Chapter 1 of 4

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東京要塞

海野十三

非常警戒

凍りつくような空っ風が、鋪道の上をひゅーんというような唸り声をあげて滑ってゆく。もう夜はいたく更けていた。遠くに中華そばやの流してゆく笛の音が聞える。

丁度そのころ、築地本願寺裏から明石町にかけて、厳重な非常警戒網が布かれた。

しかし制服の警官はたった二人だけ、あとはみな私服の刑事ばかりが十四、五人。寝鎮った家の軒端や、締め忘れた露次に身をひそめて、掘割ぞいの鋪道に注意力をあつめていた。

一体なにごとが始まるのだろうか。

「おい、来たぞ」

「来たか。通行人はどうだろう」

「あっ、向うの屋上から青灯をたてに振っている。幸い通行人は一人もないというのだ」

「うむ、うまくいったな」

警官たちの顔つきは、緊張そのものであった。

誰がやって来たというのだろうか。

本願寺裏の掘割ぞいの鋪道の方へ、ふらふらと千鳥足の酔漢がとびこんで来た。

「うーい、いい気持だ。な、なにもいうことはねえや。天下泰平とおいでなすったね」

取りとめもない独白のあとは、鼻にかかる何やら音頭の歌い放し。

すると、その後からまた一人の男が、同じこの横丁にとびこんできた。

前の千鳥足の酔漢は、小ざっぱりしたもじり外套を羽織った粋な風体だが、後から出てきたのは、よれよれの半纏をひっかけた見窶しい身なりをしている。

大道も狭いと云わんばかりに蹣跚いてゆく酔漢の背後に、半纏着の男はつつと迫っていった。

「あっ、な、なにをする――」

と酔漢が愕きの声をあげるところを、半纏着の男は酔漢の襟がみつかんで、ずでんどうと鋪道になげとばした。

「うぬ、――」

と起きあがろうとするのを、半纏男は背後から馬乗りになって、何やら棒のようなものでぽかぽかと滅多うち。

ぐたりと伸びるところを、半纏男は足をもってずるずると堀ばたに引張ってゆき、足蹴にしてどーんと堀の中になげこんだ。

どぼーんと大きな水音が、闇を破って響きわたった。

ずいぶん乱暴な行為であった。

しかし警官隊は、林のように鎮まりかえっている。彼等にはこの暴行者がまるで映らないようであった。

なんという腑に落ちないこの場の光景であろうか。

暴行者の半纏着の男は、堀ばたに立って、じっと水面を見つめていた。五秒、十秒、二十秒……。

すると、彼は何思ったか、手にしていたアルミの弁当箱をがたんと音をさせて地上に投げだすが早いか、そのまま身を躍らせてどぼーんと堀のなかに飛びこんだ。

「おーい、しっかりしろ」

彼は片手に半死半生の酔漢を抱えあげた。そしてすっかり救命者になって、酔漢を助けながら、のそのそと堀から上ってきた。二人とも泥まみれの濡れ鼠であった。

「おーい、しっかりしろ。どうしたんだ。傷は浅いぞ。いまどこかの病院へつれてってやるからな」

と、しきりに介抱をするのであった。

堀の中に抛りこんだり、それからまた自分も濡れ鼠になって堀のなかに飛びこんだり、実に御丁寧千万なことだった。

奇怪なのは警官隊の態度だった。映画撮影を見物しているわけでもあるまいし、この暴行を眼の前に見ながら、知らん顔をしているのであった。

折から一台の空円タクが、スピードをゆるめてこの横丁に入ってきた。

「おい、運転手さん、ちょっと手を貸してくれないか」

半纏着の男は手をあげて叫んだ。

「おう、どうしたどうした」

「いや、酔払いが、この堀の中に落っこって、もうすこしで土左衛門になるところだったよ。だいぶ傷をしているらしいから、その辺の病院まで搬んでくれないか」

「うん、よしきた」

円タクは、濡れ鼠の二人を吸いこむと、そのまま明石町の方へ走り去った。

すると、軒端に隠れていた警官隊がぞろぞろと出て来た。

「やあ、どうも御苦労さま。署へかえって、熱いものでも一杯喰べようじゃないか」

「じっとしていたんで、風を引いてしまったよ。はっくしょい」

警官隊は、ぞろぞろと引上げていった。どこまでも奇妙な築地夜話であった。

秘密工事

「わしんとこの吉が御厄介になっとりますそうで、――」

と、シンプソン病院の受付に、真青になってとびこんで来た五十がらみの請負師らしい男があった。

「誰方でございますか」

と、肉づきのいい看護婦が、憎いほど落ちつき払って聞いた。

「えっ」と五十男は気をのまれた形であったが、「わしは土木工事の請負をやっている熊谷五郎造です。うちの若い者の吉――というと本名は原口吉治てえんですが、どこかで怪我をして、誰方やらに助けてもらって、こっちに御厄介になっていると聞きましたが……」

すると看護婦は、軽くうなずいて、

「どうぞお上り下さいまし」

といった。

原口吉治は、ベッドの上にうんうん唸っていた。

親方の声を聞くと、さすがにちょっと唸り声をやめたが、しばらくすると、またたまらなくなって前よりひどく唸りだした。

「どうしたんだ、吉。だからあれくらい云っといたじゃねえか。酒を呑みあるいちゃいけない。もし呑むんだったら、わしの家で呑め、それなら間違いもなくて済むからと、あれほど云って置いたのに、これじゃしようがないじゃないか」

と見舞いに来たのか、叱りに来たのか分らない親方五郎造だった。

「親方、当人は相当ひどい怪我をしているんですよ。それに私が通りかからなきゃ、命を落とすところだったんです。あまりガミガミ云っちゃ可哀そうですよ」

と、隅に腰を下ろしていた髭蓬々の男がいった。彼は病院で借りたのらしい白いネルの病衣を二枚重ねて着ていた。

「おお、お前さんでしたね、わしのところへ知らせて下すったのは。そして吉も助けてもらって、どうも今度は、たいへん御厄介になって済みませんです」

「いや、なんでもありゃしません」

「いずれ後から、御礼はいたします」

「その御心配には及びませんよ」

そういったこの男の言葉は、偽りがなかった。自分で抛げこんで置いて、自分で助けたんだから、礼をされる筋合はない筈だった。

五郎造は、病人の枕許でひどく弱ったらしい顔をしていた。それは病人の容態に対する心配だけではないように思われた。

「……ちょっ、仕様がねえやつだ。これじゃ云訳が立たないや。明日の朝は――これはえれえことになったぞ」

五郎造はぶつぶつ独白をいっては、腹を立てていた。吉治の怪我で、彼はなにか大変困ったことに直面しているらしい様子だった。

生命救助者を装う髭蓬々の男は、濡れていた半纏が乾いたというので、これに着かえながら、そろそろ暇乞いをする気色に見えた。

「おう、もうお帰りですかい。そうだ、お前さんの名刺を一枚下さいな。お礼にゆかなきゃなりませんからね」

すると半纏男は笑いながら、

「お礼には及びませんよ。それに、私は名刺なんか持っていないんです。月島二丁目に住んでいる正木正太という左官なんです」

「ええっ、左官。するとお前さんは、近頃のコンクリート工事なんかやったことがあるのかね」

「ええ、すこしは覚えがあるんですが、大した腕でもありませんよ。なにしろ仕事がなくて、毎日、あっちこっちをうろついているのですからね」

「ふふーン、そうかい。そういうことなら、正太さんとやら、わしは一つお前さんに相談があるんだがね。いや、もちろんうちの者を助けてくれたお礼心から、ちとばかりお前さんに儲けさせようというんだ。実はね、ま、こっちへ来なさい」

と五郎造は正木正太を病院の廊下へ連れだした。深夜のこととて他に面会人も歩いていず、そのあたりは湖水の底のようにしーんと鎮まりかえっていた。

「こいつは他言して貰っちゃ困る。お前さんだから、信用してうちあけるんだが――」

と前提して、五郎造親方は、いまやりかかっている或る秘密の土木工事があって、そこへ働きにゆく気はないか、なにしろ人員は厳選してある上に、一人足りなくても先方から喧しくいわれるのだ。今夜吉治が怪我をしてしまったため、明朝は左官が一人足りなくなる。そのために先方からどんな苦情をうけるかと思うと、彼は気が気でないのだと包み隠さずにいって、この寒中に額にびっしょりとかいた汗を手巾で拭った。

「幸いお前さんが、左官をやれるというから、これはもっけのことだ。これも因縁だと思うから、一つやって見ては」

「でも、なんだか気味がわるいですね。秘密の工事なんて」

「いや、そう思うだけのことで、やっていることは普通の工事なんだ。ただ行くときと、帰るときに、目隠しをされるというだけのことさ。手間賃は一日七円だ。普通の倍だぜ」

「だって、いくら吉治さんが怪我でゆけないとしても、全然新顔の私が行ったんじゃ、先方で入れないでしょう」

「うん、そのことだが――」と五郎造は幾分苦しそうに眼玉を白黒させていたが、

「なあに、生命を助けてくれたお前さんのことだあね、先方が信用するように、わしの親類とかなんとかいっとくよ。何しろ職人の数が揃わないことには、前もってちゃんと決っている工事がそのように進まないことになるから、わしはうんと叱られた上、大変な罰金をとられることになっているんだ。だからお前さんがいってくれりゃ、吉治の分も、わしの分も、二重の生命の恩人となるわけだよ。ね、いいだろう。一つうんと承知をしてくれよ」

正木正太と名乗る半纏着の男は、ようやくのことで五郎造の薦めを応諾した。そしてシンプソン病院を辞去したのであるが、彼は寒夜の星を仰ぎながら、誰にいうともなく、次のようなことを呟いたのだった。

「どうも古くさい狂言だ。だが、古いものは古いほど安心して使える、といわれるが、なるほど尤もな話だなあ」

忠魂塔

その当時、極東には国際問題をめぐって、ただならぬ暗雲が立ちこめていた。

中国大陸には、大きな戦争が続いていたし、その戦争に捲きこまれていないいくつかの大国も、てんでに武装戦備を整えて、いつでも戦雲渦巻くその中心へ向って進撃できるように、すっかり準備は出来上っていた。

従ってわが東京における諸外国大使の動きも非常に活溌であって、或る物識りの故老の言葉を借りると、欧洲大戦当時、ロンドンにおける外交戦の多彩活況も、これには遠くおよばないそうである。

中でも、国民の注目を一番強く集めていたのは、老獪なる外交ぶりをもって聞える某大国であった。

日中戦争が始まって間もなく、既にもうこの某大国の動向が、国民の注目を惹いたものであるが、その当時はどっちかというと、中国の方に相当積極的な同情を示していた。ところがその後、わが日本軍が各地に輝かしい戦績をおさめ、極東のことに関しては日本の同意なしには何一つやれないような事態となったと知るや、某大国はいちはやく態度を豹変し、内面はともかくも表面的には中国に対する同情をひっこめ、そしてひたすら日本の御機嫌をとりむすぶように変った。それはまるで小皺のよった年増女のサーヴィスのように、気味のわるいものだった。

その年の秋が冬に変ろうという十一月の候、例の某大国は日本国民の前にびっくりするような大きな贈物をするというニュースを披露した。それはかつて欧洲大戦の砌、遥々欧洲の戦場に参戦して不幸にも陣歿したわが義勇兵たちのため建立してあった忠魂塔と、同じ形同じ大きさの記念塔をもう一つ作って、わが国に贈ろうという企てであった。

正直なところ、わが国民は某大国のこの好意に面喰った。何につけ彼につけ日本の邪魔ばかりをしている憎い奴だと思っていた某大国から、この由緒ある途方もない大きな贈物をおくられて、愕かぬ者があろうか。

その忠魂塔は東京市に建てられることになった。そのために市の吏員は、敷地を公園にもとめて探しまわった結果、S公園内に建てるということに決った。そして大急ぎでもって御影石の台石を作ることになった。

東京市内では、この忠魂塔のことでよるとさわると話の花が咲くのであった。

「あれで見ると、某大国もやっぱり日本に敬意をもっていないわけじゃないんだね」

「うん、僕も平生すこし悪口をいいすぎたよ。あの記念塔は写真で見たが、高さが五十メートルもあるというから、とてもでっかいものだよ。塔下の一番太いところの直径が二メートル近くもあるそうだからね」

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