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スカンヂナヴィア文學概觀
宮原晃一郎
一、スカンヂナヴィア限界
私は自分が興味を以て研究してゐるスカンヂナヴィア文學 Skandinaviske litteratur について、御話することを甚だ欣快に存じます。
スカンヂナヴィア文學といふ名稱は地理學で申すスカンヂナヴィア半島の文學といふのでなく、もつと廣い範圍のもので、言語學的意味を有つてゐることを豫め御承知願つて置かなければなりません。即ち、ノルウェイ、スウェデンの兩國と、デンマルクは勿論のこと、イスランド、及びスウェデン語を話すフィンランドの一部分のことであります。普通にスカンヂナヴィア文學のことを北歐文學と申しますが、此の場合に於ける北歐といふ言葉の範圍はきはめて曖昧で、屡々ロシア、ドイツ、オランダ、ベルギイの如きですらも、北歐とよばれることがあります。それで私はわざと北歐といはずに、文學が基礎として立つ言葉を同じくし、地理的に近接し、歴史、民族、風習の上からも、非常に密接な關係にある北歐の諸國をスカンヂナヴィアの名の下に、引つ括るめて、お話しようと存じます。然し、十三世紀の頃から始まつて、現在まで約八百年に亘るスカンヂナヴィア文學の全貌を、此處に十分に申述べることは、たうてい不可能でありますから、ここでは傍系のフインランドや中世からのイスランドは措きまして、主要な丁、諾、瑞の三國について、ごく大掴みに、申上げることに致しませう。
二、一貫せるロマン主義
スカンヂナヴィア文學は英吉利また獨逸の文學とその發達の經路を殆んど同じくしてゐる。即ち、最初に神話、英雄傳説が歌の形であらはれ、次ぎにキリスト教が渡來して、それをキリスト教的に變化させ、同時にラテン文化を傳播する。その次にはフランス古典文學が支配し、やがて宗教改革が起つて、國語及び國民傳統の尊重となり、ローマン主義の勃興となり、自然主義の隆盛となり、それが終つて、新ローマン主義、農民文學、郷土文學或は勞働文學が起つたといふ順序で發達するといふのであります。然しフゥツリズム Futurism・ダダイズム Dadaism・シュルレアリズム Surralisme・或は表現主義 Expressionismus. 即物主義 Neue-sachlichkeit といふやうな、ひどく風變りのものは、スカンヂナヴィア文學には殆んどありませぬ。スカンヂナヴィア文學の主流はどこまでもローマン主義であるやうに思はれます。
三、古代文學の共通
さて、デンマルク、ノルウェイ、スウェデン三國の古代文學はいづれもみな共通で、古代ノルウェイ。イスランド文學といふ總括した名稱でよぶことができます。言葉を換へて申しますと、昔イスランドに渡つたノルウェイ人が、そこに古い原形のまゝに保存した文學、またその後そこ及びノルウェイ本土で發達した文學であります。このイスランド・ノルウェイ文學のうちで、一篇の書物として殘された最初のものが『エッダ』Edda であるといつてよいかと存じます。それ以前にもルゥネ Rune といふ、一種の神代文字で石や木や骨などに刻みつけた歌謠がありますが、これは文學よりも寧ろ考古學、言話學的の方面に興味が多からうと思つて、ここには省くことにします。
さて『エッダ』とは何かと申しますと、歌をもつて書きしるした神話並に神仙的英雄の行蹟であります。日本で言ふならば、古事記か日本書紀のやうなものであります。『エッダ』に舊と新との二つがあります。舊をセームンダール・エッダ Semundar Edda、新をスノルィ・ストゥルソンナール・エッダ Snorri Sturlussonar E. と申します。セームンドのエッダ、ストゥルソンのエッダと申す意味であります。然し一口に『エッダ』と申せば、舊エッダのことだけで、新エッダの場合には特に新とか、ストゥルソンとかいふ名を冠することになつてをります。
四、『エッダ』の解説
『エッダ』とは古代北歐語で第一に大祖母といふ意味であります。英語の Great Grandmother、ドイツ語の Urgrossmutter に當ります。白髮の老婆が爐邊に絲車を廻しながら昔話をするやうに古い/\傳説を語る此の本も、また高齡の老婆であるといふ意味から附けられた題であらうといふのが一つの解釋でありますが、それとはちがつて、これは「作詩法」といふ第二の意味を取つてつけたもので、そのわけは新エッダはイスランドの歴史家で、詩人であつたスノルィ・スツゥルソンがスカルド Skald とよぶ歌の作法、模範などを示したものであるが、その中にひいてある歌には舊エッダのものがまじつてゐる。だから、斯ういふ歌を集めた本をエッダといふものと、後の人が誤つたものであらうといふ説もあります。どちらが正しいか分りませんが、ノルウェイ協會から出してゐる古代ノルウェイ語の辭典には、第一に大祖母、第二に詩學といふ解釋が載つてをります。私一個としては此の大祖母の意味に解した方が文學的で面白いと思つてをります。
そこで舊い『エッダ』は一六四三年イスランドのスカルホルトの司教ブリニュルフ・スヴェインスソン Brynjulf Sveinsson が神話と古英雄の傳説とをうたつた、二十九の歌を發見してセームンダル・エッダと名付けました。スヴェインスソンは、これは有名な學者セームンドが作つたものか、或は集めたものと思つてゐたらしいのです。だがそれは後になつて根據のないものと分りました。それが始まりで、後、各所から發見されたものを集め、現在では大小三十六篇の古歌が載つてをります。その中には脱漏があつたり、斷片のものがあつたりして、意味のハッキリしないものもありますが、これを大體二つに分けて、神々の歌と、英雄たちの歌としてあります。
神々の歌には、天地開闢の神話が出てをりますが、それは希臘神話などとは違ひまして、北歐式の陰慘なものであります。最初に出てくるのはヴェルースパー Vluspa 即ち巫女の託宣といふ題で天地の創造をうたつてあります。試みに私が初めの方を少しばかり逐語的に譯してみませう。勿論、原文のずつと簡潔なもので力強く歌はれてをりますが、どんなことが、どんなふうにうたはれてゐるか、これでも少しはお分りにならうと存じます。
一、聞召せとわれは願ふ(註、われとは巫女)
大となく小となく
聖なる族ヘイムダールの御子達
戰ひに仆れしますらをの父よ!(註、主神オージン)
汝は遠き昔の人々につきて
わが憶えをる昔語り
語り聞かせよと、われに求む。
われは猶、古への巨人をおぼゆ
過ぎにし日、われに糧を與へにし……
二、九つの世をもわれは知れり
土の下に大いなる根を張りし
大いなる木の上にありしてふ(註、イグドラシルといふとねりこの木)
九つの世界をも。
三、その昔、ユミールに住みし世は
海も、冷たき浪も、砂もなく
大地も未だなく
その上に蒼穹もおほはざりき。
只果てしなき深き淵の
口あけてゐたるのみ。
草一つだになかりき。
四、さるをブゥルのみ子たち
平らなる地をもたげ
そこに中つ國を建てぬ(註、中つ國の名はミズガルド)
日は南より岩をあたゝめ
地は韮をもて青みたりき。
月の姉なる日は南より
その右の手を天のはじにかけぬ、
何處をわが家と知らざりければ……
日もまた居るべきところを知らず
星も定まる宿を知らざりき。
太古 天地 の初めは渾沌として無であつた。その渾沌の中にブゥルの子たち、即ち、オージンとその兄弟ヴィリ、ヴェとが國造りのわざをする。その業とは巨人ユミールを殺すことでした。巨人の血は大海に滿ち、その骨は大山嶽となり、齒は巖となり、頭蓋は天に、髮は樹木に、腦味噌は雲になつたといひます。そこで形勢が變つてアスガルド、即ち神の國が出來ましたが、神々もまた運命を免がれることは出來ません。殺戮の罪や、契約違犯の罪など、樣々な罪を犯した神國には、巨大な海蛇や、死の船や、冷酷な惡魔ロキや、地獄のムスペルヘイムの怪人、火の巨人スゥルトウなどが、ぞく/\と押し寄せて、破滅の力をふるひ、主神オージンは狼フェンリルに殺され、雷神トォルは海蛇に打負かされ、オージンの娘フレイヤは火の巨人に殺されました。さうした世の終りといふべき光景を、『エッダ』はその獨特な簡潔な表現で、斯う歌つてをります。
天つ日は暗く、
大地はわだつみに沈み、
熱き星々は空より落ち、
烈しき湯氣はうづまきぬ。
生命を養ふ火は、
焔と立騰りて、
み空をこがしたりき。
まつたく、天照大神が天の岩戸に隱れ給うたときのやうに、まつたく蒼蠅なす、もろ/\のまがつみが國内にみちたのでした。然し、それもしばし、やがて地は黒闇々たるわだつみから、よみがへりました。古代のスカンヂナヴィア詩人はその有樣を斯ううたつてをります。
今われ、
地の新たにわだつみの浪の中より
緑りとなつて立昇るを見る。
瀧はおち、鷲はとび、
岩根の淵の魚をとらふ。
イザヴォルにもろ/\の神、
かんつどひまして、
地を取り卷く、
かの恐ろしき大蛇について、語らせ給ひぬ。
そこで、種子をまかぬ畑に實が生り、熟し、すべての惡は善とかはり、純潔の神バルドル Baldr は再び歸つて來ました。正義の君主たちは、黄金の屋根をもつ、ギムレイ Gimle の高樓に住んで幸福に暮らし、天からすべてを支配して、最高の審判をする王が降つてくる。地の底からは惡龍が上つて來て、人間の死骸をその翼にのせて運び去るといふところで、巫女の託宣の歌は終つてゐます。
初めの部分は異教的でありますが、最後はどうもキリスト教の影響が多いやうであります。特に純潔の神バルドル Baldr の再來は、キリストの復活とよく似てゐます。
五、『エッダ』の各篇
然しバルドルの死は全然キリストのそれとはちがひます。それは此の篇の補遺とも見るべき、『バルドルの夢』Baldrs drumar に斯ううたつてあるのでわかります。
惡夢を見たバルドルの身を心配したオージンは巫女にきいてみると、自分の息子の爲、冥土の國では、もう座席を設けてゐるといふことが分りました。バルドルの母フリッガ Frigga はそれを知つて、非常に驚き、悲しみ、バルドルが夭折しないやうにと、あらゆるものに、バルドルに危害を加へないやうにと約束をさせましたが、只、やどり木だけは小さな、つまらぬものと思つて、うつかりと約束をしなかつたが爲に、それで造つた矢に射られて死んだといふのであります。ギリシヤ神話のアキレスの致命の踵がここでは、武器の方に移つてゐるのは面白いではありませんか。またこれは濃やかな母性愛をあらはした、北歐神話中の名篇であります。
『エッダ』の中にはこの外に、主神オージンの箴言集、教訓集のやうな『ハァマール』Havamal や、雷神トォルの武勇、冐險をうたつた『ヒュミイルクヴィザ』Hymirkvidha や、それから、雷神が眠つてゐる間に、その大切な鎚を巨人にぬすまれて、それを取り戻しに、女裝して巨人の住居に行く、『スリュムスクヴィザ』Thrymskvidha はなか/\面白い作であります。
神々の歌にはまだいろ/\の歌がありますが、それは略してこれから古英雄たちの歌のことを少しお話してみたいと思ひます。
『エッダ』の殆んど後半を占めてゐる古英雄たちの歌は、神話とはちがつてどうもスカンヂナヴィア原生のものでなく、中央ヨウロッパ、特に獨逸のものが、殆んど原形のまゝ、或はいくらかの北歐的修正を加へて、編入保存されたものが大部分を占めてゐまして、ノルウェイまたはスウェデン等に發生したと思はれるものは少ないのであります。たとへば、『エッダ』の中の最も古い傳説をうたつた『ヴェールンダル・クヴィザ』Vlundar kvidha 即ち、ヴェールンドの歌といふのがあります。これは熟練な金工ヴェールンドが、家出した妻の歸るのを待ちながら、拵へて置いた指環をニャールの王に奪はれ、剩へ、奴隸のやうに足の筋をきられて、ある島に禁錮せられた怨みから、王の二子をだまして殺し、指環を修繕に來た王女に暴行して、自分の工夫した翼をつけ、空をとんで逃げてしまつたといふ話ですが、これはドイツにある鍛冶ウイラントの話そのまゝで、ゲルマン民族に共通のものであります。