三
屏風浦を引上げて、大月と秘書の秋田が丸の内の事務所へ帰ったのは、その日の午後二時過ぎであった。
事務所には、二人が一日留守をした間に、もう新しい依頼事務が二つも三つも舞い込んで、彼等を待っていた。昨日の屏風浦訪問以来、大月の言う事なす事にそろそろ不審を抱かせられてうんざりしていた秘書の秋田は、それでも極めて従順に、どの仕事から調べかかるか、と言う様な事を大月に訊ねて見た。が、それにも不拘大月は、もう一度秋田を吃驚させる様な不審な態度に出た。全く、それは奇妙な事だった。
――銚子から帰って二時間もしない内に、新しい書類の整理をすっかり秋田に任せた大月は、築地の瑪瑙座の事務所を呼び出して、暫く受話器を握っていたが、軈て通話が終ると、何思ったのかついぞ着た事もないタキシードなどを着込んで、胸のポケットへ純白なハンカチを一寸折り込むと、オツにすましてその儘夕方の街へ飛び出して了ったのだ。
歳柄もなく口笛などを吹きながらさっさとアスファルトの上を歩き続けて行った大月は、銀座裏のレストランでウイスキーを一杯ひっかけると、それからタクシーを拾ってユニオン・ダンス・ホールへやって来た。そして其処で、昔習い覚えた危い足取で古臭いワルツを踊り始めた。――が、それも二十分としない内に其処を飛び出すと、再びタクシーに乗り込んで、意勢よくこう命じた。
「日米・ホールへ!」
それから、次に、
「国華・ホール!」
――そんな風にして、ざっと数え上げると、ユニオン、日米、国華、銀座、フロリダと、都合五つの舞踏場を踊り回った大月は、最後のフロリダで若い美しい一人のダンサーを連れ出すと、その儘自動車を飛ばして丸の内の事務所へ帰って来た。
いつもならばもう仕事を終って帰っている秋田も、流石に今日は居残っていた。そして、不意に若い女などを連れて帰って来た大月を見ると、もう口も利けない位いに驚いて了った。
が、そんな事には一向に無頓着らしく、帰って来た大月は、秋田に一寸微笑して見せただけで、直ぐ隣室へその女を連れ込むと、間の扉をピッタリ閉めて了った……。
そして、おお、呆然として了った秋田の耳へ、軈て、狂躁なジャズの音が、軽いステップの音と一緒に、隣室から聞え始めて来た。
全く、「先生」のこんな態度に出会ったのは、今日が初めてであった。秋田はもう書類の整理どころではなくなった。ともすると、鼻の先がびッしょり汗ばんで、眩暈がしそうになるのを、ジッと耐えて、事務卓に獅噛みついていた。が、それでも段々落着くに従って、彼の脳裡に或るひとつの考えが、水の様に流れ始めた……
――ひょっとすると、この女が、あの梟山の海水靴の女ではないだろうか? そして、先生が……だが、そうすると、一体この騒ぎは何になる……いや、これには、何か深い先生のたくらみがあるに違いない。そうだ。兎に角この女を逃してはならない。犯人を茲迄引き寄せて、この儘逃したとあっては面目ない。先生の先刻の、あの意味ありげな微笑は、確に自分の援助を求めた無言の肢体信号なのだ――。
やっと茲迄考えついた秋田は、ふと気付くと、もうどうやら隣室の騒ぎも済んだらしく、いつの間にかジャズの音は止んで、只、低い囁く様な話声が聞えていた。が、軈てそれも終ると、どうやら人の立上ったらしい気配がして衣摺の音がする。で、急にキッとなった彼は、椅子から飛上ると、扉の前へ野獣の様に立開った。
と、不意に扉が開いて、大月の背中が現れた。そして、そのタキシードの背中越しに、若い女の艶しい声で、
「まあ、いけませんわ。こんなに戴いては……」
すると大月は、それを両手で押えつける様にして、それから秋田の方を振向きながら、
「君。――何と言う恰好をしているんだ。さあ、お客様のお帰りだ。其処をお通しし給え」
そこで秋田は、眼を白黒させながら、思わず一歩身を引いた。
「ほんとに済みませんわ。――じゃあ、又どうぞ、お遊びにいらして下さいな」
そう言って若い女は、媚を含んだ視線をチラッと大月へ投げると、秋田には見向きもしないで、到頭その儘出て行って了った。
大月は自分の椅子へ腰を下ろすと、さも満足そうにウエストミンスターに火を点けた。
秋田はどうにも堪らなくなって、到頭大月の側へ腰掛けた。そして、
「一体、どうしたと言うんですか?」
「別に、どうもしやしないさ。が、まあ、兎に角、これからひとつ説明しよう」
そう言って大月は、内ポケットへ手を突込むと、昨日屏風浦の断崖の上で拾った、例の黒く薄い板っぺらの様な小片を取出した。
「これ何んだか、勿論判るだろう? よく見て呉れ給え」
「……何んですか。――ああ。レコードの缺片じゃありませんか。これが、一体どうしたと言うんですか?」
「まあ待ち給え。その隅の方に、金文字で、少しばかり字が見えるね」
「ええ。判ります。…… arcelona ――として、Victor・20113――とあります。それから、……チ・フォックストロット――」
「そうだ。その字の抜けているのは、勿論、あの、踊りのバルセロナの事だ。そして、もうひとつの方は、マーチ・フォックストロットだ――ところで、君は、時々ダンスを嗜まれる様だが、その踊り方を知ってるかね? その、マーチ・フォックストロットと言奴をだね」
秋田は、図星を指されて急に顔を赤らめた。が、軈て仕方なさそうに、
「二三度名前だけは聞いた事がありますが、僕はまだ習い始めですから、全然踊り方は知らないです」
「ふむ、そうだろう。――実は、僕も知らなかった。が、いま帰って行かれたあの若いお客さんから得た知識に依ると、何でもこのダンスは、四五年前に日本へ伝ったもので、普通に、シックス・エイトって言われているそうだ。欧州では、スパニッシュ・ワンステップと呼ばれているものだよ。そしてその名称の示す様に、このダンスのフィギュアーと言うか、つまりステップの型だね。それは非常に強調な、人を激励する様な、ワンステップ風のものなんだ。――ところで、これを君は、何だと思う」
大月はそう言って、一枚の紙片を秋田の前に拡げて見せた。秋田は、それを一寸見ていたが、直ぐに、幾分得意然として、
「――判ります、つまりこれが、そのマーチ・フォックストロットのステップの跡、と言うか、足取りの跡を、先生が図にしたものなんでしょう」
すると大月は笑いながら、
「――ウッフッフッフッフッフッ……まあ、そうも言える。が、そうも言えない」
「と言うと――」
秋田は思わず急き込んで訊ねた。
「つまり、スパニッシュ・ワンステップの足取りであると同時にだね。いいかい。もうひとつ別の……何かなんだよ」
「別の――」
「他でもない。屏風浦の断崖の上の、あの素晴しい格闘の足跡なんだ!」
――秋田は、蒼くなって了った。