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旅館寒燈独り眠らず
客心何事ぞ転た凄然
故郷今夜は千里の思ひ
霜鬢明朝また一年
さすがにこの除夜の詩はいつの大晦日に低吟してもぴつたりと胸に来るものがある。私は炉端でウィスキーを酌みながらこの詩を低吟した。一杯のウィスキーには一杯だけのイリュージョンが展開する。長い間、孤独でくらしてゐると、自然にひとりごとをいふ癖がつくものである。酔と共にいろ/\の追懐や幻想が頭の中で展開をはじめた。
過去を聯想するには、その時代、その時分にはやつた流行歌をうたつて見るに限る――日清談判破裂して……この歌を低吟すると霜やけの痒ゆかつた幼年時の冬が思ひ出される。赤い夕陽に照らされて……友は野末の石の下……と口ずさむと日露戦争中の哀愁が、そして野戦病院生活がまざ/\と思ひ出される……勝つてくるぞと勇ましく……あゝいやだ……見よ東海の空あけて……いやだ……いやだ……もう御免だ……春が来た春が来た、どこに来た……これを低吟すると四歳と三歳の二児を育てるに苦労した時分の当時の姿が思ひ出されて油然たる悲哀が胸にこみあげて来る――お手々つないで野道をゆけば……山のお寺の鐘が鳴る、鴉と一しよに帰りませう……この歌をうたふと冬の寒夜に二児を抱いて寝た夜ごとの男やもめの自分の過去の姿が咽びたくなるほど哀れに思ひ浮ぶ……子らの唄、思ひ出深し四度の冬……。
ウィスキーの酔ひで幻想と追憶がます/\奔放に展開し出した。机代用のリンゴ箱の上の蝋燭の灯が静かに上下に揺いでゐる。それを眺めてゐると、遠からず来るであらう自分のお通夜のさまが聯想された。不吉な聯想であるが、どうせ来るべく決定的なものなら予習的に今からさうした場面に馴れ親しんで置くのもよからうと思つた。『死』よ、いつでもおいでなされて下さい……脳溢血でも心臓麻痺でもおいでなされませ……といふ気持になつた。さて、それでは告別式の弔詞を一つ……模擬告別式……。
「――君は天才ではなかつたが、よく六十五歳の長きを生きた。君は貧乏といふものにどこまで堪へ得られるかを身を以て実験した。また孤立と孤独でどこまで生きてゆけるかを実験した人でもあつた。若し君が二十代で死んでゐたら一個の労働者で終つたことになつたらう。若しまた三十歳前後で死んでゐたら傷ましい一個の文学青年として終つたであらう。更にまた四十歳前後で死んでゐたら惜しむべき新進作家といはれたかも知れない。若しまた五十歳前後で死んでゐたら、女房に逃げられて二児を抱へながら悶死したといはれたであらう。更にまた、終戦前後に死んでゐたら栄養失調で倒れたといふことになつたであらう。然るに君はよく粗食欠食に耐へて今日まで生きながらへた。君の一生はまことに恵まれざる一生ではあつたが、今や二児は成人せり。君の使命は果たされたりといふべきか。以て瞑すべし。弔詞終り――」
ゴーン……と遙かに除夜の鐘が聞えて来た――ゴーン……またゴーン……。
おう私はまだ生きてゐた……と、ひとりでひやうたくれながらこの大晦日の夜を、ぐびり/\と独酌でのみ明かしたが、実をいふと悔恨の生涯に慟哭したい気持をまぎらすためであつた……。
(昭和二十七年三月)
●図書カード