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十二支考 07 猴に関する伝説
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十二支考 07 猴に関する伝説
南方熊楠
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Chapter 4 of 5

1

さきに猴酒の事海外に例あるを聞かぬと書いたは千慮の一失で、『嬉遊笑覧』十上に『秋坪新語』忠州山州黒猿善く酒を醸す事を載す。※※酒といえり、みさごずしに対すべしとあれば海外またその話ありだ。なお念のため六月発行『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯六巻二九五頁へ和漢のほかに猴酒記事の例ありやと問いを出し置いたが、博識自慢の読者どもから今にこれというほどの答えが出ず。唯一のエフ・ゴルドン・ロー氏の教示に、猴酒は一向聞かぬが英語で猴の麪包(モンキース・ブレッド)というのがある。バオバブ樹の実を指す、またピーター・シンブルの話に猴吸い(サッキング・ゼ・モンキー)といえるは、椰子を割って汁を去りその跡へラム酒を入れて呑むをもいえば、樽に藁を挿し込んで酒を引き垂らすをもいう。俗にこれを猴のポンプとも名づくとあってまず猴が酒を作る話は日本と支那のほかにないらしい。件のバオバブ一名猴の麪包の木はマレー群島の名菓ジュリアンと同じく、わが邦の梧桐の類に近きボムバ科に属し、アフリカの原産だが今はインドにも自生す。世界中最大の木の随一でその幹至って低いが周回七十乃至九十フィートのものなり。フンボルトその一つを測量して五千百五十年を経たはずと断定した。その樹皮と葉を駆虫剤とし、葉を乾かして痢病に用い、殊に汗を減ずるに使い、その木を網の浮きとするなど、すこぶる多用な木だが、一番珍重さるるはその実で外部木質、内に少し酸く冷やかな軟肉ありてゴム様に粘る。その大きさ瓢のごとし。生食してすこぶる旨く、その汁を搾って砂糖を和し飲めば瘟疫に特効あり。エジプト人はその肉を乾かし水に和し飲んで下痢を止むとあるから(『大英百科全書』巻三、リンドレイの『植物界』第三板三六一頁、バルフォールの『印度事彙』第三板一巻、二二および二七六頁)、猴麪包の功遥かに存否曖昧の猴酒に優る。それと比較にならねどわが邦にもサルナシという菓あり。猫が好くマタタビと同属の攀緑灌木で葉が梨に似るから山梨とも呼ぶ。甲斐の山梨郡はこの物に縁あっての名か。その皮粘りありて紙をすくに用ゆ。実も条に似て冬熟すれば甘美なり。『本草啓蒙』にその細子罌粟子のごとし。下種して生じやすしとあれど、紀州などには山中に多きも少しも栽培するを見ず。しかし平安朝廷の食膳を記した『厨事類記』に猴桃を橘や柿とともに時の美菓に数えたれば、その頃は殊に賞翫したのだ。『本草綱目』三三に、その形梨のごとくその色桃のごとし、而して猴喜んで食う故に猴梨とも猴桃とも名づくとあれば、邦名サルナシは支那名を和訳したのか。それからサルガキとて常の柿と別種で実小さいのがある。漢名君遷子、この柿の渋が養蚕用の網を強めるに必要で、紀州では毎年少なからず信州より買い入るを遺憾に思い、胡桃沢勘内氏民俗学の篤志家で文通絶えざるを幸い、その世話で種を送りもらい植え付けて後穿鑿すると、紀州の山中処々に野生があった。それを培養せぬ故古来無用の物になりいたのだ。邦人の不注意なるこの類の事が多い。足利時代に成ったらしい「柿本氏系図」に信濃の前司さるがきと出たれば本よりかの国の名産と見える。これも猴が好き食うから名づけたるにや。

猴に関する民俗を述ぶるに、まず猴崇拝の事から始めると都合が宜しい。『大英百科全書』十一板二巻動物崇拝の条に、インドで猴神ハヌマンもっとも著わる。ヒンズー教を信ずる諸村で猴を害する事なし。アフリカのトブ民も猴を崇拝す。仏領西アフリカのボルト・ノヴチでは小猴を双生児の守護尊とすとある。マレー半島のセマン人信ずるは、創世神タボンの大敵カクー、黒身炭のごとく西天に住む。ここを以て東は明るく西は闇し、天に三段ありてカクーの天最高所にあり、ブロク猴の大きさ山ほどなるがこれを守り、その天に登って天菓を窃まんとする者を見れば、刺だらけの大なる菓を抛って追い落す。世界終る時、地上一切の物ことごとくこの猴の所有となる(スキートおよびブラグデン著『巫来半島異教民族篇』巻二、頁二一〇)というが、いかな物持ちとなっても世界が滅びちゃ詰まらないじゃないか、このブロク(椰子猴、学名マカリス・ネメストリヌス)についてマレー人の諺に「猴に裁判を乞う」というがある。一人ありて他の一人の所有地に甘蕉を植え、その果熟するに及び互いにこれを争う。決せずしてブロク猴に裁決を求めると猴承知して二人に果を分つに、一人対手の得分多きに過ぎると苦情いう。猴なるほどこれは多過ぎると荒増し引き去って自分で食ってしまうと、今度は他の一人がそれでは自分の方が少な過ぎるという。どうもそうらしいといって猴また多い方から大分せしめる。かくせり合ってついに双方一果も余さぬに及んだ。裁判好きの輩判官に賄賂を重ねて両造ともにからけつとなるを「猴に裁判を乞うた」というのだそうな(スキート著『巫来方術篇』一八七頁)。ジャワのスラバヤでも猴を神とした由、明の黄省曾の『西洋朝貢典録』巻上に出づ。註にいわく、この港の洲に林木茂り、中に長尾猴万余あり、老いて黒き雄猴その長たり。一老番婦これに随う。およそ子なき婦人、酒肴、花果、飯餌を以て老猴に祷れば、喜んですなわち食い、衆猴その余りを食う。したがって雌雄二猴あり、前に来って交感し、婦人これを見て帰れば孕む。猴食わず交わらずば孕む事なし。土伝に唐の時民丁五百余口あって皆無頼なり、神僧その家に至り水を吹き掛けてことごとく猴と成した、ただ一嫗を留めて化せしめず、その旧宅なお存すと。『淵鑑類函』四三二ジャワ国の山に猴多く人を畏れず、呼ぶに霄々の声を以てすればすなわち出づ、果実を投げればその二大猴まず至る、土人これを猴王、猴夫人という。猴王、猴夫人食うた余りを群猴食うとある。

スラバヤ同様猴に懐妊を祈ること出口米吉氏の「土俗覧帳」(『人類学雑誌』二八巻十号)に『大朝』紙を引いて、尾張海東郡甚目寺観音院境内にオサルサマあり、子を授くるとて信者多し、その本尊木彫の猴、高さ一尺内外の坐像、半身大の桃実を抱き真向に坐す。なおこの正体のほかにこれに似た一猴像あり、こは今より百年以前非常に流行せしために更に一の副像を造れるなり。この猴の像を借り受けて寝る時はたちまち子を授かるとて諸方よりこれを借る者多かりし故なり。今も借りに来る者多く、借料一週間一円なりというと見ゆ。マレー群島のチモル・ラウトでは婚礼の宴席で新夫婦の間に、一男児と一女児を坐らせ子を生むべく祝い、チンギアウスでは婚姻の初夜一童を夫婦間に眠らしむ(英訳ラッツェル『人類史』一巻四四〇頁)。『隋書』に〈女国は葱嶺の南にあり、云々、樹神あり、歳初め人を以て祭り、あるいは猴を用いて祭る〉。これは『抱朴子』に〈周穆王南征す、一軍皆化して、君子はと為り鶴と為り、小人は虫と為り沙と為る〉。『風来六々部集』に「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を廻って猴となるんの、伴れて還ろと思うたが、お猴の身なれば置いて来たんの」てふ俗謡を載せ、アフリカのアクラでは猴を神僕と呼び、人間が生まれ損うたものといい、セラコット人とマダカスカル島民は人が罪業のために猴になったと信ず(シュルツェの『デル・フェチシスム』五章六章)。

一六八四年パリ板サントスの『東エチオピア史』一巻七章に、カフル人は猴はもと人だったが、言えば働かさるるを嫌い猴となって言わずと説くとある。この通り猴は人の化けたものというところから、昔中央アジアの女国、すなわち女王を奉じ婦女の政権強かった国では、元来人を牲にし樹神を祭ったところ、追い追い猴も人と余り異ならぬてふ見解から猴を人の身代りに牲し祭ったのだ。それと同様夫婦の間に他人の子を寝かせて子が生まれるよう祝したのが、猴も人に異ならぬはずといったところから、甚目寺等の猴像を借り用ゆる事となったと見える。余り褒めた事でないが文化の頂上と自ら誇る米国人中にすら、初目見えに来た嬰児を夫婦の寝床に臥せしむれば必ず子を産むと信ずる者あれば、無茶に尾張の風俗を笑ったものでない(一八九六年板バーゲン編『英語通用民の流行迷信』二五頁)。サウゼイの『随得手録』第二輯に、インドのヌデシャの王エースウルチュンズルは、猴を婚するに十万ルピイを費やし、盛装せる乗馬、車駕、駝象の大行列中に雄猴を維いで輿に載せ、頭に冠を戴かせ、輿側に人ありてこれを扇ぎ、炬火晶燈見る人の眼を眩ませ、花火を掲げ、嬋娟たる妓女インドにありたけの音曲を尽し、舞踊、楽歌、放飲、豪食、十二日に竟り、梵士教法に従い誦経して雌雄猴を婚せしめたと出づるも、王夫妻の相愛または猴にあやかって子を産むようの祈願から出たのであろう。和歌山市附近有本という処に山王の小祠あり、格子越しに覗けば瓦製の大小の猴像で満たされて居る。臨月の産婦その一を借りて蓐頭に祭り、安産の後瓦町という処で売る同様の猴像を添え、二疋にして返納する事、京都北野の子貰い人形のごとし。今年長崎市発行『土の鈴』二輯へ予記臆のままその瓦猴の旧像の図を出した。第一輯に写真した物は近来ハイカラ式の物だ。猴は安産する上痘瘡軽き故、かく産婦が祭る由聞いた。マレーの産婦は猴に触れば額と目が猴のような醜い児を生むとて忌む由(ラッツェル『人類史』巻一、頁四七二)。帝国書院刊本『塩尻』三四に、主上疱瘡の御事ある時は坂本山王の社に養える猴必ず疱瘡す、御痘軽ければ猿の病重く、皇家重らせたまえば猴やがて快くなるといい伝う。後光明帝崩御の時坂本の猴軽き疱瘡なりしとかや、今度新帝(東山天皇)御医薬の時山王の猴もまた疱瘡煩いける、被衣調えさせてかの猴にきせさせたまいしがほどなく死にけり、帝はやがて御本復ありし、もっともふしぎなりけり。古の書にも見えず近代の俗説にやとある。今も天王寺の境内に猴を畜い、俗衆その堂に眼(?)病を祈るに必ず癒ゆ。しかるに猴は迷惑千万にも毎に眼を病むと十年ほど前の『大毎』紙に出た。これら前述通り、猴は人に近いもの故、人の病は猴また受くるはずと考え、英語でいわゆるスケイプ・ゴートとして病を移し去るつもりで仕始めたのであろう。

インドでも子欲しき女はハヌマン猴神の祠に往き燈明を供える。古伝にアハリアは梵天創世最初に造った女で瞿曇仙人の妻たり。帝釈かかる美婦を仙人などに添わせ置くは気が利かぬと謀叛を起し、月神チャンドラを従え雄鶏に化けて瞿曇の不在を覘い、月神を門外に立たせ、自ら瞿曇に化け、入りてその妻と通じた処へ瞿曇帰り来れど月神これを知らず、瞿曇現場へ踏み込み、呵して帝釈を石に化し千の子宮を付けて水底に沈めた。後諸神これを憐み千の眼に取り替えやった。一説には瞿曇詛うて帝釈を去勢したるを諸神憐んで羊の睾丸で補充したという(グベルナチス『動物譚原』一巻四一四頁、二巻二八〇頁)。この事仏典にも出で、僧伽斯那所撰『菩薩本縁経』二に、月光王の首を乞いに来た老梵志が婆羅門の威力に誇る辞中、瞿曇仙人釈の身上において千の女根を化し、婆私仙は帝釈の身を変じて羯羊形と為すとある。

一九一四年ボンベイ板エントホヴェンの『グジャラット民俗記』五四頁にいわく、一説に帝釈瞿曇の妻に通じた時アンジャニ女帝釈を助けた故、瞿曇これを詛いて父なし子を生むべしという。アンジャニ惧れて腰まで地中に埋め苦行して、シワ神に救いを求む。シワその志を感じ風神ナラダして真言を彼女の耳に吹き込ませたに、ナラダこれをその子宮に吹き込む。因って孕んでハヌマンを生んだ。これを孕む時近所の木にケシてふ猴居るを見たから、ハヌマンは猴の形を受けたというと。セマン人いわく、太古夫婦あれど子を生む事を知らず、他の諸動物皆子あるに我独りなしと恥じ入り、薪を拘えて子を持ったごとく見せかけた。椰子猴(ブロク、上出)これに逢うて気の毒がり、「神代巻」の鶺鴒の役を勤めて子を拵える法を教えたので、一心不乱に教え通り行い二男二女を生んだ。この同胞二組がまた猴の教え通り行うて子供が出来た。その時鴿来ってかかる骨肉間の婚媾は宜しからずといったところで仕方がないから、一旦離別して互いに今までのと人を替えて婚姻すれば構いなしと教えたと(スキートおよびブラグデン、巻二、頁二一八)。されば猴に子を祈る事必ずしもインドにのみ始まったと思われず、しかしコータンの故趾からハヌマン像を見出した事もあり(一八九三年板ランスデルの『支那領中央亜細亜』巻二、頁一七六)、昔博通多学の婆羅門が仏教に対して梵教を支那で興しに来た記録もあれば(『高僧伝』六)、甚目寺等で猴像に子を乞うのはあるいはハヌマン崇拝から転化したのかと惟う。南インドプルバンデルの諸王はハヌマン猴神の裔で尾ありという(ユールの『マルコ・ポロの書』一八七五年板、巻二、頁二八五)。ただし人間に相違ないから猴が化したともいわれず。猴神子なき女を不便がる余り、自ら手を付けて生ませた後胤か、不審に堪えぬ。

第5図 ハヌマン猴

ハヌマン猴、学名セムノピテクス・エンテルス(第五図)はインドに産し、幼時灰茶色で脊より腰へ掛けて暗茶色の一条あり、長ずるに随い黒毛を混じ石板色となる。顔と四肢は黒く鼻より尾根まで三、四フィート、尾はそれより長し。他猴と異なり果よりも葉を嗜み、牛羊同然複胃あり。鼻梁やや人に近く、諸猴に優れて相好美し(ウットの『博物画譜』一)。この猴の大群昔その王ハヌマンに従い神軍に大功ありしとて、ハヌマン猴の称あり。ヒンズー教徒のヴィシュニュ(仏典の韋紐)を奉ずる輩もっともハヌマン神を尊べども他派の者もまたこれを敬し、寺堂園林より曠野に至るまでその像を立てざるなく、韋紐の信者多き地にはその像に逢わずに咫尺も歩み得ず、これに供うるは天産物のみで血牲を用いず、猴野生する処へは日々飯菓等の食物を持ち往き養い最大功徳とす(ジュボア『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六章)。一七二七年板、ハミルトンの『東印度記』に、ヴィザガパタムの堂に生きた猴を祀る、数百の猴食時ここに集まり僧が供うる飯などを享け、食しおわって列を正して退く、その辺で人を殺すは猴を殺すほど危うからずといい、十七世紀に旅したタヴェルニエーの『印度紀行』には、アーマダバット附近の猴、火金両曜ごとに自らその日と知って市中に来り、住民が屋上に供えた稲稷甘蔗等を食い頬に貯えて去る。万一これを供えざれば大いに瞋って瓦を破ると述べた。されば今日もビナレスの寺院にハヌマン猴を夥しく供養し、また諸市のバザーに入って人と対等で闊歩し、手当り次第掴み歩く。紀州田辺の紀の世和志と戯号した人が天保五年に書いた『弥生の磯』ちゅう写本に、厳島の社内は更なり、町内に鹿夥しく人馴れて遊ぶ、猴も屋根に来りて集う。家々に猴鹿の食物を荒らさぬ用意を致すとあるを見て、インドでハヌマン猴の持てようを想うべし。タヴェルニエーまたサルセッテ島にハヌマン猴王の骨と爪を蔵する銀棺を祀れる塔あり、インド諸地より行列して拝みに来る者引きも切らざりしを、ゴアの天主教大僧正押して取る、ヒンズー教徒莫大の金を以て償わんと乞い、ゴアの住民これを許しその金を以て軍を調え貧民を扶くべしと議せしも聴かれず、これを焼けばその灰を集めてまた祀るを慮り、棺を海上二十里漕ぎ出し海に沈めたと述べた。

『ラーマーヤナ』は誰も知った通りヒンズー教の二大長賦の一つで、ハヌマン猴王実にその骨髄というべき活動を現わす。この長賦の梗概は大正三年二月十日の『日本及日本人』、猪狩史山氏の「ラーマ王物語」を見て知るべし、余も同年八月の『考古学雑誌』に「古き和漢書に見えたるラーマ王物語」を載せた。迦旃延子の『婆沙論』に、羅摩那(ラーマーヤナ)一万二千章あり、羅摩泥(ラーヴァナ)私陀(シタ)を将ち去り羅摩(ラーマ)還って将ち来るに一女の故に十八※(今いう百八十億)の多数を殺し、また喧嘩の事ばかり述べあるは至極詰まらぬとあるより、日本の僧侶など一向歯牙にも掛けなんだらしいが、それは洋人が、『古事記』『日本紀』を猥雑取るに足らぬ書と評すると一般で、余が交わった多くのインド学生中には羅摩の勇、私陀の貞、ハヌマンの忠義を語るごとに涙下る者少なからぬを見た。今ジュボアの書等より採って略述する。文中人名に漢字を当てたは予の手製でなく実に符秦の朝に支那に入ったカシュミル国の僧伽跋澄の音訳に係る。いわく、羅摩(ラーマ)はアヨジ国王ダサラダが正后カウサリアに生ませた子で、初め林中に瞿曇仙に師事した時、上に述べた通りこの仙人その妻アハリアの不貞を怒り、詛うて石に化しあったのを羅摩足で触れて本形に復せしめた。それからミチラ国王ジャナカを訪い、シワ神が持った弓あっていずれの国王もこれを彎き得ずと聞き、容易くその弓を彎き、その賞として王女私陀(シタ)を娶ったところを、父王より呼び還され政務を譲らる。一日弓を彎いた弦音以てのほか響いて側にあった姙婦を驚かせ流産せしめ、その夫の梵士怒って、爾今、羅摩、庸人になれと詛う。それより羅摩生来の神智を喪う。その後ほどなく父王の第四妃その生むところの子を王に嗣ぎ立てしめんとて、切に羅摩に退位を勧め、羅摩承諾して、弟、羅史那(ラクシュマナ)と自分の妻私陀を伴い林中に隠る。一日羅摩の不在中、羅史那スルパナカの両耳を切り去る。これは楞伽(ランカ、今のセイロン)の鬼王羅摩泥(ラーヴァナ)とて、身体極めて長大に十の頭ある怪物の妹なり。羅摩泥、妹がために返報せんと、私陀を掠め去る。羅摩帰って妻を奪われしと知り、地に仆れて慟哭これを久しゅうしたが、かくてやむべきにあらざれば、何とか私陀を取り返さんと尋ね行く途上、猴王スグリヴァ、その児ヴァリと領地を争い戦うを見、そのためにヴァリを殺す。猴王大いに悦び力を尽して羅摩を助く。羅摩誰かを楞伽に使わし、敵情を探らんと思えど海を隔てたれば事容易からず。この時スグリヴァ猴王の軍を督せしハヌマン、身体極めて軽捷で、たちまち海上を歩んでかの島に到り、千万苦労してようやく私陀が樹蔭に身の成り行きを歎くを見、また、その貞操を変ぜず、夫を慕い鬼王を詈るを聴き、急ぎ返って羅摩に報じ、その請に応じて、山嶽、大巌を抜き、自分の身上にあるだけの無数の石を担げて幾回となく海浜に積み、ついに大陸と島地の間に架け渡した。羅摩すなわち猴軍を先に立て、熊軍をこれに次がせて、新たに成った地峡を通り、楞伽城を攻め、勝敗多回なりしもついに敵を破って鬼王を誅し、私陀を取り戻し、故郷へ帰った。

竜樹菩薩の『大智度論』二三に問うて曰く、人あり無常の事至るをみ、転た更に堅く著す、国王夫人たる宝女地中より生じ、十頭の羅刹のために大海を将ち渡され、王大いに憂愁するを智臣諫めて、王智力具足すれば夫人の還るは久しからざる内にあり、何を以て憂いを懐かんと言いしに、王答えて我が憂うる所以は我が婦を取り還しがたきを慮らず、ただ壮時の過ぎやすきを恐ると言いしがごとしとあり。これは『羅摩延』(ラーマーヤナ)の長賦に、私陀実は人の腹から生まれず、父王子なきを憂い神に祈りて地中より掘り出すところ、その美色持操人界絶えて見ざるところとある故宝女といい、古インド人はセイロンの生蕃を人類と見ず、鬼類として羅刹と名づけた。十頭羅刹とはその酋長が十人一組で土人を統御し、それが一同に羅摩の艶妻を賞翫せんとて奪い去ったのであろう。王の智力もて夫人を取り戻すは成らぬ事にあらずというに答えて、ついには取り戻し得べきも、その間にわれも夫人も花の色の盛りを過ぎては面白い事も出来ぬでないかと羅摩の述懐もっとも千万に存ずる。それを散ればこそいとど桜はめでたけれ、浮世に何か久しかるべき、と諦め得ぬ羅摩の心を愚痴の極とし、無常の近づき至るほどいよいよ深く執著する者に比したのだ。

さて羅摩王久しぶりで恋女房を難苦中より救い出し、伴うて帰国した後、一夜微服して城内を歩くと、ある洗濯師の家で夫妻詈り合う。亭主妻に向いわれは一度でも他男に穢された妻を家に置かぬ、薄のろい羅摩王と大違いだぞと言うた。その声霹靂のごとく羅摩の胸に答え、急ぎ王宮に還って太く怒り悲しみ、直ちに弟ラクシュマナを召し私陀を林中で殺さしむ。ラクシュマナ、その嫂の懐胎して臨月なるを憐み、左思右考するに、その林に切れば血色の汁を出す樹あり、因ってその汁を箭に塗り、私陀を林中に棄て、帰って血塗りの箭を兄王に示し、既に嫂を射殺したと告げた。私陀林中にさまよい声を放って泣く時、その近処に隠棲せるヴァルミキ仙人来って仔細を聞き、大いにその不幸に同情し、慰めてその庵へ安置し介抱すると、数日にして二子を生み、仙人これを自分の子のごとく愛育した、ほどへて羅摩ヤグナムの大牲を行わんとす。これは『詩経』に牡既に備うとあり『史記』に秦襄公駒を以て白帝を祀るとあって、支那で古く馬を牲にしたごとくインドでも委陀教全盛の昔、王者の大礼に馬を牲にしたのだ。今羅摩が牲にせんとせる馬、脱れて私陀の二児の住所へ来たので、二児甫めて五歳ながら勇力絶倫故、その馬を捉え留めた。盗人を捕えて見れば我子なりと知らぬ身の羅摩、すなわちハヌマンを遣わし大軍を率いて征伐せしめたが、二児に手甚く破られて逃れ還る。ここにおいて羅摩自ら総兵に将として、往き伐ち、また敗れて士卒鏖殺と来た。処へ二児の養育者ヴァルミキ仙来って、惻隠の情に堪えず、呪言を唱えてことごとく蘇生せしむ。

羅摩王、宮に還って馬牲をやり直さんとし、隣国諸王と国内高徳の諸梵士を招待す。梵士らこの大礼を無事に遂げんには必ず私陀を喚べと勧め、羅摩、様々と異議したが、ついにこれを召還しよく扱うたので大牲全く済む。羅摩化の皮を現わし、また妻の不貞を疑い、再び林中に追いやらんとするを諸王宥め止む。羅摩なお不承知で、私陀永く楞伽に拘留された間一度も敵王に穢された事なくば、須く火に誓うて潔白を証すべしと言い張る。私陀固くその身になきを知るから、進んで身を火中に投ぜしも焼けず。他にも種々その潔白を証したが、なお全く夫王の嫉妬を除く能わず、私陀は「熱い目を私陀のも私陀で無駄になり」で、今は絶望の余り自分が生まれ出た大地に向い、わが節操かつて汚れし事なくんば、汝、我が足下に開いてわれを呑めと願うに応じ、土たちまち裂けて私陀を呑みおわった。羅摩これを見て大いに悔い、二子にその国を頒ち、恒河の辺に隠栖修道して死んだというのが一伝で、他に色々と異伝がある。

この譚に対して欧人間にも非難少なからず、われわれ日本人から攷えても如何な儀も多いが、かかる事はむやみに自我に執して他を排すべきにあらず。たとえば欧州やインドの人は蟾蜍(ヒキガエル)を醜かつ大毒なる物として酷く嫌う。しかるに吾輩を始め日本人中にこれを愛する者少なからず。アメリカインデアン人もまたしかり。モニエル・ウィリヤムスの『印度教篇』に、蛇は大抵の民族が甚く忌むものながら、インド人はほとんど持って生まれたように心底からこれを敬愛称美するとあった。予かつて南ケンシントン美術館に傭われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両肱を挙げて、腋窩を露わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛を露わせるを指ざし、非難の色を示した。されば太宰春台が『通鑑綱目』全篇を通じて朱子の気に叶うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相馴れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前が夫の身代りに死んだは潔けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐が三子助命のために忍んで夫の仇に身を任せたは美談か知らぬが、寵弛んで更に他の男に嫁し、子供多く設けたは愛憎が尽きる(『曾我物語』四の九、『源平盛衰記』一九、『昔語質屋庫』五の一一、『平治物語』牛若奥州下向の条)。しかしながらこれら諸女の譚は、道義に立脚した全くの戯作でなく、それぞれかつて実在した事蹟に拠って敷衍したものなれば、要は時に臨んで人を感ぜしめた一言一行を称揚したまでで、各生涯を通じて完全無瑕と保険付きでない。女権が極めて軽かった古代には、気が付きいても心に任せぬ事多く、何ともならぬ遭際のみ多かったのだ。いわんや風土習慣ことごとく異なったインドで、しかも西暦紀元前九百五十年より八十六万七千百二年の間にあったという遠い昔のラーマーヤナ事件を、今日他国人どもがかれこれ評するは野暮の至りだが、このような者を宗旨の経王として感涙を催すインド人も迂闊の至り。それを笑いながら、歴史専門家でなければ記憶せぬ善光寺大地震の頃生まれたカール・マルクスを新説として珍重がるも、阿呆の骨頂と岩猿を絵図と猴話に因んで洒落て置く。(大正九年十一月、『太陽』二六ノ一三)

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