五、検束回数のレコードホルダー
私は戦前、無産政党に籍をおくと同時に日本農民組合、日本労働総同盟、日本鉱夫組合にも参加して労働運動もやってきた。その間数々の小作争議、鉱山争議、工場ストを経験したが、いまのストライキにくらべて感慨無量なものがある。
早大在学中、ふと足尾銅山のメーデーに参加したことが、私を鉱山労働運動に結びつけた。当時の足尾銅山には石山寅吉、高梨二夫、高橋長太郎、可児義雄など優秀な労働運動家がおり、日本鉱夫組合本部にも麻生久、加藤勘十、佐野学などの人がいて、私は鉱山労働運動に強くひきつけられた。以来、足尾銅山、小坂鉱山、花岡鉱山、阿仁銅山、別子銅山等の労働争議に参加した。そのうちで特に印象が深いのは大正十二年の秋田の阿仁銅山の争議である。
阿仁銅山の現地から鉱山労働組合本部へ首切りがあった旨の通知があったので、私は高梨君とともに現地に行った。阿仁銅山に到着し、鉱夫長屋の一室で作戦をねっていると、夜中の一時ごろと思うが、突然会社側のやとった暴力団が鉱夫長屋に押しかけてきた。暴力団はワイワイわめきながら、長屋を取巻き、石を投げたり、竹槍で無茶苦茶についてまわる。私はこれはヤラレたと覚悟したが、その時、私服の警官が入ってきて『君たちの生命は保障できないから、警察まできてくれ』という。私たちは負けてなるものかとがんばっていたが、騒ぎはますます激しくなるばかりなので、裏口から山の中へ逃込んだ。そして多少ホトボリもさめたろうと町へ出てくると警察に検挙され、阿仁合警察署に留置された。ところが今度は鉱夫たちが警察署に大挙押しかけてきて、警察が私たちの生命を保障できないなら自分たちがあずかると私たちを警察から出してくれ、三日三晩、カンテラとツルハシで守ってくれた。しかし事態は二転し、私たちはまた検束され後から応援にきた可児義雄君の三人、ともども警官五人に守られて再び阿仁合川を下り、そのまま秋田県から追放された。
その翌年足尾銅山の精練工場の首切りがあり、ストライキとなった。私は応援に行き、デモに加わったが、警官隊と衝突、治安警察法違反と公務執行妨害罪で検束され、栃木の女囚監獄の未決に入れられた。この私の事件で裁判の弁護をやってくれたのが、若き日の片山哲、麻生久、三輪寿壮の諸氏であった。裁判の最後になって『被告になにかいうことはないか』と裁判長がいったので『デモの妨害をしたのは警官である。その妨害した警官が罪にならず、なんの抵抗もしない私たちが罪になるのは了解に苦しむ。無罪だ』と述べたが懲役五ヵ月をくった。
獄中でゲタの鼻緒の芯をない、封筒はりをしたが、獄房の中へもシャバのタヨリが伝わってくる。ある房から新潟県の木崎村で大小作争議が起っていることを知らされた。私は友人の三宅正一、稲村隆一の両君が活躍していることを思い、いても立ってもおられず出獄したら、すぐその足で新潟に行き応援しようと心に決め、獄房の中で小さな声でアジ演説の練習をしていた。獄中の決心の通りに出獄後新潟にとんで行ったら、三宅君はすでに騒じょうの罪で新潟監獄につかまっていた。その後、昭和五年、日本農民組合(労農党系)と全日本農民組合(日労系)が合同して全国農民組合ができたが、私は争議部長に選ばれ、全国の小作争議をかけ回らされた。
昭和四年、日本大衆党の公認をうけ東京市深川区から市会議員に立候補した関係で、深川のアパートに住むようになり、それ以来、江東地区の労働運動に関係するようになった。関東木材産業労働組合、東京地方自由労働者組合、東京製糖労働組合の組合長をやり、日本労働総同盟に参加して、深川木場の労働者のために多くの争議を指導した。たしか昭和十年ごろと思うが、ある深川の製材工場が釘で厳重にロック・アウトをしたことがあった。われわれはこれをぶちこわして強引に工場へ入ったところ、会社側も負けじとお雇い人夫を動員、トビ口やコン棒を振上げ襲いかかってきた。あわや血の雨の降る大乱闘になろうという時、救いの神ともいうべき警官が現われ平野警察署長青木重臣君(のちの平沼内閣書記官長、愛媛県知事)の命令で、労使ともに検束されてしまった。留置場はまさに呉越同舟、敵も味方も一しょくたにされていたが、そのおかげで留置場内で話がまとまり、争議が解決したのだからケッ作だ。青木署長もなかなか思い切ったことをしたものである。
演説をやれば「注意、中止、検束」、デモでは先頭にいて「検束」という具合で、この当時の社会運動家の中ではわたくしが検束の回数では筆頭だったようだ。