岡崎邦輔氏が、大いに感服された珍談がある。人を傭うて書き立ててもらおうにも銭がないから、不躾ながら自筆で自慢譚とする。昔アラビヤのアブ・ハサンてふ者カウカバン市で商いし大いに富んだが、妻を喪うて新たに室女を娶り大いに宴を張って多人を饗し、婦人連まず新婦に謁し次にアを喚ぶ。新婦の房に入らんとて恭しく座を起たんとし、一発高く屁を放ってけり。衆客彼慙じて自殺せん事を恐れ、相顧みてわざと大声で雑談し以て聞かざる真似した。しかるにア、心羞ずる事甚だしく新婦の房へ入らず、厠に行くふりして庭に飛び下り、馬に乗って泣きながら走り出で、インドに渡り王の近衛兵の指揮官まで昇り、面白可笑しく十年を過した。その時たちまち故郷を懐うて死ぬべく覚えたので、王宮を脱走してアラビヤに帰り、名を変じ僧服し徒歩艱苦してカウカバン市に近づき還った。ここを去って久しくなるが、今も誰か己の事を記憶し居るかしらと惟うて、市の周辺を七昼夜潜み歩いて聞き行くうち、とある小家の戸口に坐った。家裏で小女の声して自分の年齢を問う様子。耳を聳て聞きいると、母答えて汝はちょうどアブ・ハサンが屁を放った晩に生まれたと言うを聞きて、さてはわが放屁はここの人々が齢を紀する年号同然になりおり永劫忘らるべきにあらずと、大いに落胆して永く他国に住まり終ったという。正確を以て聞えたニエビュールの『亜喇比亜紀行』にも屁を放って国外へ逐われた例を挙げおり、一七三五年版ローラン・ダーヴィユーの『文集』巻三にも、二商人伴れ行くうち一人放屁せしを他の一人瞋って殺さんとす。放りし者ことごとくその財物を捧げて助命さる。他の一人この事洩らすまじと誓いしを忘れ言い散らし、放りし者居堪らず脱走す。三十年経て故郷に還る途上その近処の川辺に息む。たまたま水汲みに来た婦ども互いに齢を語るが耳に入る。一婦いわく、妾は某大官がコンスタンチノープルへ拘引された年生まれた。次のはいわく某大官歿せし年と。第三婦言う雪多く降った年と。第四婦ここにおいて妾は某生が屁放った年生まれたと明言するのが自分の名だったから、その人これじゃとてもわが臭名は消ゆる期なしと悟り、直ちに他国に遁れて三度と故郷を見なんだと載せ、また一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰ったとあって、この書世に出た頃大いに疑われたが、ニエビュールがその真実たるを証言した。

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