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迷信解
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迷信解
井上円了
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 15

第三段 狐惑、狐憑きのこと

偽怪、誤怪はすこぶる多きも、この二者を除き、なお実際の狐惑、狐憑きは諸方に起こり、たやすく実験のできることなれば、別段例を挙ぐるに及ばぬ。されど、ここに二、三の事実談を紹介しようと思う。狐惑の種類は実に千態万状にして、いくたあるを知られぬほどである。民間にては、すべて奇怪に思うことは狐狸の所為に帰することに定まりておる。その中に最も普通に狐惑と称するは、夜中道を歩くに、道なき所を道のあるように覚えて歩き回り、あるいは水なき所を水あるように思い、また水ある所を水なきように心得て歩きおる場合を、すべて狐にだまされたと申しておる。これらは最も単純なる方なれども、中には複雑なる話がある。すなわち、「先年、尾州中島郡にて堀田某氏がある家の座敷より望むに、日中農夫の糞桶を担ぎ、ひしゃくを手にし、作物の上をも顧みず歩き回り、西するかと思えばたちまち東し、右にゆくかと思えばまた左にゆき、なにものをか追うもののごとく、その挙動はなはだ怪しければ、戸外に出でて四方を眺むるに、農夫のおる所より数町を隔てて一個の老狐あり。尾を左右に動かして、あるいは進みあるいは退く。農夫これと進退挙動をともにするを見たり。ここにおいて、堀田氏は狐のそばに進んでこれを追い、大声を発して農夫を呼びたれば、狐は走り去り、農夫も気付きていうには、『最初狐きたりて、己が近傍を徘徊せしゆえ、これを追わんとして右へゆき左へゆきする間に、前後を覚えざるようになりたり』と話しせり」とのこと。これ、狐惑中のやや複雑なるものと申してよろしい。

つぎに狐憑きの話は、これまた千差万別なれども、普通の状態によるに、最初は多少の原因によりて病気を起こし、あるときより精神の異状をきたし、われは何々の狐なりと自らいい出だし、その身振りはおのずから狐のごとく、その声も狐をまねるようになり、「われに小豆飯、油揚げを与えよ」と呼ぶからこれを与うれば、二、三人前くらいを食して人を驚かし、狐のおらざるに狐の友達が来たりたりとてこれに向かって話を交え、あるいは人の秘密をあばき、あるいは未来のことを告げ、人をしてますます不思議に思わしむるものである。従来、民間にてこれを治する法は、修験者のごときものを雇い、祈祷を行い、本人を責めて、「汝、なんのために来たりしや、早く去るべし」と命ずれば、本人いちいちこれに答え、種々問答の末、本人急に正気に復することがある。そのときは本人の状態、あたかも夢のさめたるがごとくに覚ゆ。これを、狐がその体より去りたりと申しておる。あるいは狐憑き者の中には、狐が腹の中にすむと称し、その場所を探るに、肉の固まりのあるように感ずるとのことじゃ。また、これを追い出だす法には、本人を松葉いぶしにかけて苦しむることがある。実に残酷の話ではないか。その他の状態は、いちいち挙ぐることはできぬから略しておこう。

さて、狐惑、狐憑きの説明につきては、物理的方面と心理的方面との両様より考えなければならぬ。まず物理的方面にては、狐狸その体に、果たしてよく人を誑惑し得る知能ありやいかんを探り、またその挙動に、果たして怪しむべきところありやいかんを知ることが必要である。西洋にては狐の狡猾なることを唱うれども、人を誑惑するということは聞かぬ。ただし、狐の知力につきてはいろいろ研究したるものがある。その中には驚くべき機知を有することの例もあれども、これひとり狐に限りたるにあらず、高等動物にはこれにひとしき知力を有するものはすくなくない。されば、狐が人を誑惑するだけの知力を有することは信ぜられぬ。しかして、よく誑惑するは、人の方にて自ら招くに相違ない。いったい狐は多少の猾知ある上に、その挙動のなんとなく人をして奇怪の念を起こさしむる風がある。その逃ぐるにも、ときどき足をとどめて後ろをふりかえり見るがごときは、人に疑念を起こさしむるように思わる。その他、民間にて申すには、狐が石を投げ柝をうち、あるいは火を吐き戸をたたくというが、その真偽は判定し難きも、実際目撃したりという話を聞くに、石を投ぐるは後足をもって石をけとばすのであるとのこと。また柝をうつは、石を口に挟みてほかの石をうつということじゃ。深夜、人家の戸をたたくは、尾をもって打つ声であると申しておる。このくらいの働きは狐にあるに相違なかろうが、世に狐火と称するものは、狐が人骨を口に挟みて息気を吐くときに、火となりて現るとの説あれども、これははなはだ疑わしい。また、狸の腹鼓も石をもって物をうつ音なりという人あれども信じ兼ぬる。とにかく、狐の作用にそのなんの目的に出ずるかは知らざれど、多少人をして疑いを抱かしむることはありそうに思わる。されど、狐に諸動物にすぐれたる霊知のあることは、決して信ぜらるるはずはない。

つぎに、心理的方面につきて人の心の状態を見るに、狐に誑惑せらるる場合には、必ずいろいろの事情が伴っておる。例えば、深夜野外を独行するとき、または薄暮、深林の中を通行するとき、あるいは狐が住すると伝えらるる場所に通りかかりたるとき、あるいは酔後東西を弁ぜず、もしくは精神の疲労せるときに、多く狐惑を現ずるものである。かかる場合に、その人の心に狐惑の疑念を起こさば、たちまち自ら迷って方向を失い妄想を浮かべ、狐惑の状態に陥るは当然のことにて、毫も怪しむに及ばぬ。虚心平気、知識に長じ、思慮の深き人には、いまだかつて狐惑にかかりしを聞かぬ。また、無我無念の小児にして、狐狸のなにものたるを解せざるものも、狐に誑惑せられし例がない。されば、狐惑は人の自ら招くところなるに相違ない。かの道なき所に道あるように覚え、水ある所に水なきように思い、狐に左右せられて進退するなどは、狐を恐るるより疑心暗鬼を生ずるに至り、一時の幻覚、妄境を現ずるのである。そのくわしき説明は、心理学を研究せねばならぬ。

つぎに狐憑きに至りては、その現象極めて複雑なれども、要するに一種の精神病なることは申すまでもない。人はときによりて精神の異状を起こすことあるに、愚俗はその理を解せざるより、これを狐狸またはほかの動物の人体に憑付して起こすものと考え、ある地方にてはその原因を狐に帰し、ほかの地方にては狸もしくは貉もしくは猫、蛇等に帰するのである。人狐、犬神等、その名は異なれども、その実は同じ。ただ、その地方における古来の伝説によりてその名を異にし、したがってその現象も異なるに至るわけじゃ。例えば、その地の昔話に犬神の伝説ありて、幼少のときより聞き込んでおるものが精神の異状を起こすときは、その記憶が内に動きて身心を支配するようになり、すべての挙動が犬神を現ずるに至る道理である。狐憑きにかかるものは、狐のおらざるに常に目に狐の形を見、耳に狐の声を聞き、狸憑きにかかるものは、狸のあらざるに日夜狸の声色を現見するは、全く心の妄想がほかに現れて、幻像、妄境を組み立つるゆえである。かくのごときことは精神病者にありがちのことなれば、決して怪しむに及ばぬ。あるいは狐が己の腹中にすんでおる、口の中より出入するなどいうも、みな病的より起こすところの神経作用にして、狐そのものの所為にあらざることは明らかである。要するに、われわれは幼少のときより、狐が人をだまし、または人につくということを聞き、その話が平常記憶のうちにとどまりておる。その記憶が、ある格段なる場合に外部の事情に応じて心内に動き、これと連絡せる種々の想像が呼び起こされ、その一点に心の全力が集中するようになり、その影響が五官および手足の上に現れ、いわゆる狐惑または狐憑きの実況を示すに至るのじゃ。つまり、狐の観念すなわち思想が中心となりて、身心の一部もしくは全体がその支配を受くるようになるのじゃ。狐狸の幻像を見るというも同じ道理である。よって、狐惑、狐憑きは、狐の夢を実現するものと心得てよろしい。ただし、そのくわしき理由は、心理学を学びたる後にあらざれば知ることができぬ。余は、『妖怪学講義』もしくは『妖怪学雑誌』の「心理学部門」にその説明を掲げておいたから、望みの人はこれにつきて一読あらば、定めて会得ができようかと思う。

Chapter 4 of 15
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