Chapter 1 of 25

消えうせた大学生

五月のある日のこと、麹町の高級アパートにある明智探偵の事務所へ、ひとりの老紳士が、たずねてきました。

ふさふさとした白いかみを、オールバックにして、白い口ひげをはやした、やせがたで、背のたかい、りっぱな老紳士です。

この人は松波文学博士で、あるお金持ちがたてた古代研究所の所長なのですが、西洋の古代のことをしらべている、有名な学者でした。

明智探偵は、ある会で松波博士とあったことがあるので、知りあいのあいだがらでしたが、その有名な老学者が、とつぜんたずねてきたのです。

とりつぎに出た小林少年は、松波博士と聞いて、ていねいに、応接室にあんないしました。

「明智さん、わたしのつとめている古代研究所に、みょうなことがおこりましてね。きょうは、あなたのお知恵をかりようとおもって、うかがったのです。」

松波博士はいすにかけると、すぐにそう口をきりました。

「みょうなことと言いますと?」

明智がたずねますと、博士は話しはじめました。

「古代研究所は、ついこのごろ、世界にたった一つという、古代エジプトの経文を書いた巻き物を手に入れたのです。わたしたちの研究所の木下博士が、イギリスで見つけて買って帰ったもので、そのことは新聞にも出ましたから、ごぞんじかもしれませんが、お金にかえられない、世界の宝物です。

ところが、この巻き物には、おそろしい、いいつたえがあるのです。それのおいてある部屋には、なにかしら、ふしぎなことがおこるというのです。イギリスでも、いろいろ気味のわるいことがおこったらしいのですね。それで、この巻き物の持ち主がこわくなって、売る気になったのです。

木下さんは、この宝物を、日本のお金にして、たった三十万円ほどでゆずりうけてきたのですが、ほんとうは、その何倍、何十倍の値打ちのものです。

さて、この巻き物を、研究所のエジプトの部屋へおさめたのですが、すると、たちまちおそろしいことがおこりました。

きのうのことです。研究所へひとりの大学生がやってきました。そして、エジプトの部屋においてあるミイラの棺を見たいというので、部屋にはいることをゆるしたのです。

すると、この大学生が、部屋にはいったまま、消えてしまったのです。人間がひとり、とけてなくなってしまったのです。なにも、ふんしつしたものはありません。あの巻き物も、ちゃんと、もとの場所にありました。」

明智探偵も、そばで聞いていた小林少年も、このふしぎな話に、すっかりひきつけられてしまいました。

「その大学生は、だれもしらないうちに、出ていったのではありませんか。」

明智がいいますと、松波博士は、頭をふって、

「いや、そんなことはできません。赤井という、年よりの小使が、ちゃんと見はり番をしていたのですからね。赤井君は、たった一つのドアの外に立っていて、一度も、動かなかったのです。」

「窓から出ることはできませんか。」

「窓は五つありますが、みんな、げんじゅうに、鉄ごうしがはまっていて、ぜったいに出られません。そのほか、部屋の中には、どこにも、かくし戸なんかないのです。ぬけ出すすきまはぜんぜんないのです。」

「そのエジプトの部屋には、いろいろなものがおいてあるのでしょう。そういうものの中に、かくれることはできませんか。たとえば、ミイラの棺なんか、人間がかくれようとおもえば、かくれられるのでしょう。」

「むろん、ふたをあけてしらべました。しかし、棺の中にはミイラのほか、なにもはいっていなかったのです。」

「これは密室のなぞですね。まったく出入り口のない部屋から、どうして人間が消えてしまったかというなぞですね。エジプトの巻き物ののろいなんてことは、しんじられません。これにはなにか、秘密のわけがあるのです。その赤井という小使さんは、うそをいっているのではないでしょうね。」

「いや、うそはいえないのです。」

「えっ、それはどうしてですか。」

「わたしが、この目で見ていたからです。」

「と、言いますと?」

「わたしの部屋の窓は、十メートルほどへだてて、エジプトの部屋のドアと、むきあっているのです。

そのあいだは、廊下になっていて、その廊下の右がわにも、左がわにも、一つずつ部屋があるのですが、そのドアは、りょうほうともしまっていたので、わたしの部屋の窓から、エジプトの部屋のドアまで、なんのじゃまになるものもなかったのです。

わたしの机は、その窓ぎわにあるので、そこにこしかけていれば、しぜんに、エジプトの部屋のドアが、見えるのですよ。

大学生がエジプトの部屋にはいったときは、ちょっと、席をはずしていたので、わたしは見ておりません。

席にもどると、むこうのドアの外に赤井君が立っているのが見えました。それで、だれか、外から来た人が、エジプトの部屋にはいっているんだな、とおもいました。そういうときには、いつも赤井君が見はり番をすることになっていましたからね。

大学生が、なかなか出てこないので、赤井君は、待ちくたびれて、ドアをあけて中をのぞきました。すると、大学生が、入口までやってきて、ドアの中から赤井君に、なにかいっていました。もうすこし、待ってくれというのでしょう。赤井君はうなずいて、またドアをしめました。

それからまた十分ほどたって、赤井君がもう一度ドアをあけてみると、こんどは、部屋はからっぽになっていたのです。大学生は消えてしまったのです。

赤井君が二度目にドアをあけるときまで、わたしは、一度もそのドアから目をはなしませんでした。だから、大学生が、ドアから出ていかなかったことは、たしかなのです。そのドアのほかに出入り口はありません。五つの窓は、げんじゅうな鉄ごうしです。大学生は消えてしまったとしか、考えられないではありませんか。」

松波博士が、そこでことばをきると、明智探偵はモジャモジャの頭に、指をつっこんで、かきまわしながら、しばらく考えていましたが、ふと、顔をあげて、

「その大学生は、金ボタンの制服を着ていましたか。」

「いや、黒っぽい背広でした。」

「赤井さんは、どんな服を着ていましたか。」

「やっぱり、黒っぽい古い背広です。」

「時間は何時ごろでしたか。」

「四時ごろでした。もう、うすぐらくなっていました。」

「警察にも、おしらせになったのでしょうね。」

「しらせました。警官がきて、ねんいりにしらべてくれましたが、なんの手がかりもありません。人間が消えてしまうなんて、そんなばかなことがあるものかと、わたしたちのいうことを、うたがってさえいるようでした。」

明智探偵は、そこでまた、しばらく、考えていましたが、やがて、決心したように言うのでした。

「わかりました。おさしつかえなかったら、これからすぐ研究所へいって、しらべてみましょう。小林君もいっしょにきたまえ。」

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