Chapter 1 of 4

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伯爵の釵

泉鏡花

此のもの語の起つた土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央に城の天守尚ほ高く聳え、森黒く、濠蒼く、国境の山岳は重畳として、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、甍の浪の町を抱いた、北陸の都である。

一年、激しい旱魃のあつた真夏の事。

……と言ふと忽ち、天に可恐しき入道雲湧き、地に水論の修羅の巷の流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰ではない。

恁る折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、此の土地に七日間の興行して、全市の湧くが如き人気を博した。

極暑の、旱と言ふのに、たとひ如何なる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥に満々と水を湛へ、蝋燭に灯を点じたのを其の中に立てて目塗をすると、壁を透して煙が裡へ漲つても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。

こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、恰も此の轍だ、と称へて可い。雲は焚け、草は萎み、水は涸れ、人は喘ぐ時、一座の劇は宛然褥熱に対する氷の如く、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎らして剰余あつた。

膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、挙つて座中の明星と称へられた村井紫玉が、

「まあ……前刻の、あの、小さな児は?」

公園の茶店に、一人静に憩ひながら、緋塩瀬の煙管筒の結目を解掛けつゝ、偶と思つた。……

髷も女優巻でなく、故とつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒した意気造。形容に合せて、煙草入も、好みで持つた気組の婀娜。

で、見た処は芸妓の内証歩行と云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても可い風采。

また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演劇は昨日楽に成つて、座の中には、直ぐに次興行の隣国へ、早く先乗をしたのが多い。が、地方としては、此まで経歴つた其処彼処より、観光に価値する名所が夥い、と聞いて、中二日ばかりの休暇を、紫玉は此の土地に居残つた。そして、旅宿に二人附添つた、玉野、玉江と云ふ女弟子も連れないで、一人で密と、……日盛も恁うした身には苦にならず、町中を見つゝ漫に来た。

惟ふに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であらう。落人の其ならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都度、ハツと隠れ忍んで、微笑み/\通ると思へ。

深張の涼傘の影ながら、尚ほ面影は透き、色香は仄めく……心地すれば、誰憚るともなく自然から俯目に俯向く。謙譲の褄はづれは、倨傲の襟より品を備へて、尋常な姿容は調つて、焼地に焦りつく影も、水で描いたやうに涼しくも清爽であつた。

僅少に畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも、人は目をつて、鯨に乗つて人魚が通ると見たであらう。……素足の白いのが、すら/\と黒繻子の上を辷れば、溝の流も清水の音信。

で、真先に志したのは、城の櫓と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈すると云ふ、景勝の公園であつた。

公園の入口に、樹林を背戸に、蓮池を庭に、柳、藤、桜、山吹など、飛々に名を呼ばれた茶店がある。

紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋と言ふのであつた。が、紅い襷で、色白な娘が運んだ、煎茶と煙草盆を袖に控へて、然まで嗜むともない、其の、伊達に持つた煙草入を手にした時、――

「……あれは女の児だつたか知ら、其とも男の児だつたらうかね。」

――と思ひ出したのは其である。――

で、華奢造りの黄金煙管で、余り馴れない、些と覚束ない手つきして、青磁色の手つきの瀬戸火鉢を探りながら、

「……帽子を……被つて居たとすれば、男の児だらうが、青い鉢巻だつけ。……麦藁に巻いた切だつたらうか、其ともリボンか知ら。色は判然覚えて居るけど、……お待ちよ、――と恁うだから。……」

取つて着けたやうな喫み方だから、見ると、もの/\しいまでに、打傾いて一口吸つて、

「……年紀は、然うさね、七歳か六歳ぐらゐな、色の白い上品な、……男の児にしては些と綺麗過ぎるから女の児――だとリボンだね。――青いリボン。……幼稚くたつて緋と限りもしないわね。では、矢張り女の児か知ら。それにしては麦藁帽子……尤もおさげに結つてれば……だけど、其処までは気が付かない。……」

大通りは一筋だが、道に迷ふのも一興で、其処ともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から瓜、茄子の畠の覗かれる、荒れ寂れた邸町を一人で通つて、まるつ切人に行合はず。白熱した日盛に、よくも羽が焦げないと思ふ、白い蝶々の、不意にスツと来て、飜々と擦違ふのを、吃驚した顔をして見送つて、そして莞爾……したり……然うした時は象牙骨の扇で一寸招いて見たり。……土塀の崩屋根を仰いで血のやうな百日紅の咲満ちた枝を、涼傘の尖で擽ぐる、と堪らない。とぶる/\ゆさ/\と行るのに、「御免なさい。」と言つて見たり。石垣の草蒸に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むく/\と動出しさうなのに、「あれ。」と飛退いたり。取留めのないすさびも、此の女の人気なれば、話せば逸話に伝へられよう。

低い山かと見た、樹立の繁つた高い公園の下へ出ると、坂の上り口に社があつた。

宮も大きく、境内も広かつた。が、砂浜に鳥居を立てたやうで、拝殿の裏崕には鬱々たる其の公園の森を負ひながら、広前は一面、真空なる太陽に、礫の影一つなく、唯白紙を敷詰めた光景なのが、日射に、やゝ黄んで、渺として、何処から散つたか、百日紅の二三点。

……覗くと、静まり返つた正面の階の傍に、紅の手綱、朱の鞍置いた、つくりものの自の神馬が寂寞として一頭立つ。横に公園へ上る坂は、見透しに成つて居たから、涼傘のまゝスツと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまゝ鳥居の柱に映つて通る。……其処に屋根囲した、大なる石の御手洗があつて、青き竜頭から湛へた水は、且つすら/\と玉を乱して、颯と簾に噴溢れる。其手水鉢の周囲に、唯一人……其の稚児が居たのであつた。

が、炎天、人影も絶えた折から、父母の昼寝の夢を抜出した、神官の児であらうと紫玉は視た。ちら/\廻りつゝ、廻りつゝ、彼方此方する。……

唯、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまはりを廻るのが、宛然、石に刻んだ形が、噴溢れる水の影に誘はれて、すら/\と動くやうな。……と視るうちに、稚児は伸上り、伸上つては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上つては、又空に手を伸ばす。――

紫玉はズツと寄つた。稚児は最う涼傘の陰に入つたのである。

「一寸……何をして居るの。」

「水が欲しいの。」

と、あどけなく言つた。

あゝ、其がため足場を取つては、取替へては、手を伸ばす、が爪立つても、青い巾を巻いた、其の振分髪、まろが丈は……筒井筒其の半にも届くまい。

其の御手洗の高い縁に乗つて居る柄杓を、取りたい、と又稚児が然う言つた。

紫玉は思はず微笑んで、

「あら、恁うすれば仔細はないよ。」

と、半身を斜めにして、溢れかゝる水の一筋を、玉の雫に、颯と散らして、赤く燃ゆるやうな唇に請けた。ちやうど渇いても居たし、水の潔い事を見たのは言ふまでもない。

「ねえ、お前。」

稚児が仰いで、熟と紫玉を視て、

「手を浄める水だもの。」

直接に吻を接るのは不作法だ、と咎めたやうに聞えたのである。

劇壇の女王は、気色した。

「いやにお茶がつてるよ、生意気な。」と、軽く其の頭を掌で叩き放しに、衝と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、扨てやがて此の茶屋に憩つたのであつた。――

今思ふと、手を触れた稚児の頭も、女か、男か、不思議に其の感覚が残らぬ。気は涼しかつたが、暑さに、幾干か茫としたものかも知れない。

「娘さん、町から、此の坂を上る処に、お宮がありますわね。」

「はい。」

「何と言ふ、お社です。」

「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答へた。

「何神様が祭つてあります。」

「お父さん、お父さん。」と娘が、つい傍に、蓮池に向いて、(じんべ)と言ふ膝ぎりの帷子で、眼鏡の下に内職らしい網をすいて居る半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、其から向直つて、丁寧に辞儀をして、

「えゝ、浦安様は、浦安かれとの、其の御守護ぢやさうにござりまして。水をばお司りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替へて上げぬかい。」

紫玉は我知らず衣紋が締つた。……称へかたは相応はぬにもせよ、拙な山水画の裡の隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。

心着けば、正面神棚の下には、我が姿、昨夜も扮した、劇中女主人公の王妃なる、玉の鳳凰の如きが掲げてあつた。

「そして、……」

声も朗かに、且つ慎ましく、

「竜神だと、女神ですか、男神ですか。」

「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、恰も此の問を待構へたやうに、

「其の儀は、とかくに申しまするが、如何か、孰れとも相分りませぬ。此の公園のづツと奥に、真暗な巌窟の中に、一ヶ処清水の湧く井戸がござります。古色の夥しい青銅の竜が蟠つて、井桁に蓋をして居りまして、金網を張り、みだりに近づいては成りませぬが、霊沢金水と申して、此がために此の市の名が起りましたと申します。此が奥の院と申す事で、えゝ、貴方様が御意の浦安神社は、其の前殿と申す事でござります。御参詣を遊ばしましたか。」

「あ、否。」と言つたが、すぐ又稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。

森々たる日中の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に聳ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの槐榎の暗い影が樅楓を薄く交へて、藍緑の流に群青の瀬のある如き、たら/\上りの径がある。滝かと思ふ蝉時雨。光る雨、輝く木の葉、此の炎天の下蔭は、恰も稲妻に籠る穴に似て、もの凄いまで寂寞した。

木下闇、其の横径の中途に、空屋かと思ふ、廂の朽ちた、誰も居ない店がある……

鎖してはないものの、奥に人が居て住むかさへ疑はしい。其とも日が暮れると、白い首でも出て些とは客が寄らうも知れぬ。店一杯に雛壇のやうな台を置いて、最ど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の附元に、流星の髑髏、乾びた蛾に似たものを、点々並べたのは的である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の機関とは一目視て紫玉にも分つた。

実は――吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の廂合の幕から倒にぶら下り、見越入道は誂へた穴からヌツと出る。雪女は拵への黒塀に薄り立ち、産女鳥は石地蔵と並んで悄乎彳む。一ツ目小僧の豆腐買は、流灌頂の野川の縁を、大笠を俯向けて、跣足でちよこ/\と巧みに歩行くなど、仕掛ものに成つて居る。……如何はしいが、生霊と札の立つた就中小さな的に吹当てると、床板がぐわらりと転覆つて、大松蕈を抱いた緋の褌のおかめが、とんぼ返りをして莞爾と飛出す、途端に、四方へ引張つた綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉にぐわんぐわらん、どんどと鳴つて、其で市が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたひ歩行く波張が切々に、藪畳は打倒れ、飾の石地蔵は仰向けに反つて、視た処、ものあはれなまで寂れて居た。

――其の軒の土間に、背後むきに蹲んだ僧形のものがある。坊主であらう。墨染の麻の法衣の破れ/\な形で、鬱金も最う鼠に汚れた布に――すぐ、分つたが、――三味線を一挺、盲目の琵琶背負に背負つて居る、漂泊ふ門附の類であらう。

何をか働く。人目を避けて、蹲つて、虱を捻るか、瘡を掻くか、弁当を使ふとも、掃溜を探した干魚の骨を舐るに過ぎまい。乞食のやうに薄汚い。

紫玉は敗竄した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息を漏らした。且つあはれみ、且つ可忌しがつたのである。

灰吹に薄い唾した。

此の世盛りの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も滴るが如き影に、框も自然から浮いて高い処に、色も濡々と水際立つ、紫陽花の花の姿を撓わに置きつゝ、翡翠、紅玉、真珠など、指環を三つ四つ嵌めた白い指をツト挙げて、鬢の後毛を掻いた次手に、白金の高彫の、翼に金剛石を鏤め、目には血膸玉、嘴と爪に緑宝玉の象嵌した、白く輝く鸚鵡の釵――何某の伯爵が心を籠めた贈ものとて、人は知つて、(伯爵)と称ふる其の釵を抜いて、脚を返して、喫掛けた火皿の脂を浚つた。……伊達の煙管は、煙を吸ふより、手すさみの科が多い慣習である。

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