一
麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。
義雄は繼母の爲めに眞の父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。
が、渠が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子――殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子――をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。
「あの家は息子さんでは持つて行けますまいよ」と云う風評を耳にした妻は、ます/\躍起となつて、所天の名譽を恥かしめまいといふ働きをやつてゐた。が、義雄は別にそれをあり難いとも思ふのではなく、ただ自分自身の新らしい發展が自由に出來るのを幸ひにした。
繼母は勿論、妻子をも眼中に置かない渠が第一に着手しかけたのは一女優の養成である。琴の師匠をしてゐる友人から、その弟子のうちに一名の美人があつて、それが女優になりたいと云つてるが、どうかして呉れないかと云ふ相談を持ち込んで來た。
渠は既に女優志願者で失敗した經驗を一度甞めてゐるが、兼て脚本を作つたらそれをしツかりやつて呉れるものが欲しいと考へてゐるところだから、わけも無く承諾した。
で、自分の家から芝公園を通り拔けたところにあつた音樂倶樂部の演劇研究部に、自分も會員であるの故を以つて申し込み、志願者をそこの講習生に取りあげて貰ふ相談が成り立つた。そして、いよ/\志願者を渠の家に呼び寄せた――と云ふのは、自分の家から毎日通はせるつもりであつたのである。
家族の反對はいろ/\あつたのはあつたが、渠はそんなことには少しも頓着しなかつた。
「來たものを少しでも冷遇すれば、おれのやる事業を邪魔するも同前だぞ!」
女が赤いメリンスの風呂敷に不斷着の單衣か何かの用意をしてやつて來た時は、その姿や顏付きのいいので、下女までも目をそば立てた。
「いい女だらう」と云はないばかりにして、義雄はそれを引き連れ、その夜、倶樂部へ引き合はせに行つた。が、その最初の引き合せに、氣の變はり易い本人は女優を斷念してしまつた。
紹介者としては、倶樂部の諸會員に對して不面目を感じたよりも、自分の家族が女を連れて歸らない自分を見て冷笑する顏の方が、寧ろ自分に取つて殘念のやうに思はれた。
渠は自分の書齋兼寢室に殘して行つた女の赤い包みを見ながら、その夜も、次ぎの夜も、にがい寂しい顏をしてゐた。
その少し以前のことであるが、義雄の繼母に當てて紀州からハガキが來た。
「おばさん、お變りはありませんか。わたし、また賑やかな都へ出て、勉強したいと思ひます。いづれ御厄介になりますから、よろしく。」
繼母はそれを義雄の妻に見せたのだ。
「お千代さん、どうしましよう、ね、こんなハガキが來ましたよ。」
「下手な字、ね。どんな女?」
「わたしはあんまり好かないの。」
「いくつ位?」
「前にうちにゐた時が十七八だから、もう、二十一二でしようよ。」
「どこへ行つてたの?」
「矢板學校へ裁縫を習ひに。」
「まア、いいぢやアありませんか、來させたツて?」
「お千代さんがさう受け合へば構はないやうなものの――でも、ねえ、お父アんの代が變つてゐるし、わたしがそんなことに口を出して、もしどんなことがあるまいものでもないから――。」
「おツ母さんはお父アんが亡くなられてから急に心配家になつたの、ね、何も商賣だから、かまはないぢやアありませんか?」
「でも、ね――片づいたものがまた出て來るのは、どうせいいことではないだらうし、若し義雄さんにでも引ツかかりができたら――」
「まさか、そんなことが――」
二人は笑ひに破れてしまつたが、一方はつつましやかに取り澄ました聲であるに反し、一方はまた甲高な神經質に聽こえた。
義雄の家族がこの家へもどつて來てから、臺どころの方は千代子の母が下女どもを監督して働らくことになつたので、隱居同樣な繼母の居間は、離れの二た間のうち、手前の一と間に定まつた。その奧の一間には義雄の弟がゐる。隣りの寺の庭に面した方にかけて縁がはが取りまはしてあつて、軒した一間ばかり隔てたところに板壁があり、そこには、父の手を入れた盆栽の棚が出來てゐる。蘭、おもと、松、棕櫚、こんな物へ弟の馨は亡き人を忍ぶつもりで毎日水をやつてゐる。
離れとおも屋の長い裏廊下の一部との間に、背の高い手洗鉢の根元まで廣がつた小さいたたき造りの池があつて、金魚が泳いでゐる。その水を取り更へる人も他にないから、弟がその役を引き受け、同時に、裏廊下に添ふた庭のまはりにある草木へ夕がたになると凉しく水を撒くのである。
二人の談笑があつたのはその水が撒かれて、馨が奧の間へ引ツ込んだ時のことで、その時、丁度、義雄は小用に行つてゐたので、二人の話が聽こえた。便所と池との間に離れへ渡る廊下が付いてゐる。そこから手洗鉢の手杓を取り、手を洗ひながら、半ば冗談に、
「何を云つてやがるんだい、馬鹿!」
「おほ、ほ、ほ」と、妻は笑つて、「聽いてたのですか?――あなたの信用はどこへ行つてもありません。」
「何だ!」かう急に聲が變つて、腦天から出たやうな叫びをあげながら、廊下を渡つて行つて、まだ水も切れない手で妻の横ツつらを平手打ちにした。
「‥‥」不意を喰らつた妻は、片手を疊に突いて、倒れるのをさゝへた。
「何です、ね、義雄さん。」繼母もびツくりした顏を向けて、「可哀さうぢやアありませんか?」
「可哀さうも何も」と、つツ立つたまま、わざと唇を噛んで見せ、「あつたものか? 所天に對して教訓的なことを云ふのア無禮の極だ!」
「いいえ、教訓は必要です――子供に對しても、必要です!」
「まだ分らないか?」手をふりあげたのを、繼母に押さへられて、「いつも云ふ通り、おれは子供ぢやアない!」
妻は、その少し出ツ張つてゐる前齒の齒ぐきに所天の最初の手が當つて、そこから血が出たのをふいてゐる。
「まア、靜かにお坐わりなさいよ。」繼母は義雄の兩手を押さへて、無理にそこへ腰をおろさせた。「お客さんが見てゐるじやアありませんか?」
「‥‥」客どもは、また始まつたと云はないばかりに、二階のあちらこちらから顏を出してゐる。その方にはすだれが下りてゐるので直接には見えなかつた。繼母はそれを氣にして、
「見ツともないから、大きな聲を出すのはおよしなさいよ。」
「構ふものか?」あぐらをかいて、わざと二階へ聽こえるやうに、「おれは何も下宿屋に關係はない。」
「でも、主人だから、主人のやうに、ね――」
「それは違つてゐます――わたしはこの家の戸主には成つたが、下宿屋はこの表面上の妻たる千代の仕事です。わたしは矢ツ張り元の通り詩人、小説家、評論家で、また○○商業學校の英語教師です。」
「教師なら、教師らしくおしなさい」と、妻はびくつきながらも悔しさうに。
「また教訓か?」
「お前さんは、まア」と、繼母は千代子に、「默つておいでなさいよ――義雄さんの云ふのも尤もだとしても、主人がうちにゐつかないやうでは、家の大黒ばしらが動いてるも同樣で、うちの者がたよりがないぢやアありませんか?」
「ゐ付く値うちがないのです、こんな家には。」
「お父アんの家でも――?」
「さう、さ――お父アんの跡を繼いだのは、わたし自身のからだと精神であつて――こんな家や妻子は、自分にそぐはなければ、棄ててもいいんだ。」
「棄てられるなら」と、妻は少し身をすさつて、「棄てて御覽なさい!」
「ふん、棄てるとも――もう、おれは精神的には棄ててるんだ。」
「何とでもお云ひなさい――人を表面上の妻だなんて!」
「お前の命令などア受けないと云つてるだらう――おれの心に反感をいだかせるものは皆おれの愛を遠ざかつて行くのだ。愛のないところにやア、おれの家もない。」
「ぢやア、どうしたら」と、訴へるやうな微笑になつて、「あなたの愛に叶ふのです? 教へて下さいと、何度も云つてるぢやアありませんか?」
「手套が投げられたのだ」と、嚴格に、「もう、遲い。お前には、もう情熱がない。よしんば、あるとしても、子供を通して向ける情熱であつて、直接におれに向けるやうな若々しい、活き活きした、極あツたかい熱ではない。」
「そりやア、歳が歳ですもの――それに、六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女ですもの――子に苦勞してゐるだけ子が可愛いのは當り前でしよう。」
「お前は子の爲めに夫を忘れてゐるのだ。」
「いいえ、忘れてはゐません。」
「おぼえてゐるのは、おれの昔だ。」
「さうですとも、昔はあなたも」と優しくなつて、「なか/\親切な人でした、わ。」
「今は」と、相ひ手の態度には引き込まれず、「もツと親切な人間になつたのだが、その親切をおれよりも年うへのお前に與へるのは惜しくなつたのだ。」
「年うへなのは初めから承知して連れて來たのぢやアありませんか?」
「そりやア、承知の上であつた、さ。」義雄は妻に言葉を噛みしめさせるやうな口調になり、「然しよく考へて見ろ。二十前後の青年で、あんなにませてゐた者が――おれは實際ませてゐた――おれより年したのうわ/\した娘の上ツつらな情愛に滿足してゐられようか? あの時には、お前のやうな年増が――年増と云つても、たツた三つ上ぐらゐのが――丁度、おれの熱心に適合したのだ。然し考へて見ろ。人間は段々年を取つて行く。それは當り前のことだが、當り前と考へては困ることがある。それをお前はわきまへてゐない。」
「ぢやア、よく云つて聽かせて下さい、な。」
「いくら聽かせても、お前には分らないのだが、――教育がないからと云ふのではない。お前は相當の教育は受けたのだが、その道學者的教育の性質が却つて邪魔をするのだ――。」
「いえ、わたしは」と、言葉に力を込めて、「武士の家に生れたのです。」
「そんなことは」と、冷やかに、「現代に何の名譽にも、藥にもならない――おれも武士の子だが、わざ/\おやぢなどの考へや命令には從はなかつた。」
「それが惡かつたのです。」
「また教訓か」と目の色を變へかけたが、同じ調子で、「分らない奴だ、ねえ――。お前などア時代の變遷と云ふことが實際に分らない。政治上や文學上のことは別としても、教育界に於てだ、お前の教育を受けたり、お前が學校を教へたりしてゐた時代は女子はむかし通り消極的に教へられて滿足してゐた。然し、現代の若い女は積極的な教育を受けようとしてゐる。優しい女學校ででも教師、生徒間に衝突が起るのは、古い頭腦の教師連がこの心を解しないからだ。戀の問題に於ても、ただ男から愛せられて喜んでゐたのが、自分からも愛することができなければ滿足しなくなつた。」
「わたしだツて、自分から愛してゐます、わ。」
「ところが、その問題だ――段々年を取るに從つて男女の情愛は表面に見えなくなるとしても、愛してゐると云ふ言葉だけで、實際はそんな氣色もないのでは困る。男は世故に長けて來ると共に段々情愛を深めて行くものだが、今の四十以上の女は皆當り前のやうに男に對する心を全く子供に向けてしまう。」
「でも、子供は所天の物でしようが――」
「いや、子供は子供で、所天その物ではない――そんな古臭い傾向の家庭では、男は、平凡な人間でない限り」と、そこに語調を強めて、「深い/\情愛を空しく葬つてゐなければならない。――」
「何だ、詰らない」といふやうな振りをして、馨はその座敷の前を通り、食事をせがみに行つた。
二階の方からも、空腹を訴へる手が鳴つてゐる。
「少くとも、おれはそんな寂しい墓場に同棲してゐられないのだ――」
「墓場だツて、家のことを。」繼母はあきれた樣子。
「お墓、さ、どうせ――おれは今一度若々しい愛を受けて見なければならない。」
「ぢやア、勝手におしなさいよ。」妻は立ちあがつて、獨り言のやうに、「濱町とか何とかへ入りびたりになるなり、好きな女を引ツ張つて來るなり――こツちは離縁/\と云はれさへしなけりや、子供を育てて暮しますから。」
「その子供/\が聽き飽きたんだい。」義雄は臺どころの方へ行く千代子の後ろ姿に向つて侮辱の目を投げながら、「子供と教訓とが手めへの墓の裝飾だ!」