Chapter 1 of 1

Chapter 1

とうげの、中ほどに、一けんの茶屋がありました。町の方からきて、あちらの村へいくものや、またあちらの村から、とうげを越して、町の方へ出ていくものは、この茶屋で休んだのであります。

ここには、ただひとり、おじいさんが住んでいました。男ながら、きれいにそうじをして、よく客をもてなしました。お茶をいれ、お菓子をだしたり、また酒を飲むものには、あり合わせのさかなに、酒のかんをして、だしました。おじいさんは、女房に死なれてから、もう長いこと、こうしてひとりで、商売をしていますが、みんなから、親しまれ、ゆききに、ここへ立ち寄るものが、多かったのであります。おじいさんは、いつも、にこにこして、だれ彼の差別なく、客をもてなしましたから、だれからも、

「おじいさん、おじいさん。」と、いわれていました。

おじいさんも、こうして、いそがしいときは、小さなからだをくるくるさして、考えごとなど、するひまはありませんが、人のこないときは、ただひとり、ぼんやりとして、店さきにすわっているのでした。すると、いつとなしに、眠気をもよおしていねむりをするのでした。

もっとも、だんだん年をとると、こうして、ひとりでじっとしているときは、目をあけても、ふさいでも、おなじように、いつも夢を見ているような、また、うつつでいるような、ちょうど酒にでも酔っているときのような、気持ちになるのです。

おじいさんも、このごろ、こんなような日がつづきました。戸外は、秋日和で、空気がすんでいて、はるかのふもとを通る汽車の音が、よくきこえてきます。どこか、森で鳴く、鳥の声が、手にとるように、耳へとどきます。

おじいさんは、汽車の音がかすかになるまで、耳をすましていました。やがて、あちらの山の端を、海岸の方へまわるとみえて、一声汽笛が、高く空へひびくと、車が音がしだいにかすかに消えていきます。

「もう、汽車の窓から、沖の白い浪が見えろるだろう。」

おじいさんは、自分が、その車に乗っているような気でいました。

また、若い時分、山へ薪をとりに、せがれをつれていって、ちょうど出はじめたきのこをたくさんとったことを思い出しました。あのときの、冷たい地面に漂う朽ちかけた葉の、なつかしい香りが、いまも鼻先でするようです。帰ると、おばあさんも、まだ達者だったから、すぐなべへ入れて、火にかけました。

いま鳴く、鳥の声が、そのときのことを、しみじみと思い出させるのでした。

夢ともなく、うつつともなく、おじいさんが、じっとして愉しい空想にふけっていると、朝、この前を通って町へ出た村の人々が、もう用をたしてもどるころともなるのでした。

この、のどかな、ゆったりとした気持ちは、おじいさんと向き合う山も同じでありました。黄・紫・紅と、峰や谷が美しく彩られていました。そして、まんまんと、青く澄みわたる空の下で、静かに考え込んでいるように見えました。こうして、いい天気のつづく後には、冬を迎えるすさまじいあらしがくるのを、あらかじめ知らぬのではないけれど、すぎし日の、春から夏へかけての、かがやかしかった思い出に、心を奪われて、短い日ざしのうつるのを忘れているのでした。まして、このとき、おじいさんと山の静かな心持ちを破るものは、なにひとつなかったのです。

ところが、ある日、こんなうわさが、茶屋で休んだ村の人から、おじいさんの耳へはいりました。

「おじいさん、ここへ、このあいだ、あめ屋さんが寄って、たいそう酔ったというじゃないか。」

「ああ、いい気持ちで、帰らした。」と、おじいさんは、にこにこして、答えました。

「どうりで、きつねにばかされたって。なんでも、一晩じゅう林の中で、明かさしたということだ。」

「えっ、あめ屋さんがかい。」と、おじいさんは、びっくりしました。

「町へいく道へ出ようと思って、おなじ道をなんべんも、ぐるぐるまわっているうちに、目がさめると、西山の林の中で、寝ていたというこった。」と、村の人はいいました。

そのとき、おじいさんは、あめ屋が、いい機嫌になって、子供の時分のことなどを話して、

「この西の方の山へ、子供のころ、きのこをとりにきたことがあった。」と、さもなつかしげに、あちらをながめて、あの山でなかったか、いや、もうすこしこちらの山であったとかいっていたのを思い出しました。酔っているので、しぜんと足が、その方へ向いたのかもしれぬと、そう、そのときのようすを村人に話すと、

「なるほど、そんなことかもしれぬ。多分そうだろうよ。いまどき、きつねにばかされるなんて、まったくばかげた、おかしな話だものな。」

その村人も、そういって、笑いました。

しかし、このきつねの話は、よほど誠しやかに、伝えられたものとみえ、その翌日だったか、村の助役が、茶屋へ入ってくると、

「おじいさん、わるいきつねが出て、人を騒がすそうだが、ここでは、なにも変わったことはないかね。」と、問いました。

おじいさんは、にこにこしながら、

「あめ屋さんが、ばかされたといいますが。」

「村の女どもも、町からの帰りに、ぶらさげてきた塩ざけをとられたといっている。なんでも、後からついてきて、さらったものらしい。」

「それは、いつのことですか。」

「つい、二、三日前のことで、まだうす暗くなったばかりのころだそうだ。」

そうきくと、おじいさんの目へ、二、三人の若い女れんが、ぺちゃくちゃとしゃべりながら、この家の前を通った、姿が浮かびました。その中の一人は、背にさけをぶらさげていたが、からだをゆすって笑うたびに、さけが、右へ、左へ、ぶらぶらと、振り子のようにうごいて、途中で落ちなければいいがと、こちらから見ていて、思ったのを記憶に呼びもどしました。

「これから、寒くなって、えさがなくなると、どんないたずらをするかしれない。」

助役は、こういって、たばこに、火をつけました。

「どこか、道で落としたのでありませんか。」と、おじいさんは、いいました。

「なに、逃げていくきつねのうしろ姿を見たというから、ほんとうのことだろう。」と、助役は、そう信じていました。

「おじいさん、きつねなんか、まあどうでもいいがね、それより、来年はこの前をバスが通るというじゃないか。」と、助役は、あらたまって、さもおおげさに、いいました。

「バスがで、ございますか。」

「まだ、知らないとみえるな。そうしたら、いままでのように、歩くものがなくなるだろう。」

「歩くものが、なくなりましょうな。そうすれば、もう、この商売もどうなりますか。」

おじいさんは、力なくいいました。

「世の中が、便利になれば、一方に、いいこともあるし、一方には、わるいこともある。しかし、そこは頭の働かせようだ。考えてみさっしゃい。近い他の村から、みんなこの道へ出てくるだろう。バスの停留場が、この家の前にでも着くことに決まったものなら、この店はいくら繁昌するかしれないぜ。」

「そうでございましょうか。」と、おじいさんは、白髪頭をかしげて、あたらしくいれた茶を助役の前へ出しました。助役は茶わんをとり上げながら、

「それも、運動するのはいまのうち、早いほうがいいぜ。」といいました。

「運動するといいましても、なにぶん、この年寄りひとりではどこへも出られません。」と、おじいさんは、かしこまってすわり、ひざの上で、しなびた手をこすっていました。

「なに、おまえさんがその気なら、代わって運動をしてやってもいい。」と、若い助役は、相手の心持ちを読みとろうと、鋭く、おじいさんの顔を見ました。

おじいさんは、心で、どうせそれには金がいるんだろう。いったい、いくらばかりあったら、その望みがかなえられるのかと、もじもじやっていました。

「いま、話をきいて、すぐといっても、分別もつくまいから、おじいさん、よく考えておかっしゃい。」

そう、いいのこすと、助役は店を出ていきました。

おじいさんは、このころから、なにか新しい問題が、身に起こると、しきりに心細さを感じました。それは、年のせいかもしれません。そして、遠くはなれている一人の息子のことを思うのでした。いよいよ、いっしょになって、頼ろうかとも考えるのであります。

おじいさんは、客がいなくなって、ひとりになると、このあいだ、せがれがよこした、手紙を出して、見ていました。それにはそちらは、じき寒くなって雪が降りますが、こちらは冬もあたたかです。父上も、どうかこちらへいらして、親子いっしょにお暮らしくださいませんか。私どもも、まだ子供のないうちに孝行したいと思います、というようなことが書いてありました。たぶん、せがれが、工場の休み時間に書いたものとみえ、工場の用箋が使ってありました。おじいさんは、それらの文字ににじむ、親思いの情をうれしく、ありがたく感じ、手紙をいただくようにして、また仏壇のひきだしへしまいました。長年苦楽を共にした女房が、また、せがれにはやさしかった母が、いまは霊となって、ここにはいり、なにもかもじっと見ている気がして、おじいさんは花生けの水をかえ、かねをたたいて、つつましく手を合わせました。

このとき、人のきたけはいがしました。

「このごろは、めっきり、早く日が暮れるのう。」

そういいながら入ったのは、年とった百姓でありました。

「いま、町のもどりかの。」と、おじいさんは、親しげに迎えました。

百姓は、おじいさんのそばへ寄って、腰を下ろしました。おじいさんのおし出す火鉢にあたって、昔風の太いきせるに火をつけました。

二人は、小学校時代からの友だちでありました。ほかにも仲のよかったものもあったが、早く死んだり、あるいは、この土地にいなくなったりして、この年となるまでつき合いをし、たがいに身の上話を打ち明けるのは、わずかこの二人ぐらいのものであります。

「一本つけるかの。」

「それを、たのしみに、町で飲みたいのを我慢してきたわい。」

これを聞くと、おじいさんは、炉の中に松葉をたき、上から釣るした鉄びんをわかしにかかりながら、

「来年から、この道をバスが通るというこった。それで、いまのうち、はやく前へ停留場の着くよう運動をしろと、さっき助役さんがいらしていわしたが、おまえも知るとおり、おらも、だんだん年をとるだし、いっそせがれの許へいったほうがいいかとも考えてな。」と、しんみりとした調子で、語りました。

年とった百姓は、下を向き、青い煙をただよわして、燃える火をじっと見て、きいていましたが、

「なにしろ、親ひとり、子ひとりだもの、いっしょに暮らすに越すことはない。だが、生まれたときから、住みなれた土地だもの、ここをはなれかねるおまえの心持ちはよくわかる。どっちでも、よく思案して、好きなようにするがいいぜ。しかし、この道をバスが通るので、商売が成り立たぬという心配なら、しないがいい。バスに乗る人はきまっている。毎日、荷を負って、町へ出たり入ったりするものが、そんなものに乗れっこない。それに、雪が降れば、車など、通りたくても、通れっこない。ここは、冬のほうが、休む人が多いんだから、先越し苦労をさっしゃるな。停留場なんか、どこへ着いてもいいという気で、成り行きにまかしておかっしゃい。また、どんなことがあろうと、おまえ一人ぐらい、わしらが、困らしはしない。」といって、おじいさんをなぐさめました。

「このくらいで、かんはどうだろう?」

おじいさんが徳利を上げてつぐのを百姓はうけ、口へ入れて、首をかしげました。

「もうちっと、あつくするかい。」

「いや、ちょうどいい。ああ、おまえがいけるなら、いっしょにやりたいと、いつもおらあ、ざんねんに思うだよ。」

「なあに、そうして、気持ちよく飲んでもらえれば、わしも酔ったように、うれしくなるぜ。」

二人は、親しく話しながら、開いている障子の間から、ほんのりと明るく暮れていく山の方をながめていました。

その翌日は、にわかに天気が変わりました。朝のうちから木枯らしが吹きつのり、日中も人通りが、絶えたのです。おじいさんは早くから戸を閉めてしまいました。

まだ、外の空は、幾分明るかったけれど、家の内は、灯をつけると、夜の更けたごとく、しんとしました。このときトン、トン、と戸をたたく音がしました。

おじいさんは、風の音だろうと、はじめは気にとめなかったが、つづいて、トン、トンと、音がきこえるので、だれかきたのだとさとりました。

ふと、きつねの出るうわさが、頭へ浮かんだので、おじいさんは、いっそう用心しながら、戸の方へ近づきました。

「なんのご用かな。」と、内から大きな声でききました。

「お閉めになったのを、すみません。」

そう、いったのは、やさしい女の声でした。おじいさんは、ますます、不審に思い、戸を細めに開けて、外をのぞきました。

すると、そこには、小さな男の子をつれた、まだ若い女の人が立っていました。ようすで、旅のものであるとわかります。

「もう、だれもこないと思いまして、早くしめました。」

「すみません、お芋か、かきでも、なにかたべるものがありましたら。」と、女は、いいました。

「はい、ありますが。」と、おじいさんは、戸をからりとあけました。

「すこし入ってお休みなさっては。どちらへ、おいでなさるのですか。」と、おじいさんは、たずねました。

「この先の村へいくのですが、汽車がおくれて着きまして、それにはじめての土地なもんで、聞き、聞き、まいりました。子供が、もう歩けないからというのを、なにかあったら、買ってあげようといい、いい、元気づけてきました。」

おじいさんは、奥から、かきと芋を盆にのせて持ってきて女に渡し、別にゆでたくりを一握り、それは、自分から子供の両手へ入れてやりながら、

「それは、それは、おたいぎのことです。ここから、もう一息のお骨おりですが、道はよろしゅうございます。それではすこしでもお早く、明るいうちに、いらっしゃいまし。」といいました。そして、心では、だれか、村の青年で、他郷に家を持ったものの女房であろうと思いました。

「お世話になりました。」と、女は、礼をいって、子供の手を引き、風の中をうす暗くなりかけた道へ消えていきました。

しばらく、戸口に立って、見送っていたおじいさんは自分にも、あちらでせがれの結婚した嫁のあることを思いました。

「いつ、ああして、訪ねてこないものでもない。」

もし、そのとき、町から、村へ、バスが通っていたら、どんなになるか、便利なことであろう。そう、考えると、このときまで、頭の中にあった、商売上のことや、一身の損得などということが一しゅんに落ち葉のごとく吹き飛んでしまって、ただ世の中の明るくなるのが、なにより喜ばしいことであるように感じられ、また、多くの人たちがしあわせになるのを、真に心から望まれたのでありました。

●図書カード

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