Chapter 1 of 4

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澄江堂雑記

芥川龍之介

一 大雅の画

僕は日頃大雅の画を欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十円位の大雅を一幅得たいのである。

大雅は偉い画描きである。昔、高久靄崖は一文無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ英霊漢の筆に成つた画は、何百円と雖も高い事はない。それを五十円に値切りたいのは、僕に余財のない悲しさである。しかし大雅の画品を思へば、たとへば五百万円を投ずるのも、僕のやうに五十円を投ずるのも、安いと云ふ点では同じかも知れぬ。芸術品の価値も小切手や紙幣に換算出来ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである。

Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出来の好い、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」を欲しがつてゐた。処が実際二度までも莫迦に安いレムブラントに遭遇した。一度は一磅と云ふ価の為に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin に諮つた上、とうとうそれを手に入れる事が出来た。その画はどう云ふ画だつたか、どの位の金を払つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或質店の店さきである。

かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の大雅を得んとするのは、必しも不可能事ではないかも知れぬ。何処か寂しい町の古道具屋の店に、たつた一幅売り残された、九霞山樵の水墨山水――僕は時時退屈すると弥勒の出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへ耽る事がある。

二 にきび

昔「羅生門」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人の頬には、大きい面皰のある由を書いた。当時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜すれば当推量に拠つたのであるが、その後左経記に二君とあり、二君又は二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。二君等は勿論当て字である。尤もかう云ふ発見は、僕自身に興味がある程、傍人には面白くも何ともあるまい。

三 将軍

官憲は僕の「将軍」と云ふ小説に、何行も抹殺を施した。処が今日の新聞を見ると生活に窮した廃兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の踏台」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を歩いたさうである。廃兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも覚束ないらしい。

又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、発売禁止を行ふさうである。○○の念は恋愛と同様、虚偽の上に立つ事の出来るものではない。虚偽とは過去の真理であり、今は通用せぬ藩札の類である。官憲は虚偽を強ひながら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと変りはない。

無邪気なるものは官憲である。

四 毛生え薬

文芸と階級問題との関係は、頭と毛生え薬との関係に似ている。もしちやんと毛が生えてゐれば、必しも塗る事を必要としない。又もし禿げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つても利かないであらう。

五 芸術至上主義

芸術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は万象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。芸術家が創作に対する態度も、亦斯くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。

芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに欠伸の出易いものである。

六 一切不捨

何の某は帽子ばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければ好いのだが、――かう云ふ言葉を做す人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、寸分も立派になる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に蔓延するばかりである。

何の某の小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫をするより、上着もズボンも外套も、上等ならしむる工夫をせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を活かすべき工夫をせねばならぬ。

これは独り芸術上の問題のみではない。人生に於ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を抱き得た坊主である。雲照さへ坊主の羅切を聞いては、「男根は須く隆隆たるべし」と、弟子共に教へたと云ふではないか?

我等の内にある一切のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、唯一の成仏の道である。

七 赤西蠣太

或時志賀直哉氏の愛読者と、「赤西蠣太の恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には栄螺とか鱒次郎とか安甲とか、大抵魚貝の名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程さうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太の恋」の筋をはつきり覚えてゐたのである。

客は決して軽薄児ではない。学問も人格も兼備した、寧ろ珍しい文芸通である。しかもこの事実に気づかなかつたのは、志賀氏の作品の型とでも云ふか、兎に角何時か頭の中にさう云ふ物を拵へた上、それに囚はれてゐた為であらう。これは独り客のみではない。我我も気をつけねばならぬ事である。

八 釣名文人

古来作家が本を出した時、その本の好評を計る為に、新聞雑誌に載るべき評論を利用する事は稀ではない。中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき匿名のもとに、手前味噌の評論を書いたのもある。

ド・ラ・ロシユフウコオルは名高い格言集の作家である。処がサント・ブウヴの書いたものによると、この人さへジユルナアル・デ・サヴアンに出た評論には、彼自身修正を施したらしい。しかもジユルナアル・デ・サヴアンは、当時発行された唯一の新聞であり、その評論の載つたのは、千六百六十五年三月九日だと云ふのだから、作家の評論を利用するのも、ずいぶん淵源は古いものである。僕はロシユフウコオルの格言を思ひながら、この記事を読んだ時、実際苦笑せずにはゐられなかつた。それを思へば日本の文壇は、新開地だけに悪風も少い。売笑批評とか仲間褒め批評とか云つても、まづ害毒は知れたものである。

因に云ふ。この評論の筆者はマダム・ド・サブレ、評論されたのは例の格言集である。

九 歴史小説

歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠実でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女関係の考へ方でも、現代のそれとは大分違ふ。其処を宛然作者自身も、和泉式部の友だちだつたやうに、虚心平気に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との対照の間に、自然或暗示を与へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラトもこれである。

しかし日本の歴史小説には、未だこの種の作品を見ない。日本のは大抵古人の心に、今人の心と共通する、云はばヒユマンな閃きを捉へた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?

十 世人

西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月巴里にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。

ルノアルの言つた言葉に、「画を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。

世人とは常にかう云ふものである。

十一 火渡りの行者

社会主義は、理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰も火渡りの行者を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。

十二 俊寛

平家物語や源平盛衰記以外に、俊寛の新解釈を試みたものは現代に始まつた事ではない。近松門左衛門の俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。

近松の俊寛の島に残るのは、俊寛自身の意志である。丹左衛門尉基康は、俊寛成経康頼等三人の赦免状を携へてゐる。が、成経の妻になつた、島の女千鳥だけは、舟に乗る事を許されない。正使基康には許す気があつても、副使の妹尾が許さぬのである。妻子の死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乗せる為に、妹尾太郎を殺してしまふ。「上使を斬りたる咎によつて、改めて今鬼界が島の流人となれば、上の御慈悲の筋も立ち、御上使の落度いささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船を勧めながら、従容と又かうも云ふのである。「俊寛が乗るは弘誓の船、浮き世の船には望みなし。」

僕は以前久米正雄と、この俊寛の芝居を見た。俊寛は故人段四郎、千鳥は歌右衛門、基康は羽左衛門、――他は記憶に残つてゐない。俊寛が乗るは云云の文句は、当時大いに久米正雄を感心させたものである。

近松の俊寛は源平盛衰記の俊寛よりも、遙かに偉い人になつてゐる。勿論舟出を見送る時には、嘆き悲しむのに相違ない。しかしその後は近松の俊寛も、安らかに余生を送つたかも知れぬ。少くとも盛衰記の俊寛程、悲しい末期には遇はなかつたであらう。――さう云ふ心もちを与へる限り、「苦しまざる俊寛」を書いたものは、夙に近松にあつたと云ふべきである。

しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にのみあつたのではない。彼の俊寛は「平家女護が島」の登場人物の一人である。が、倉田、菊池両氏の俊寛は、俊寛のみを主題としてゐる。鬼界が島に流された俊寛は如何に生活し、又如何に死を迎へたか?――これが両氏の問題である。この問題は殊に菊池氏の場合、かう云ふ形式にも換へられるであらう。――「我等は俊寛と同じやうに、島流しの境遇に陥つた時、どう云ふ生活を営むであらうか?」

近松と両氏との立ち場の相違は、盛衰記の記事の改めぶりにも、窺はれると云ふ事を妨げない。近松はあの俊寛を作る為に、俊寛の悲劇の関鍵たる赦免状の件さへも変更した。両氏も勿論近松に劣らず、盛衰記の記事を無視してゐる。しかし両氏とも近松のやうに、赦免状の件は改めてゐない。与へられた条件の内に、俊寛の解釈を試みる以上、これだけは保存せねばならぬからである。

丁度その場合と同じやうに、倉田氏と菊池氏との立ち場の相違も、やはり盛衰記の記事を変更した、その変更のし方に見えるかも知れぬ。倉田氏が俊寛の娘を死んだ事にしたり、菊池氏が島を豊沃の地にしたり、――それらは皆両氏の俊寛、――「苦しめる俊寛」と「苦しまざる俊寛」とを描出するに便だつた為であらう。僕の俊寛もこの点では、菊池氏の俊寛の蹤を追ふものである。唯菊池氏の俊寛は、寧ろ外部の生活に安住の因を見出してゐるが、僕のは必しもそればかりではない。

しかし謡や浄瑠璃にある通り、不毛の孤島に取り残された儘、しかもなほ悠悠たる、偉い俊寛を考へられぬではない。唯この巨鱗を捉へる事は、現在の僕には出来ぬのである。

附記 盛衰記に現れた俊寛は、機智に富んだ思想家であり、鶴の前を愛する色好みである。僕は特にこの点では、盛衰記の記事に忠実だつた。又俊寛の歌なるものは、康頼や成経より拙いやうである。俊寛は議論には長じてゐても、詩人肌ではなかつたらしい。僕はこの点でも、盛衰記に忠実な態度を改めなかつた。又盛衰記の鬼界が島は、たとひタイテイではないにしても、満更岩ばかりでもなささうである。もしあの盛衰記の島の記事から、辺土に対する都会人の恐怖や嫌悪を除き去れば、存外古風土記にありさうな、愛すべき島になるかも知れない。

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