Chapter 1 of 5

1

私は昨今、本県の社会で問題となっているユタについて御話をしてみたいと思います。「ユタの歴史的研究」! これはすこぶる変な問題でありますが、那覇の大火後、那覇の婦人社会を騒がしたユタという者を歴史的に研究するのもあながち無益なことではなかろうと思います。ユタの事などは馬鹿馬鹿しいと思われる方があるかもしれませぬが、この馬鹿馬鹿しいことが実際沖縄の社会に存在しているから仕方がない。哲学者ヘーゲルが「一切の現実なる者は悉く理に合せり」と申した通り、世の中に存在している事物には存在しているだけの理由があるだろうと思います。沖縄の婦人がユタに共鳴するところはやがて問題のあるところであります。女子は人類社会のほとんど半数を占めている、沖縄五十万の人民中二十五万以上は女子である。かくのごとく大なる数を有っている女子に関する問題が等閑に附せられているのは遺憾なることであります。それはとにかく、中央の劇場でイプセンの「ノラ」やズーダーマンの「マグダ」が演ぜられつつある今日、沖縄の劇場でユタの事が演ぜられるのは妙なコントラストであります。そこで私は、ユタを中心として活動する沖縄の古い女は婦人問題で活動する新しい女より二千年も後れていると断言せざるを得ないのであります。

さて本論に這入る前に、古琉球の政教一致について簡単に述べる必要があります。おおよそ古代において国家団結の要素としては権力腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものは皆祖先を同じうせる者の相集って組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集って組織せる宗教団体であります。いったい物には進化して始めて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体等おのおの相分れて互に別種の形式内容を保っているものの、これら各種の団体は古代に遡ると次第に相寄り相重り、ついにまったくその範囲を同じうして政治的団体たる国家は同時に家族的団体たり宗教的団体たりしもので、古来の国家が初めて歴史に見われた時代には皆そうであったのであります(河上肇著『経済学研究』の第九章「崇神天皇の朝、神宮・皇居の別新たに起りし事実を以て国家統一の一大時期を画すものなりと云ふの私見」参照)。私は沖縄の歴史においてもかくのごとき事実のあることを発見するのであります。

沖縄の歴史を研究してみると、三山の区画はその形式だけはとうに尚巴志によって破壊されたが、その実質は尚真王のころ三山の諸侯が首里に移された時まで存在したということがわかります。そしてこの中央集権は、じつに三山の割拠を演じていた周廻百里の舞台を首里という一小丘を中心とせる一方里の範囲に縮小したようなものであります。三山の遺臣はなお三平等(三ツの行政区画)に割拠して調和しなかったのであります。語を換えて言えば、政治的に統一された沖縄はまだ宗教的(すなわち精神的)に統一されなかったのであります。とにかく、尚家を中心とせる政治的団体は同時に家族的団体であってまた宗教的団体でありましたが、新しく這入って来た団体はこれとは血液を異にし、神を異にしていると思っていたところの団体でありました。そこで首里の方では島尻地方から来た連中を真和志の平等に置き、中頭地方から来た連中を南風の平等に置き、国頭地方から来た連中を北の平等に置き、その間に在来の首里人を混ぜてその首里化を計ったのであります。そして三山の諸按司はその領地にて地頭代という者を置いて、自分等はいよいよ首里に永住するようになっても折り折り祖先の墳墓に参詣したのであります。ところが彼等をしばしばその故郷にかえすということは復古的の考えを起させる基になるので政策上よくないことでありますから、尚家の政治家は三平等に各自の遥拝所を設けさせたのであります。すなわち南風の平等は赤田に首里殿内を、真和志の平等は山川に真壁殿内を、北の平等は儀保に儀保殿内を建てさせました。そしてその形式はいずれも尚家の神社なる聞得大君御殿にまねて祖先の神と火の神と鉄の神とを祭らしたのであります。そして時の経つにつれて三種族は合して一民族を形成するようになり、その中で最も勢力のあった尚家の神が一歩を進めて新たに発生した民族全体の神となり相合した数多の氏族は皆これをもって共同の祭神となすに至りました。

私の考えでは、首里城附近否首里城中にあった聞得大君御殿が時代を経るに従ってその神威はますます高まり、ついには一定の場所を撰んでここに鎮座するに至ったのでありましょう。今もそうであるが特に古代においては、御互の間に血縁なりとの仮想が生ずる時に、これがやがて新たに主君との恩顧の関係、はじめて非血縁者を人為的に血縁同胞たらしめるのであります。すなわち三山の遺民は戯曲「忠孝婦人」の玉栄が村原婦人と「御神一ツの近親類」といって誇ったように威名赫々たる中山王と神を同じうする近い親類といって喜んだのでありましょう。これがやがて「弱者の心理」であります。今日皆さんが御覧になるところの本県の祖先崇拝の宗教はこういう風にして出来上ったのであります。これはじつに当時の人心を支配すること極めて甚しく、彼等はその吉凶禍福をもって一に懸って祖先の神意になるものとなしました(今なおそうである)。ゆえに当時の社会においてはその祖先を祭るということは、社会共同の禍福を保存するがために最も重大なる用務であって、政治はすなわち祭事、祭事はすなわち政治でありました。かくのごとくにしていわゆる政教一致の国家が出来上りました。政治的に統一された沖縄は宗教的にも統一されたのであります。じつにこの民族的宗教は当時の国民的生活を統一するにはなくてならぬものでありました。

以上申上げた通り、沖縄で四百年前、中央集権を行った時分に政教一致はひとしお必要になったのであります。さてこの以前から男子は政治にたずさわり女子は宗教にたずさわるという風に分業的になっていたのであるが、政教一致の時代においては二者は離るべからざる関係を持っているから、当時二者は一心同体となって活動していたのであります。それゆえにこの時代を研究するに、二者を離して別々に研究すると失敗に終るのであります。さて政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては聞得大君が国民最高の神官でありました。『女官御双紙』に「此大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座しゝに大清康熙六丁未年王妃に次ぐ御位に改め玉ふなり」ということがあります。それは伊勢神宮に奉仕した斎女王のようなもので、昔は未婚の王女(沖縄では昔は王女は降嫁しなかった)がこれに任ぜられたのであります。ギリシア・ローマの文化の未だ及ばなかった時代のゲルマン民族の女子も一般に男子より一段下に位するものとなっていたが、しかし女子は一種不思議な力を有っているものと考えられ、女子は予言をする力を有っていて神によって一種不思議な力を与えられているという考えを有っておりました。女子が祭事にたずさわるべき者という思想は、おそらく古代においては世界共通の思想であったのでありましょう。実際昔は沖縄における女子の位地は今日よりはよほど高かったのであります。それはとにかく、後世になってこの民族的宗教が衰えて来るといったん嫁して帰って来た王女が聞得大君に任ぜられるようになりました。聞得大君の下には前に申上げた三殿内(三神社)の神官なる大あむしられがあります。これには首里の身分のよい家の女子が任ぜられるのであります。もちろん昔は未婚の女子が任ぜられたのであります。さてこの「あむ」という語は母ということで「しられ」という語は治めるまたは支配するということであるから、大あむしられには政治的の意味のあることがよくわかります。そして大あむしられの下には三百人以上ののろくもいという田舎の神官がありまして、これには地方の豪族の女子(もちろん昔は未婚の女子)が任ぜられたのであります(のろくもいの中で格式のよいのは大あむととなえられています)。もっとくわしくいうと真壁の大あむしられは島尻地方および久米、両先島の百人余ののろくもいを支配し、首里の大あむしられは中頭地方の六十人余ののろくもいを支配し、儀保の大あむしられは国頭地方の四十人余ののろくもいを支配していたのであります。そしてこれらののろくもいの任免の時分には銘々の監督たる大あむしられの所にいって辞令を受けるのであります(これらの神官はいずれも世襲であります)。

沖縄の古い歌に、

伊平屋のあむがなしわらべあむがなしいきやし七親島おかけめしやいが

というのがあるが、これは今度の伊平屋の神官の大あむは歳が若いがどうしてマア、この伊平屋列島を支配することが出来ようかとの意であります(そのほかにもこういう例はたくさんあるが)。この一例を見ても当時聞得大君以下大あむしられ、大あむのろくもいが政治上勢力を有していたかがよくわかるだろうと思います。

そしてこれらの女の神官達は祭礼の時などには皆馬に跨ったのである。『女官御双紙』を見ると「首里大あむしられ根神のあむしられ乗馬にて継世門の外にて下馬被レ仕候事……首里大あむしられ根神のあむしられ如レ前継世門の外より乗馬にて崎山の御嶽に被レ参……」ということがあり、また『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』という本の御初地入りの条に「知念のろ二人あむしられた三人女性たち白巾にて騎馬にて御通り聞得大君御馬にて被レ召筈之処御馬被レ召候儀は御遠慮にて云々」ということがあるのを見ても、昔は上は王女から下は田舎娘に至るまで馬に乗ったということが明白にわかります。そして現今でもこの遺風は田舎に遺っていて祭礼の時にのろくもいが馬に乗るところが稀にあるようであります。私は先年八重山にいって十名以上の八重山乙女が馬に跨ってあるくのを見たことがありますが、その時、上古における沖縄婦人はこういう風に勇壮活溌であったろうと思いました。

尚真王時代に八重山征伐があったことは皆様御承知でありましょうが、その時、久米島の君南風が従軍をしたという事実があります。これは『女官御双紙』にも書いてあれば、オモロにも謳ってあります。実際当時の沖縄では八重山を征服したのは君南風の策略が与って力があると信じていました。そして船中の勇士たちはこの女傑のオモロ(讃美歌)とオタカベ(祈祷)によって鼓舞されたとのことであります。これは神功皇后の話とともに上古における日本民族の女子の位地が低くなかったという証拠になると思います(与那国島にはかつてサカイイソバという女王があって、島を支配したという口碑が遺っています)。私は、『漢書』や「魏志」に九州地方に当時たくさんの女王がいたと書いてあるのは、たぶん支那の航海者がこの勇壮活溌にして政治上に勢力のあったのろくもいのごとき者がたくさん活動しているのを目撃して早合点をしたのではなかろうかと思います。ここはおおいに研究する価値があるだろうと思います。とにかく、上古においては男女のケジメが心身ともに今日見るような甚しい差はなかったのでありましょう。

右に申述べたのろくもい以上の者は、政略上いわば人為的に出来たものでいずれも純然たる官吏であります。そして旧琉球政府は、こののろくもいを自然に出来上った根人(氏神すなわち根神に仕える女子)の上に置いてこれを支配させたのであります。この根人の下にもまた多くの神人があるのであります。『混効験集』に「さしぼ(またはむつき)はくでの事、またくでとは託女の事也、今神人と云是也」ということがあります。この神人の事を明らかにしておくことは沖縄の家族制度を了解する上にいたって必要なることでありますから、喜舎場朝賢翁の近著『東汀随筆』の一節を引用して御覧に入れましょう。

我が国古来の習俗として人家相継して七世に及べば必ず神を生じて尊信す。其の神は只二位を設く。蓋し祖考以上始祖に至るの亡霊を以て神となるなり。而して親族の女子二名を以て神コデと称し、之に任ぜしむ。一名はオメケイオコデと為し、一名はオメナイオコデと為し(方言、男兄弟をオメケイと言い姉妹をオメナイと言う)、其の神を祭る一切の事を掌る。其の祭祀は毎年二月には麦の穂祭と称し麦の穂を薦む。三月には麦の祭と称し、酒香酢脯を薦む。五月には稲の穂祭と称し(稲の穂を薦む。六月には稲の祭と称し)酒香酢脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考祖妣の神衣を製し、祭祀毎に神コデ二人之を着て神を拝祭す。三月五月の祭には族中男女尽く来り、香を焚き、礼拝す。コデの酌を受く。而して神の生ずる期月三年の期月七年の期月十三年の期月二十五年の期月三十三年の期月には、酒香酢脯※餅を具へて以て、之を薦む。其の費用悉く族中課出をなす。三十三年の期月を畢れば、其の翌年復た神を生じ及び期月毎に祭礼すること旧の如し。其のコデの任命は専ら祖宗神霊の命ずる所に因る。予め祖宗の神霊あり。其のコデと為すべき者及び巫婦の身に附着して言語をなし、或はコデと為るべき者疾病を為し、其の女コデと為ることを御請すれば、即ち癒ゆ。是を以てコデと為ることを得る。コデは終身の職と為す。死するときは即ち其の後任を選ぶこと復た此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲するも得ず。自ら免れんと欲するも得ざるものとす。此コデと言ふ者は支那の古へ祭祀ある毎に設くる所の尸と同一なるべし。

Chapter 1 of 5