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ヨブ記講演
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ヨブ記講演
内村鑑三
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 21

第六章、七章の研究

◯前にも説きし如く、エリパズらは禍は罪の結果なりとの既成観念を抱き、この観念を以てヨブの場合を判定し、以てヨブをしてその罪を認めしめんとしたのである。彼らはかくしてヨブをその災禍より救い得ると信じた。そして年長のエリパズまずこの意味を以て五章、六章の語を発し、ヨブをしてその隠れたる罪を告白せしめんと計った。ヨブもとより己を以て完全無疵とはしない。しかしながらこのたびの災禍がある隠れたる罪の結果なりとは、彼において全然覚えなき事であった。故に彼はエリパズの訶詰に接して、憤然として弁明せざるを得なかった。これ第六章に載する所である。

◯一節―四節は友に対する不満の発表と、己の立場の弁明とである。「願くはわが憤恨の善く権られ、わが懊悩のこれと向いて天秤にかけられんことを」というは、友の観察の浅きを責めし語である。「さすればこれは海の沙よりも重からん、かかればわが言躁妄なりけれ」とあるは、苦悩大なるため前の哀哭も我れ知らず躁妄に陥ったのであるとの意である。ヨブは自己の哀語の乱調を明に認めていたのである。これ苦悩に重く圧せられし心の琴の、おのずからなる乱奏であった。しかるに友はこれを悟らずして、ヨブの哀々たる心の呻を言句の末において判定する。これヨブの大なる不満であった。故にこの語を発したのである。「それ全能者の箭わが身に入りわが魂その毒を飲めり、神の畏怖われを襲い攻む」と四節はいう。これヨブがその苦悶の理由を示して、わが立場を弁明したのである。神は今やわが敵となりて我を撃ちたるかと、これ彼の暗き疑であり、またの懊悩の原因であったのである。

◯五節―七節は友の言の無価値なるを冷笑した語である。「淡き物あに塩なくして食われんや、卵の蛋白あに味あらんや」というは、いわゆる乾燥無味砂を噛むが如しという類の語であって、エリパズの言に対する思いきった嘲罵である。

◯友今や頼むに足らず、友の言はいたずらに我を怒らすも、一毫の慰藉をも我に与えない。しからばわが願う所は依然として死の一のみと、かくて八節―十三節の語となったのである。「願くはわが求むる所を得んことを……願くは神われを滅すを善しとし御手を伸べて我を絶ち給わんことを」と彼はひたすらに死を希う。前説せし如く彼は死を願えども、それは神が己を取り去り給わんことを願ったのである。決して不自然なる自殺を望んだのではない。自殺などということは彼の思うだにしない所であった。これ大に注意すべき点である。

◯十四節―三十節は、友の頼みがたきをを述べし言として頗る有名である。文学的意味においても価値と名と共に高く、西洋の文学書にしばしば引用せらるるものである。まず十四節において友の同情心の不足を責めて軽き脅迫を与え、十五節―二十節においては友を沙漠の渓川に譬えて、生命を潤おす水を得んとてそこに到る隊客旅(Caravan)を失望慚愧せしむるものであるとなしておる。げに当時のヨブの心を語るべくこの比喩は適切である。人生の沙漠に生命の水を求めつつあったヨブは、たまたま三友の来訪に接して、あたかも隊客旅が遥かに渓川を望見せし如くに感じた。そこには必ず彼の求むる水があると思った。しかるにいよいよ近づきて彼らの態度を見、またその語に接するや期待は全然裏切られて、わが渇を医すべき水は一滴も見当らないのである。ヨブの失望察すべきである。故に二十一節において「汝らも今は虚しき者なり」と彼は友人らに対しまず総括的断定を下して後ち、激語を重ねて彼らを責むるのやむなきに至ったのである。

◯二十四節の「我を教えよさらば我れ黙せん。請う我の過てる所を知らせよ」とは彼の心の切なる願そのままの発表である。同時にまたこれを為し得ぬ友の無能を責めた語である。二十六節には「汝らは言を規正めんと思うや、望の絶えたる者の語る所は風の如きなり」とある。ヨブは自己の語る所が風の如く秩序も聯絡もなくして、取るに足らぬものなることを自認していたのである。これ望の絶えたる彼としては自然のことである。しかるにかかる者の語の言葉尻を捉えて是非の批判を下すは何の陋ぞと責めたのである。友人らはヨブの言語の表面の意味のみを見てその誤謬をたださんとする。かくては「言を規正」むるに止まって、ヨブ自身を規正むる事は少しも出来ないのである。これいわゆるオルソドクシー(正統派)の取る態度である。いたずらに死文死語に執して相争い、自己を正しとし、自己の定規を他に加えるのである。

◯二十七節の「汝らは孤子のために籤をひき、汝らの友をも商貨にするならん」は人身売買の罪をも犯すに至らんとの意である。ヨブがかく友を責めし余りに峻烈なりと評さるるであろう。しかしこれ感情激発の語であれば、普通の批判の標準を以てこれに対すべきではない。しかしながらヨブの言必しも全然誤謬ということは出来ない。前にもいうた通り、エリパズら三友人はいわゆるオルソドクシーの徒である。しかしてオルソドクシーはその信条、その神学の擁護のためには、ある時はいかなる罪をも犯して憚らないのである。そもそもオルソドクシーなるものは、ある真理の一群を信仰箇条と定めて動かざるものである。もしこれらの真理を真正の意味において受得信奉すればこれ理想的の状態であって、かかるオルソドクシーは貴むべきものである。しかるにこの一群の真理を固定の教条として相伝的、非実験的に丸呑にし自ら信条の純正を以て誇り、人に強ゆるにこれを以てし、もし人の信仰または行為にして自分らの信条と相反する時は、ただちに彼を不信非行の罪人として排斥せんとする。これいわゆるオルソドクシーである。彼らはその教条、その神学をあらゆる他のものの上に置くのである。故にその教条、その神学のためには、あらゆる他のものを犠牲に供して厭わない。その結果は知らず識らず恐ろしき罪をも犯すに至るのである。ヨブは二十七節において、三友のオルソドクシーの恐ろしさを説いたのである。ヨブ記の著者はこの言をヨブに発せしめて、あるいは当時のオルソドクシーを責めしものではなかろうか。

◯かくてヨブは二十八節以下において、強き語を以て自己の無罪を主張している。「この事においては我れ正し、わが舌に不義あらんや、わが口悪しき物を弁えざらんや」とは彼の友に答えし最後の語である。実にヨブは罪の故ならずして禍に逢ったのである。しかるに友は罪の故なりと固く信じて彼を責むる。故にヨブは怒って己の無罪を高唱せざるを得なかったのである。

◯友は人にして神ではない。友に満全を望むことは出来ない。友より得る所には限がある。故に友に過大の要求をなすべきではない。この事をヨブは今学んだのである。彼は余りに友を信じ過ぎていた。友を以て全く己と等しきものと思い、友はわが衷心を悉く了解しくれるならんと予期していた。しかるにこの予期は裏切られて彼は大なる失望を味った。そして初めて友の頼みがたきを悟ったのである。初め彼は妻に背かれ、ここにまた友に誤解せられた。夫婦の関係といい友の関係といい、いずれもこれ人と人との関係であって、神と人との関係ではない。もし完全の妻を得また完全の夫を得て人生の幸福を計らんとならば、ただちに失望の襲来となる外はない。人は完全なるものでない、故に全然依り頼むべきではない。人には先天的の制限がある。よくこの事を知って人がその妻、その夫、その友に対して過大の要求をなさざる時、そこに寛容と理解と平和と愛とが自由の流れ口を得て、ここに幸福なる夫婦、幸福なる友人関係が生れるのである。しかしてこの事がヨブに解り、最後に至って彼が遂に神のみを唯一の真の友として持つに至って、彼は幸福と安心の絶頂に達し、我に同情足らざりし三友のためにも祈るほどになり得たのである。(第四十二章を見よ)。

◯人に満全を望みて後ち失望ししかして人を怨む、これわが国人の通弊である。この時失望のあまり信仰より堕つる者さえある。これ出発点において全く誤っていたためである。人は頼むべからず、頼むべきは父なる神と子なるキリストのみである。人に頼らず神を友とし、キリストを友として初めて全いのである。かかる状態に入りし人のみ他に対し、夫に対し、妻に対し、子に対し、友に対して正しき関係を保ち得るのである。まず神に頼みてしかる後に人に頼む、その時に人は信頼するに足る者となる。

◯ヨブは七章においては神に対して訴うる処あった。これ第三章の反覆であって、依然死を希う語である。しかしその間にヨブの思想に進歩がある。三章と七章を仔細に比較して見ればこの事が解る。けれども容易くは解らない。これがヨブ記の実験記たる証拠である。実験そのものの提示なるが故に、すなわち人生の事実そのままの記載なるが故に、それに徐々たる思想の進歩が隠れて存しているのである。勿論著者の筆の巧妙をも認めないわけには行かない。しかし実験の上に立ちての文藻なる故の巧妙である。空虚の上にいかに巧なる想像の橋を架するも、かくの如くなることは出来ないのである。

◯一節―十一節は逃れがたき人生の苦悩を深刻なる語を以て述べたものである。十二節以下は神の手の彼の上に加わりて離れざるを厭い、死の早く来らん事を望みしものである。「人をいかなる者として汝これを大にし、これを心に留め、朝ごとにこれを看そなわし、時わかずこれを試み給うや、いつまで汝われに眼を離さず我が津を咽む間も我を捨て置き給わざるや」とは彼の神に対する切々たる哀訴である。故に彼は「我を捨ておき給え」と願い、また「われ命を厭う、我は永く生くることを願わず」と歎くのである。実にこれ神を篤く信ずる者の叫である。彼は大災禍に会するも毫も神の存在を疑わない。ただ神が我を撃ち、我を苦め、我を試み、我の上に監視の眼を弛めざるを呟きて神が我より離れんことを願い、死の早く来らんことを望むのである。これ実に信仰家の苦悩である。その哀々として吾人の心に迫り来る理由はここにあるのである。

◯ある人言わん、かく苦悩を重ぬるよりは神を棄つるの勝れるに如かずと。まことにしかり、神を離れ、神を忘れ、神の存在を否定する時は、ヨブのこの苦悩は薄らぎ問題の解決は容易となるのである。まことにそうである。しかしながら神を棄て神を否定する時人生は全然無意味となるを如何。神を棄てて問題の解決を計るは最捷径である。けれどもこれ人生を無意味とするの結果に帰着するのである。故に人生を重んずる者は、かかる解決法を計り得ない。是非とも神を保持してその上に立ちて問題の解決を計らねばならない。神を棄てざる時、この苦難の降れる意味は如何。神の存在と罪なくして降る災禍とは、両立しがたき二現象である。この二つを何とかして両立せしめずしては、問題の解決には達しない。ここにヨブの特殊の苦悩が存するのである。しかしてまたそこに特殊の貴さも存するのである。

◯神を父としキリストを主とする信仰の上に立ちて人生の矛盾を解かんとす、ここに我らの特別の苦心困難が存するのである。信仰を棄つれば問題は忽ち解ける。しかしかくては人生は無意味となり、我は貴き生の消費者となり、人生の失敗者と堕するに至る。故に人として活きんためには、是非とも信仰を保持せるままにて難問題の解決に当らなければならない。ここに困難があり、ここに苦悶懊悩が生れる。しかし人生を愛重するものは、いかなる代価を払っても信仰の上に立ちての解決を計り、神の為し給う所の正しきを証さなくてはならぬ。若きミルトンは Justify the ways of God to men と言いて、神の為し給う所を人の前に正しと証するを以てその一生の標語となした。我らもまた苦悶を以て信仰の上に立ちて解決を計り、新しき光明に触れ、我のため、人のため、人類のために計らねばならない。これは唯一真正なる人生苦難の解決法である。しかして神はかくの如き解決法を我らに命じ、かくの如き解決を我らより求め給うのである。故に苦難と痛苦は、我らに満全の光と幸福とを与えんとする天使である。我らはこの事を忘れてはならない。

Chapter 5 of 21
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