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ガリレオ・ガリレイ
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ガリレオ・ガリレイ
石原純
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 4

宗教裁判とその晩年

ところが一六一〇年に、ガリレイがピザに帰ってからは、その地がローマ法王の直接の管下に属するだけに、ますます宗教家たちの反対が強くなり、異端説を主張するのをひどく責めるようになりました。その間にガリレイは、その誤解を説き、また科学と宗教との異なることを示そうとしてあらゆる努力を費しましたが、それは到底当時の人々の耳には入らなかったので、また中にはガリレイの名声の高いのを嫉む人々の策謀などもそれに混って来て、遂には大僧正の命令で地動説を称えてはならないということを警告されました。之は一六一六年のことでしたが、その後も併しガリレイは自分の信念だけは変えませんでした。併しただ当分のうちはできるだけ事を荒立てないように黙って過ごしましたが、数年経てからは事情もいくらか違って来たので、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年に之を出版しました。

ところがこの書物についてある僧侶がローマ法王に讒言したので、法王は宗教裁判所に審査させることになり、その結果この讒言は通らなかったのでしたが、ガリレイは之によって大僧正の以前の警告を無視しているという判決が下されて、ローマに出頭を命ぜられました。ガリレイはこの時既に七十歳に近い老年で、おまけに病身で衰弱していましたが、その冬の寒い季節に止むなく旅に出かけ、翌年の二月にようやくローマに到着しました。併し疲労が甚だしいので暫くの間静養が許され、四月になって裁判所で審問が始まりました。

この審判の結果は、ガリレイの書物の領布を禁じ、地動説を放棄することを条件として閑居を命ぜられたので、その宣告の日には自分でその判決文を読んで宣誓のために署名をさせられたのでした。それからガリレイはフィレンツェの自分の家に帰って、そこに閉じこもって晩年を送りましたが、この間の彼の生活は実に寂しい有様ですごされました。その一人娘のバージニアが彼の病苦をやさしく慰めはしたものの、その後まもなく彼に先き立って没くなりました。でも、ガリレイの唯一つの慰めはその科学上の研究にあったので、これ迄に行ったいろいろな研究をまとめて、それを一六三八年に出版しました。之は普通に「力学対話」と呼ばれていますが、以前の「天文対話」と同じように問答の形式に書かれているので、そこに始めて科学研究の正しい道が示されている点で非常に重要な書物なのであります。

ところが、ガリレイ自身はそれ以前から眼をわずらっていて、この書物が出版された頃にはもはや両眼とも全く盲目になっていて、せっかくの自分の書物を見ることができなかったと云うのですから、実に惨ましい極みでもありました。それでも彼の精神は最後までしっかりしていたとのことで、以前からガリレイのためになみなみならぬ心尽しをされたトスカナの大公爵はいつも彼の病床を見舞われて慰問をなし、有名な詩人ミルトンなども彼を訪ずれました。そしてその病床には最も忠実な弟子であったヴィヴィアニ及びトリチェリが絶えず傍に侍していたということです。かくてガリレイは一六四二年の一月八日に、七十八歳の高齢でこの世を去りましたが、一生を科学のために尽した満足をもって安らかにその生を終ったのでありましょう。ガリレイの死後にも寺院はなお迫害を加えていたのですが、後の時代になってはかえってそれとは反対に誰しもがガリレイの不朽の功績をたたえるようになったのですから、この事はあらゆる人々にとっての絶大な教訓でなければなりません。つまりそれはガリレイが何等の私心もなく、ひたすらに真理のために尽した偉大な仕事のおかげによるのです。しかも科学の上での真理は永遠に消え失せることもなく、人間の社会が進めば進むほど、ますますそのなかにすばらしい輝きを増してくるようになるのです。今ではフィレンツェの聖十字院のなかにガリレイの立派な墓碑が立てられ、博物館にはその立像が置かれ、彼の製作した望遠鏡やその他の器械が陳列されて、そぞろに彼の面影を偲ばしめています。

●図書カード

Chapter 4 of 4
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