Chapter 1 of 8

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暁方、部隊長室から呼びに来た。跫音が階段を登り網扉を叩く前に、落葉の径を踏んで来る靴の気配で、彼は既に浅い眠りから浮上するようにして覚めていた。当番兵の佐伯の声である。網扉のむこうで薄黝く影が動くのが見えたが、すぐ行く、と彼は返事をしたまま再び瞼をふかぶかと閉じていた。軍靴の鋲が階段に触れる音が、けだるい四肢の節々に幽かに響いて来る、跫音はそのまま遠ざかるらしかった。

暫くして彼は寝台に起き直り、ゆっくりした動作で身仕度を済ませ長靴をつけた。粗末な小屋なので動く度に床がきしみ、腕が触れる毎に壁はばさばさと鳴った。蝶番いの錆びかけた網扉を押し階段を降りると、おびただしい朝露である。ふり仰ぐと密林の枝さし交す梢のあわいに空はほのぼのと明けかかり、暁の星が一つ二つ白っぽく光を失い始めていた。梢から梢へ、姿を見せぬ小鳥たちが互いに啼き交しながら移動して行くらしく、また遠くで野生の鶏がするどい声でつづけざまに啼いた。大気は爽快であった。内地の月見草に似た色の小さい花が小径をはさんで咲き乱れ、歩いて行く彼の長靴の尖はそれらに触れてしたたか濡れた。

径は斜めにのぼり更に樹群は深くなる。そこが煤竹色の部隊長の小屋であった。木と竹を簡単に組み合せ、屋根をニッパで葺いた単純な作りである。床は湿気を避けて人の背丈ほどもあるが、階段を踏むと自らぎしぎしと鳴った。開き扉を押し中に入ると、部屋の内はまだ暗かった。窓の前に据えた竹製の机に肱をつき、隊長は椅子にかけたまま彼が入って来たのも気付かぬふうであった。扉のあおりでゆらぐ蝋燭の光の中では、その横顔は何時になく暗く沈んで見えた。机の上には空薬莢を花瓶とし、黄色の花が二三本さしてある。書類綴りの耳を隊長の指が意味なく弄んでいた。彼はぼんやり部屋の中を見廻しながら、暫く床の上に佇んでいた。天井の暗みにひそむらしい虫が突然キキキと啼いたが、隊長は今まで椅子にもたせかけていた軍刀の柄を掌で膝の間に立てながら、しかし、彼にはやはり横顔を見せたまま、低い乾いた声で呟いた。

「宇治中尉か」

そして窓の方に顔をあげながら苦しそうに眼を閉じ、椅子の背に肩を落した。

「――実は今日、花田軍医のところに連絡に行って貰いたいのだ。花田が何処にいるか、場所は判っているだろうな」

彼の返事を待たず、椅子をぎいと軋ませ隊長は身体ごと彼の方に向きなおった。そして激しく口早に言った。

「射殺して来い。おれの命令だ」

朝の薄い光が窓から斜めに隊長の頭に落ちていたが、近頃めっきり白さの増した頭髪やまた形相の衰えが、蝋燭の火影の中で隈をつくり、かえって険悪な表情に見えた。そのまま隊長の視線はすがるように彼をとらえて離さなかった。心の底でたじろぐものがあって、彼は思わず足を引いた。長靴の裏に食い込んだ礫が堅い床木に摺れて厭なおとを立てた。掌で洋袴をしきりにこすり、彼は全身の重心を片足の踵にかけていた。火影の乱れが彼の表情を不安定なものに見せたが、やがてうすぼんやりした笑いが彼の頬に突然浮んで消えた。そして両踵をつけ胸をやや反らし何か言おうとしたが、その前に隊長は眼をしばたたきながら重々しく、むしろいたわるような口調で彼に言った。

「誰か、射撃のうまい下士官を一人連れて行け」

ふと顔を光から背けて視線を下方に落した。「花田は、射撃の達人だったな」

うつむいた隊長の髪の薄い顱頂を見守りながら、彼はふっと涙が流れそうな衝動を感じたが、それを押し切るように首をあげ、彼は確かな声音で一語一語復唱した。

「私は、花田中尉に会い、射殺します」

よろしいと言う代りに、隊長は彼の方を見ないまま右掌をあげて僅か振った。敬礼をし、扉を押し、彼は一歩一歩階段を降りた。降りながらためらうように振り返ったが、扉のあおりから部屋の床に火影がちらと揺れただけで、後の長靴は階段に軋みを残しながら既に濡れた地面を踏んでいた。

地面には梢の網目をのがれた光線が散乱しながら落ちていた。密林の彼方で、太陽がすでに登り始めたのであろう。樹々は新芽を立てながら同時に古びた葉を梢から散らしていた。雨季と乾季とより外、季節と言うものを知らぬ此の風土では、植物の営みも自ずと無表情になるものらしかった。樹はおおむね闊葉樹である。径を曲るにつれて、遥か山の下手の方から幽かに歌声が聞えたり、また急に聞えなくなったりした。厚い落葉の層を踏みながら、彼は沈欝に瞳を定め、自分の小屋へ径をたどった。歌は女声である。その単調な哀愁を帯びた旋律は、執拗に樹々の幹を縫い、位置によっては言葉尻まで判るほど明瞭に耳朶に響いて来るのだ。密林の持つ不思議な性格のひとつである。一つの歌声が先行すると、雑然たる合唱が乱れながらそれを追った。あれはイロカノ族の女達の籾搗きの歌声である。此の山の麓から北方に拡がるサンホセの盆地から、米機の眼を盗み、兵達が搬送して来た籾をバンカに連ね、既に朝の籾搗きが始まったのであろう。両腕を組み、淡い光斑の散らばる小径を、黄色い花弁を蹴って歩きながら、彼はようやく自分が必要以上に靴先に力を入れ過ぎていることに気付きはじめていた。先刻ぼんやり隊長の室を見廻したとき、ふと彼の注意を牽いたのは机の横の壁に巧みに竹で造られた勲章掛けであった。あれは隊長自らが造ったものか、当番兵の佐伯がこしらえたものか――隊長が身体ごと向き直ったとき壁が揺れ、裸火の光をはじいていくつかの勲章がきらきらと光ったのだ。

(あのうつむいた隊長のひよわそうな顱頂を見おろした時ふと涙が出そうになったが、あの時の気持は何だろう)

突然にがい笑いが冷たく彼の頬にのぼって来た。

花田中尉が原隊を離脱してから既に一箇月近かった。

宇治の属する旅団は初め呂宋北端のアパリにいた。比島作戦に於ける米軍上陸必至の地点である。幾重にも陣地を構築して待っていたにも拘らず、レイテの戦況が一段落するや米軍は突如としてリンガエンに上陸を開始して来たのだ。リンガエンに於ける日本の守備は誠に微弱であった。米軍は文字通り枯葉を捲く勢でマニラに迫った。アパリ上陸の公算は既に此の頃から薄れ始めていたのである。持久戦を予想するとしても、アパリ地区は旅団全部を養うに足りない。アパリに孤立することは餓死を意味した。五月末旅団はついにアパリを見捨てた。カガヤン渓谷を南下して苦難に満ちた行軍を続け、北の入口からサンホセ盆地に入ろうとした時、リンガエン上陸の米軍の一支隊は疾風のような早さでカガヤン渓谷を逆に北上、旅団の最後尾に猛烈な砲撃を加えて来たのである。

宇治の属する大隊は旅団の先達として、その前日すでに盆地に入っていた。最後尾の大隊が砲撃を受けたと言う報告が来た時、宇治はほとんど信ずることが出来なかった。北上する米軍を食い止める為に二箇大隊の将兵が急行し、カガヤン渓谷上流のオリオン峠に陣を張っている筈であった。北入口で米軍の砲撃を受けたということは、オリオン峠の二箇大隊が全滅したということに外ならない。宇治たちにも予想出来ない情況であったが、旅団後尾の将兵にとっても此の砲撃は全然予測の外であった。米軍の砲撃は極めて正確であった。情報の不備から、敵砲兵陣地の位置すら判らなかった。ただ砲弾だけが正確に炸裂し人員を殺傷した。部隊は忽ちにして大混乱を起した。花田軍医中尉はその中にいた。

炸裂の破片は、花田中尉の当番兵を即死させ、余勢をかって花田中尉の脚を傷つけたのだ。道路にあふれる死屍と傷兵を見捨て花田中尉は住民の女の肩につかまり、東方に向け戦場を離脱し密林を抜け、インタアル付近の小部落に落ち延びたと言う。此の事実を宇治達が知ったのはずっと後のことである。宇治たちの大隊は盆地を横断し、盆地の南入口付近の密林中に行嚢を解き、仮小屋や鐘乳洞に分散、専らツゲガラオ飛行場に対する遊撃戦を待機していた。だから北入口で砲撃された後尾の情況は知らぬ。花田中尉は戦死したものと思われていた。しかし北入口から逃れて来た傷兵やインタアル付近に居る海軍部隊の報告を綜合すると、花田中尉の行動は自ら明かとなって来た。

脚部に負傷したとは言え軍医ともあろうものが、死傷者を見捨てて戦場を離脱したということは何であろう。その事実は秘されていたにも拘らず口から口へ広がっているらしかった。北入口から離脱したとしても、当然彼は南入口付近に屯する遊撃大隊に合流すべきであったのだ。しかしサンホセ盆地の錯綜する道路網を、地理不案内のため方角を間違うこともあり得る。またインタアル付近で脚の傷が悪化するということもあり得ないではない。しかし此の経過に先ず引っかかって来るのは、花田中尉に肩を貸したという住民の女のことであった。

使いが出された。傷が未だ治癒せず歩行が困難であるからと言う理由で、花田中尉は還って来なかった。使者の報告では、密林中によりそうように建てられた五六軒のニッパ小屋部落のひとつに、花田中尉は女と同盟の記者と三人で暮していたと言う。あとの小屋には、戦場や部隊から離脱したり逃亡したりした陸海軍の兵隊が七八名、それぞれ分宿しているらしい。四五日経って、再度使いが立った。それでも花田中尉は還って来なかったのだ。

その中にだんだん食糧事情が悪くなり始めた。盆地の開闊地には籾は山と積まれていた。比島の農民は、籾を収穫期に一度に搗くことはせず必要なだけその時々に搗くので、白米としての保有はない。部隊としては籾を集めて、これを米とする以外になかった。しかしツゲガラオ飛行場から飛び立つ米機のため、昼間は籾の搬送は出来ぬ。夜間に辛うじて、密林内に引き込み、住民を集めて搗かせ、之を部隊の食糧にあてた。北口で後尾が襲撃された時、運悪く塩を搭載した牛車隊が全滅したので、宇治達は次第に塩分の不足に悩まされ始めて来たのである。それははっきりした症状ではなく、初めは何となく頭が霧をかけたようにぼんやりし、刺戟に対する反応が自分でも判るほど鈍くなる。可笑しいなと思っているうちに身体の部分がむくみ、急に立ち上ったりすると膝頭ががくがくした。こうなって初めて塩分の不足ということが頭に来た。たまに一塊の塩を得ると、貴重なもののようにして舐めた。久し振りに舐める塩は、ふしぎなことには甘い味がした。塩とはこんな甘いものかと思った。砂糖よりももっとあまかった。舐めると次の一日間位は元気が出た。

此のような悪条件下でも、宇治の大隊はツゲガラオ飛行場に対する遊撃戦を放棄する訳には行かなかったのだ。毎夜斬込隊が編成され、五号道路を越えツゲガラオ飛行場付近の幕舎や倉庫を襲った。将校を長とする大きな編成の斬込隊や下士官を主とする奇襲隊が、一夜に幾組も密林を越えた。斬込みに赴いたまま帰らぬ者も多かった。斬込行の途中で逃亡する兵がようやく多くなった。十数名に足らぬ編成から七八名も逃亡することもあった。密林に紛れて何処に逃げようと言うのか。斬込みに行くより逃げる方が、死ぬ率が少ないに決まっていた。死を賭して斬込むとしても、斬込みそれ自身にどれほど効果のあるものか、それは疑問であった。厭戦の気分が将兵のすべてにはっきりと兆し始めていた。逃亡兵は斬込隊だけではなく、部隊本部からも出た。宇治の部下も二三既に姿を消していた。

宇治は兵器係である。部下と共に、斬込みに使用する破甲爆雷などの製造に寧日なかった。製造所は鐘乳洞の中であった。鍾乳石の垂れ下る洞窟の中で、一日中火薬の臭いと共に暮した。時に同僚の昔の部下が、斬込みに行くため訣別のあいさつに来た。そんな時でも彼等はわらっていた。わらいながら手を振って、洞窟を出て行った。宇治は洞窟の出口まで見送りながら、あれが人間としての最後の虚栄であると思いながら、それでも涙が出そうになるのを押えることが出来なかった。そして出て行った人々の半数は帰らなかった。疲れ果てて夜仮小屋の寝台に横になるとき、宇治は帰って来ぬ同僚や部下の数をひとりひとり心の中で読んでいる。そして自分はまだ生きている、と思う。それは感傷的な気持ではなく、実感として胸に来た。そのような瞬間に必ず宇治は漠然と花田中尉のことを考えているのだ。考えるというはっきりしたものではなく、言わば意識の入口にぼんやり立つ花田の像を眺めていた。花田は此の旅団が久留米で編成されて以来の、数少ない彼の僚友のひとりであった。――

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