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耽溺
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耽溺
岩野泡鳴
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 7 of 12

7

怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。それとなく、ハンケチを出して目を拭きながら座敷を出た。出てからちょっとふり返って見たが、かの女は――分ったのか、分らないのか――突き放されたままの位置で、畳に左の手を突き、その方の袂の端を右の手で口へ持って行った。目は畳に向いていた。

その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま乞いに来た。僕が吉弥をしかりつけた――これを吉弥はお袋に告げたか、どうか――に対する挨拶などは、別になかった。とにかく、僕は一種不愉快な圧迫を免れたような気がして、女優問題をもなるべく僕の心に思い浮べないようにしようときめた。かつ、これからは僕から弱く出てかれこれ言うには及ばない、吉弥に性根があったら、向うから何とか言って来るだろう、それを待っているにしくはないと考えた。

「先生も御如才はないでしょうが――この月中が肝心ですから、ね」と、お袋の別れの言葉はまたこうであった。

「無論ですとも」と答えたが、僕はあとで無論もくそもあったものかという反抗心が起った。そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。

そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子なんだから――あきらめて、書見でもしようと、半分以上は読み終ってあるメレジコウスキの小説「先駆者」を手に取った。国府津へ落ちついた当座は、面白半分一気に読みつづけて、そこまでは進んだが、僕の気が浮かれ出してからは、ほとんど全くこれを忘れていたありさまであったのだ。この書の主人公レオナドダヴィンチの独身生活が今さらのごとく懐かしくなった。

仰向けに枕して読みかけたが、ふと気がつくと、月が座敷中にその光を広げている。おもてに面した方の窓は障子をはずしてあったので、これは危険だという考えが浮んだ。こないだから持っていた考えだが、――吉弥の関係者は幾人あるか分らないのだから、僕は旅の者だけに、最も多くの恨みを買いやすいのである。いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。

心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は溢れるばかりの思想と感情とを古典的な行動に包んだ老独身者のおもかげだ。また一方はその性情が全く非古典的である上に、無神経と思われるまでも心の荒んだ売女の姿だ。この二つが、まわり燈籠のように僕の心の目にかわるがわる映って来るのである。

一方は、燃ゆるがごとき新情想を多能多才の器に包み、一生の寂しみをうち籠めた恋をさえ言い現わし得ないで終ってしまった。その生涯はいかにも高尚である、典雅である、純潔である。僕が家庭の面倒や、女の関係や、またそういうことに附随して来るさまざまの苦痛と疲労とを考えれば、いッそのこと、レオナドのように、独身で、高潔に通した方が幸福であったかと、何となく懐かしいような気がする。しかし、また考えると、高潔でよく引き締った半僧生活は、十数年前、すでに、僕は思想と実験との上で通り抜けて来たのだ。そんな初々しいことで、現在の僕が満足出来ないのは分りきっている。僕の神経はレオナドの神経より五倍も十倍も過敏になっているだろう。

こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠いのをおぼえた。

僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行くように、立ち据わる力がなくなって、下へ下へと重みが加わったのだろう。堕落、荒廃、倦怠、疲労――僕は、デカダンという分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りとしようという気が起った。

「先駆者」を手から落したら、レオナドはいなくなったが、吉弥ばかりはまだ僕を去らない。

かの女は無努力、無神経の、ただ形ばかりのデカダンだ、僕らの考えとは違って、実力がない、中味がない、本体がない。こう思うと、これもまた厭になって、僕は半ばからだを起した。そうすると、吉弥もまた僕の心眼を往来しなくなった。

暑くッてたまらないので、むやみにうちわを使っていると、どこからか、

「寛恕して頂戴よ」という優しい声が聴える。しかしその声の主はまだ来ないのであった。

一六

僕が強く当ったので、向うは焼けになり、

「じゃア勝手にしろ」という気になったのではあるまいか? それなら、僕から行かなければ永劫に会えるはずはない。会わないなら、会わない方が僕に取ってもいいのだが、まさか、向うはそうまで思いきりのいい女でもなかろう。あの馬鹿女郎め、今ごろはどこに何をしているか、一つ探偵をしてやろうと、うちわを持ったまま、散歩がてら、僕はそとへ出た。

井筒屋の店さきには、吉弥が見えなかった。

寝ころんでいたせいもあろう、あたまは重く、目は充血して腫れぼッたい。それに、近ごろは運動もしないで、家にばかり閉じ籠り、――机に向って考え込んでいたり――それでなければ、酒を飲んでいたり――ばかりするのであるから、足がひょろひょろしている。涼しく吹いて来る風に、僕はからだが浮きそうであった。

でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。

なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の前を通った。三味の音や歌声は聴えるが、吉弥のではない。いないのか知らんと、ほかに当てのある近所の料理屋の前を二、三軒通って見た。そこいらにもいそうもないような気がした。

青木の本陣とも言うべきは、二、三町さきの里見亭だ。かれは、吉弥との関係上初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩んで敷居が高くなるに従って、かのうなぎ屋の常客となった。しかしそこのおかみさんが吉弥を田島に取り持ったことが分ってから、また里見亭に転じたのだ。そこでしくじったら、また、もう少しかけ隔った別な店へ移るのだろう。はたから見ると、だんだん退却して行くありさまだ。吉弥の話したことによると、青木は、かれ自身が、

「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸命になっている女にまでも謀叛されたりするのだ」と、男泣きに泣いたそうだ。

ある時などかれは、思いものの心を試めそうとして、吉弥に、その同じ商売子で、ずッと年若なのを――吉弥の合い方に呼んでいたから――取り持って見よと命じた。吉弥は平気で命令通り向うの子を承知させ、青木をかげへ呼んでその旨を報告した。

「姉さんさえ承知ならッて――大丈夫よ」

「………」青木は、しかしそう聴いてかえってこれを残念がり、実は本意でない、お前はそんなことをされても何ともないほどの薄情女かと、立っている吉弥の肩をしッかりいだき締めて、力一杯の誠意を見せようとしたこともあるそうだ。思いやると、この放蕩おやじでも実があって、可哀そうだ。吉弥こそそんな――馬鹿馬鹿しい手段だが――熱のある情けにも感じ得ない無神経者――不実者――。

こういうことを考えながら、僕もまたその無神経者――不実者――を追って、里見亭の前へ来た。いつも不景気な家だが、相変らずひッそりしている。いそうにもない。しかしまたこッそり乳くり合っているのかも知れないと思えば、急に僕の血は逆上して、あたまが燃え出すように熱して来た。

僕は、数丈のうわばみがぺろぺろ赤い舌を出し、この家のうちを狙って巻きつくかのような思いをもって、裏手へまわった。

裏手は田圃である。ずッと遠くまで並び立った稲の穂は、風に靡いてきらきら光っている。僕は涼風のごとく軽くなり、月光のごとく形なく、里見亭の裏二階へ忍んで行きたかった。しかし、板壁に映った自分の黒い影が、どうも、邪魔になってたまらない。

その影を取り去ってしまおうとするかのように、僕はこわごわ一まわりして、また街道へ出た。

もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗幽照にまでも道のでこぼこが出来て――ちらつく眼鏡越しの近眼の目さきや、あぶなッかしい足もとから、全く別な世界が開らけた。

戸々に立ち働いている黒い影は地獄の兵卒のごとく、――戸々の店さきに一様に黒く並んでるかな物、荒物、野菜などは鬼の持ち物、喰い物のごとく、――僕はいつの間に墓場、黄泉の台どころを嗅ぎ当てていたのかと不思議に思った。

たまたま、鼻唄を歌って通るものに会うと、その声からして死んだものらの腐った肉のにおいが聴かれるようだ。

僕は、――たとえば、伊邪那岐の尊となって――死人のにおいがする薄暗い地獄の勝手口まで、女を追っているような気がして、家に帰った。

時計を見ると、もう、十時半だ。しかし、まだ暑いので、褥を取る気にはならない。仰向けに倒れて力抜けがした全身をぐッたり、その手足を延ばした。

そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。

ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、

「………」誰れだ? と、いつものような大きな声を出そうとしたら、下の方から、

「静かに静かに」と、声ではなく、ただ制する手ぶりをした女が見える。吉弥だ。

僕はすぐ二階をおりて外へ出た。

「………」まだ物を言わなかった。

「びッくりして?」まず、平生通りの調子でこだわりのない声を出したかの女の酔った様子が、なよなよした優しい輪廓を、月の光で地上にまでも引いている。

「また青木だろう?」

「いいえ、これから行くの」

「じゃア、早く行きゃアがれ!」僕はわざとひどくかの女を突き放って今夜もだめだとあきらめた。

「もう一つあげましょうか?」かの女は今一つ持っていた林檎を出した。

「………」僕は黙ってそれを奪い取ってから、つかつかと家にはいった。

一七

その後、吉弥に会うたびごとに、おこって見たり、冷かして見たり、笑って見たり、可愛がって見たり――こッちでも要領を得なければ、向うでもその場、その場の商売ぶり。僕はお袋が立つ時にくれぐれ注意したことなどは全く無頓着になっていた。

東京からは、もう、金は送らないで妻が焼け半分の厭みッたらしい文句ばかりを言って来る。僕はそのふくれている様子を想像出来ないではないが、いりもしない反動心が起って来ると同時に、今度の事件には僕に最も新らしい生命を与える恋――そして、妻には決して望めないの――が含んでいるようにも思われた。それで、妾にしても芸者をつれて帰るかも知れないが、お前たち(親にも知らしてあると思ったから、暗にそれをも含めて)には決して心配はかけないという返事を出した。

僕があがるのはいつも井筒屋だが、吉弥と僕との関係を最も早く感づいたのは、そこのお君である。皮肉にも、隣りの室に忍び込んで、すべてを探偵したらしく、あったままの事実を並べて、吉弥を面と向っていじめたそうだ。

吉弥はこれが癪にさわったとかで、自分のうちのお客に対し、立ち聴きするなどは失礼ではないかとおこり返したそうだが、そのいじめ方が不断のように蔭弁慶的なお君と違っていたので、

Chapter 7 of 12
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