Chapter 1 of 12

二十四

この雨は間もなく霽れて、庭も山も青き天鵞絨に蝶花の刺繍ある霞を落した。何んの余波やら、庵にも、座にも、袖にも、菜種の薫が染みたのである。

出家は、さて日が出口から、裏山のその蛇の矢倉を案内しよう、と老実やかに勧めたけれども、この際、観音の御堂の背後へ通り越す心持はしなかったので、挨拶も後日を期して、散策子は、やがて庵を辞した。

差当り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も陳べられなかったので、言われた事、話されただけを、不残鵜呑みにして、天窓から詰込んで、胸が膨れるまでになったから、独り静に歩行きながら、消化して胃の腑に落ちつけようと思ったから。

対手も出家だから仔細はあるまい、(さようなら)が些と唐突であったかも知れぬ。

ところで、石段を背後にして、行手へ例の二階を置いて、吻と息をすると……、

「転寐に……」

と先ず口の裏でいって見て、小首を傾けた。杖が邪魔なので腕の処へ揺り上げて、引包んだその袖ともに腕組をした。菜種の花道、幕の外の引込みには引立たない野郎姿。雨上りで照々と日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許、辷って転ばねば可い。

「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」

とちょいと顔を上げて見ると、左の崕から椎の樹が横に出ている――遠くから視めると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室はもう右手の背後になった。

見たばかりで、すぐにまた、

「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚めて、ああ、転寐だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時か聞いた事がある、狂人と真人間は、唯時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気だけれど、直ぐ、凪ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人なんだと。

危険々々。

ト来た日にゃ夢もまた同一だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。

夢になら恋人に逢えると極れば、こりゃ一層夢にしてしまって、世間で、誰某は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。

庵室の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼み切りにしたのかな。」

と考えが道草の蝶に誘われて、ふわふわと玉の緒が菜の花ぞいに伸びた処を、風もないのに、颯とばかり、横合から雪の腕、緋の襟で、つと爪尖を反らして足を踏伸ばした姿が、真黒な馬に乗って、蒼空を飜然と飛び、帽子の廂を掠めるばかり、大波を乗って、一跨ぎに紅の虹を躍り越えたものがある。

はたと、これに空想の前途を遮られて、驚いて心付くと、赤楝蛇のあとを過ぎて、機を織る婦人の小家も通り越していたのであった。

音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた停車場の笛太鼓、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。

筋向いの垣根の際に、こなたを待ち受けたものらしい、鍬を杖いて立って、莞爾ついて、のっそりと親仁あり。

「はあ、もし今帰らせえますかね。」

「や、先刻は。」

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