Chapter 1 of 6

その年(大正六年)、二十歳になったばかりの西方現助は、ある日の午後、寄宿舎の門を出て鶴巻町の大通りへぬけようとする曲り角で彼の先輩である東山松次郎に会った。東山は浴衣を着て両袖を肩にたくしあげている。彼は苦学力行の士であった。政治科在学中から「青年雄弁」という雑誌を経営し、自分でその社長になっている。小柄でいつも色艶のいい頬をしていた。――精悍で、キビキビしているだけに、素ばしっこく、ぬけ目のないかんじが一挙一動の中にくっきりとうかびあがっているのである。どの大学や専門学校でも雄弁会全盛の時代なので、彼がその頃売れだしたばかりの「野間清治」の向うをはって、「青年雄弁」の発行を企てたことはたしかに着眼の妙を得たものであった。西方現助は予科生の頃に、東山の雑誌の編輯長で、「早稲田大学雄弁会」に羽振りを利かせていた木尾鉄之助にたのまれて、「青年雄弁」の臨時記者になり、その頃、新帰朝者として英文科の教授になったばかりの坪内士行の演劇論に関する談話筆記をやったことがある。もちろん、報酬なぞを意識においてやった仕事ではない。むしろ、そういう仕事に関与しているというだけで彼は内心得意でもあれば、そのとき自分を推挙してくれた木尾に対して尠なからず感謝もしていた。

それから、もう一年が経っている。現在の西方は堺枯川の経営する、売文社に出入して、ひとかどの革命家を気どっていた。もはや「青年雄弁」などを眼中に置いてはいない。天皇の行幸される日とか、何か政治的事件の起りそうなときには必ず朝から西方に尾行(巡査)がついている。幸徳事件以来、そういう習慣が不文律のようになって、ずるずるとつづいているらしい。その頃、堺枯川を中心とする幾つかの学生グループがあって、帝大(現在の東大)からは、学校内に新人会という組織をつくっている宮崎竜介、赤松克麿、三輪寿壮、新明正道等の学生が堺の家に出入りをしていたし、明治大学からは佐々木味津三、村瀬武比古等が別のグループをつくってちかづいていた。その中で、売文社系統の実際運動に直接関与しているのは早稲田大学に籍をおいている西方現助と青木公平だけである。その証拠にはこの二人には必ず尾行がつき、時によっては、尾行も一人だけではなく、学校の表門と裏門に立って授業が終って出てくるのを待っていることもあった。

東山はその年の三月、学校を卒業して、「青年雄弁」に専らになっていたが、西方の姿をみとめると、

「ああ、君」。

と、親しそうな声をかけながらちかづいてきた。

「重大な問題が起っているんだ、これだけは是非とも君たちに相談しなきゃならんと思っているんだが」。

彼は四つ角にある病院から二、三軒先きにあるミルクホールをゆびさした。それから先きに立って歩きだした。その頃、カフェーというものはなく、学校の周囲にも二、三軒の「西洋料理屋」があるだけであった。学生たちのあつまる場所といえばミルクホールのほかにはなかった。東山は氷の入ったミルクを注文し、誰れもいないテーブルの片隅に腰をおろすと、彼の特徴である滑らかな演説口調で、その重大問題について語りだした。

彼のはなしによると、現在の学長である天野為之博士の任期がまだ終っていないにもかかわらず、学校の内部には早くも前学長である高田早苗博士をかつぎあげようという陰謀が企てられているというのである。

「高田博士は君も知っているとおり、大隈内閣の成立と同時に学長の職をなげうって文部大臣として入閣した人だ。その高田博士が、こんど大隈内閣が総辞職したからといって、ふたたび学長の椅子に就こうなぞというのはもってのほかですよ、――われわれは、もちろん天野博士に対して何の恩怨もないが、学問の自由と独立のために、権勢を笠に着て乗り出そうとする高田博士反対の運動に参加すべき義務があると思う、学校は大隈老侯の私物ではない、全学生のものです、これをほったらかしておいたら学校はたちまち政争の道具になってしまうことは火を睹るよりも明白である、――君、立ってくれたまえ、天野博士のために」。

彼の顔は興奮のために汗ばんでいる。それがために一層若々しく見えた。

「そうですか、そいつは容易ならんことですね」。

立ってくれたまえ、と言われただけで西方現助の心にはすでに立ちあがる決心がついていた。

「個人の問題はともかくとして、これはわれわれが解決すべき社会問題です」。

西方はひと息にしゃべってから、つめたいミルクをぐっと飲みほした。

「そうだよ、君――まさしく社会問題だ、いや、西方君、どうもありがとう、君が動いてくれれば政治科の大勢はきっと動く」。

東山は前かがみになって西方の手をにぎりしめた。「じゃあ、君は、今夜五時半から矢来倶楽部で有志の会合をひらくことになっているから必ず出席してくれたまえ、もし君の知人がいたら何人来たってかまわないからね」。

陽ざかりの街へ出ると、東山は、「じゃあ、五時半」――と、くりかえしていった。そのままくるりと向きを変え、反対側の小路の方へせかせかとした足どりで帰っていった。

寄宿舎にかえると、西方はすぐ自分の部屋へ入って荷物の整理をはじめた。暑中休暇で寄宿生の大半は郷里へ帰っていたので、残っている学生は彼のほかに二、三人しかいなかった。賄方も昨日かぎりでいなくなった。寄宿舎は事務員二人を留守番に残し今日いっぱいで閉鎖することになっている。西方が、その夏の帰郷を中止したのは、あたらしく売文社内に設けられた講習会の聴講生になるためだったが、彼はその数日前に下戸塚の、戸山ヶ原にちかい街はずれに素人下宿の二階を借りて、そこへ移ることにきめていた。荷物といっても蒲団と本箱と机があるだけである。本は大部分質屋に入っているし、人力一台あればいつでも運んでゆくことができる。西方は事務員にたのんで、荷物を玄関まで運びだした。俥賃を倹約するために事務員と二人で、下戸塚の下宿へ荷物をかつぎこみ、そのまま、もう一度寄宿舎へひっかえしてくると、門の前にある、がらんとした大弓場から青木公平が出てきた。

彼は西方の顔を見るが早いか、ふところの中から一枚の夕刊新聞をとりだした。

「おい、見たかい、――ロシヤでは、とうとうはじまったぞ」。

門の前に太い榎の老木が二本ならんでいる。西方は木かげになった幹によりそいながら青木のわたした新聞をひろげてみた。ロシヤに革命が起って、あたらしく、ケレンスキー内閣の成立したことを仰々しい見出しで書きたてている。上段には、ほそおもての、角刈りみたいな頭をしたケレンスキーの顔が、輝くばかりの精彩にみちてうかんでいた。まだ三十を過ぎて間もないらしい。この青年革命家の風貌には見るからに貴公子というべき純粋なかんじがある。それは闘志を忍ばせた美しい眼が、どことなく弱々しい表情とぴったり調和して、智的な、逞しさが西方の胸に犇々と迫るようである。

「今夜、堺の家で新人会の連中と顔合せの会をやることになっているんだ、――それで、さっきから大弓場で待っていたんだが、今夜はきっとおもしろいぞ」。

「そうかい」。

西方は、うなずきながら青木の顔を見あげた。眼鏡をかけた青木は、若いくせに、脳天までつるつるに禿げた頭ににじむ汗を絶えず手拭でふいていた。

「ところが、こっちにも大事件が起ったんだ、さっき、そこで東山君に会って聴いたんだが」。

手短かに天野学長排斥の陰謀について話したが、青木は一向気乗りがしないらしく、

「そいつは君、――どっちがどうとも言えないね、僕はむしろ人間的には高田の方が好きだよ」。

「いや、好き嫌いの問題じゃない、こういう動きの中にも革命の縮図があるよ、堺のところは少しぐらいおくれたっていいんだから、君も五時半までに矢来倶楽部へやって来いよ」。

青木は、東山の策謀に乗ることは危険だということを、くりかえし、しゃべっているうちに、やっと彼自身の落ちつき場所をさぐりあてたらしい。

「じゃあ、おれは今から家へかえって電話で堺に連絡しておくからな、――少しぐらい、おくれたって必ず行くよ、僕等は僕等で、学生としての意見をまとめておく必要がある、それがために一応彼等のいうところを聞くという意味においてだ」。

西方も青木も、天野博士にも高田博士にも会ったことは一度もなかった。だから彼等が学校の内情について知る筈はなかった。西方は大隈内閣の倒壊についても、司法大臣である尾崎行雄が、閣僚の一人である大浦兼武の涜職行為に対して断乎として司法権の独立を押しとおしたということに多少の魅力をかんじているだけである。時間はまだ、やっと四時を少し過ぎたばかりだった。青木とわかれると西方はすぐ鶴巻町に住んでいる同級生の新藤喬を訪ねた。新藤の家は岡山在の名門であるが、長男の彼が早稲田に入学するとともに一家を挙げて引っ越してきて、今は鶴巻町の通りで洋服屋をやっている。両親とも人ずれのしない、育ちのよさをむきだしにした素人っぽいかんじが店頭に坐っていても何となく商売とぴったりしないものがあった。洋服屋といったところで自分で裁断したり、仕立てたりするわけではない。職人を傭ったり、仕事をほかへ廻したりしているので、店の経営は順調にはいっていなかった。

それに新藤の友人たちが、つぎつぎと洋服をつくり、完全に支払うものがないので父親は相当に困っていた模様である。西方もその一人で、彼は一年前に月賦でつくった背広の代金をまだ半分以上残していた。

学生のいなくなった鶴巻町の午後はしいんとして、人通りもほとんど途絶えている。西方が入ってゆくと、新藤洋服店の中はがらんとして誰れもいなかった。しかし、二、三度声をかけると、階段をバタバタと駈けおりてくる足音が聞え、今まで二階で昼寝をしていたらしい新藤が、うすよごれた浴衣の前をかき合せながらおりてきた。

「今日は、ちょっと相談があって来たんだが」。

西方が店先きに腰をかけようとすると、新藤は、

「まア、あがりんされ、ええがな、ええがな」。

といいながら、無理矢理に彼を二階へ押しあげてしまった。

猫背で、ずんぐりとふとっている新藤は政治科一年の教室の中でも一種の老成した学生として風格を備えている。同じクラスの中には、田舎で長いあいだ新聞記者をしたものもあれば、小学校の教員をしたり、小さな会社を経営しているものもあって、三十をすぎた彼等は県会議員や市会議員の選挙運動に参加した経験をもっているので、みんな教室の中では、ひとかどの政客を気どっていたが、そういう、ぴったり板についた田舎政治家のあいだに伍しても、新藤だけは、中学からすぐ入って来た学生とは思われないほど挙措動作に、押しも押されもしない世馴れた落ちつきがあった。もちろん、それは彼が体験から得たものではなく、生れながらに彼の身についているものである。

「さっき、東山君に会って聴いたんだが」。

と西方が切りだした。二階は天井が低く、表通りに面した窓にほそい格子がはまっているので風通しがわるく、その上、部屋の中には洋服の切れ地や古雑誌が雑然と散らかったままになっているので、向いあってしゃべっているだけですぐ息苦しくなってくる。天野博士擁立の問題で、今日五時半に矢来倶楽部に会合があるからいっしょにゆかないかという話をすると、新藤は、万事わかったというかんじで何べんとなく大きくうなずきながら、

「なるほど、高田は悧巧だけんのう」。

露わに出した毛のふかい向う脛をごしごし、こすりながらいった。「それに君、大隈だって高田の方が可愛いいにきまっとる、――そりゃ、天野は気の毒じゃ」。

「だから、僕等は天野の立場に同情するとともに、学制改革の運動を起すべきだと思うんだ、学校は個人の私有じゃないんだからな」。

「そりゃそのとおりじゃが、今日の会合は天野派じゃろが?」。

「そうだよ」。

「弱ったね、僕は」。

新藤は、格別当惑している様子でもなく、急にはずみのついた声で笑いながら、

「僕は君と行を共にしようと思うとるが、僕が天野派の運動しよるときいたら高田のやつ、きっと怒るじゃろな」。

「君は高田博士を知っているのかい?」。

「いや、知らん、――知らんいうたら両方とも知らんが、まア、ええ、ええ、ひとつ天野のためにひと肌ぬごう」。

彼は教室の中で、仲間同志があつまるときに、いつもやる老政客を気どるときと同じ態度で、

「じゃがなア」。

と、ひとりでうなずいてみせた。「誰れも学生は学校におりゃせんものなア、こいつはうっかりするとやられるぞ、東山のひとり舞台になると話がややこしくなる」。

「しかし、革命の縮図を示すことは出来るよ、――学生の行動は純粋無垢だ、おれたちは天野派でもなけりゃ高田派でもないんだからな」。

「そういえば、君、――ロシヤでは革命をやりおったな、やっぱり能力のあるやつはどこからか出て来よる、とにかく、そういう時勢になってきたんじゃ」。

新藤喬は、自然に煽られる空気の中で、何の不安もなくどっかりと胡坐をかいた。「東山だって今に何をやりだすかわかりゃせん、やるなというたところで、これだけは仕様がないしのう」。

彼にとって、革命という言葉は、たしかにどこかにあるにはちがいないが、それは自分たちとは縁もゆかりもないような遠いところにあるもので、よしんば眼の前で何事かが起ったとしても、こいつは政治とは別問題である。いってみれば革命はいつでも花火のように打ちあげられ、あっと見とれる間に消えてしまうものなのである。例えば、学長の更迭問題で、ひと騒ぎ起ろうとするときに、「革命の縮図」なぞという言葉をひけらかしていい気になっている西方現助なぞは、格からいって元老院議員ともいうべき新藤からみれば、これはまったく子供の寝言みたいなものである。

「こりゃ、むろん、恩賜館組もうごくぞ、彼等にとっちゃ絶好の機会だからな」。

新藤の声は自信にみちみちている。恩賜館組というのはその頃、木造建築で埋まっている校舎の中で、たった一つ恩賜金を基本にして建築された煉瓦づくりの建物で、その五階の一室を倶楽部のようにしてあつまっていた若い教授の一団をさすのであるが、その中で学生のあいだに、もっとも人気のあったのは政治哲学を担当していた大山郁夫だった。

新藤は二タ月前、学校の内部に銅像問題が起ったときにも恩賜館組の教授を歴訪して学生の立場を了解してもらったことがある。銅像問題は、当時の学校当局が大隈侯爵夫人の銅像を中央校庭の隅にある大隈総長の銅像とならべて建てようとする計画を事前に知った学生が騒ぎだした運動であるが、その計画は最初から若い教授と、一部の学生のあいだから起る反対を予想して、内密のあいだに工事が進められていた。そのキッカケをつくったのは西方たちのいる政治科のYクラスであるが、最初、大田茂という、一見して右翼の壮士を思わせる、でっぷりと肥った学生が、一人で各科の教室を説いてまわった。その鈍重で一風変った動作のために大田には半ば軽蔑の意味をふくんで「西郷どん」というあだ名がついていたが、彼は外部の校友から使嗾されたらしく、ちょうど授業の終った頃を見はからって教壇にのぼると、持ち前の咄々とした調子で、首尾一貫しない演説をはじめた。それをみんな面白半分にきいているうちに、こんどは学生のあいだに、いつのまにか銅像設立反対と賛成の両派ができてしまった。何か機会さえあれば騒ぎたてようというすきをねらっていた彼等にとっては思いがけない好餌であった。そのときは西方も新藤も、どっちに賛成したわけでもなく、唯、恩賜館組がこの運動とは別に「学制改革」の運動を起そうとしていることを探知したので、あれに近づこうという計画を立てただけのことである。

しかし、威勢のいいのは、もちろん反対論者の方で、彼等の意見を綜合するとこういうことになる。われわれは学校の創設者である大隈老侯の銅像を日夜校庭に仰ぐことを誇とするものであるが、しかし、侯爵夫人と学校と何の関係があるか。彼女は昔、どこかの芸妓であって、それが、何かの機みで大隈重信夫人になっただけのことではないか。僅かに侯爵夫人であるというだけの理由で彼女の銅像を校庭に仰ぎみるのは自由と独立とを標榜するわれ等の恥辱である。もし、どうしても夫人の銅像が建てたいというなら大隈侯爵邸に建てるべきである。

名物男の大田は故意にか偶然にか咄々として語る舌足らずの言葉のために、声涙ともに下るといってもいいような感動的な印象をあたえてしまった。言葉が行きつまると彼は必ずくるりとうしろを向いて黒板の上へチョークで大きく「小野梓」と書いた。

「もし、強いて校庭に銅像を建てようとするならば学校を今日あらしむるために血を吐いて倒れた小野梓の銅像こそ建てるべきではないか!」。

これは大田の発言ではない。銅像反対派の学生が一つおぼえのようにくりかえす文句である。

こういう空気が混沌として湧きあがってきたとき、ちょうど学期試験がはじまり、それと同時に、学内の形勢を看取した学校当局が銅像設立の工事を俄かに中止したので、銅像問題はうやむやのうちに葬られてしまった。しかし、西方が新藤と親しくなったのは、この銅像問題のときに行を共にしたということだけではなく、この老政客を気どる風変りな青年は、学校の行事になっている全校をすぐる大弁論大会で、政治科から代表者を選出するために、四、五人の候補者が立候補したとき、彼もまた有力な候補者であったにもかかわらず、途中から立候補を断念して、どうか諸君、私への投票は西方現助君にゆずっていただきたい、私は感ずるところあって辞退します――と、彼独特の落ちつきはらった態度で意外な言明をやりだした。おそらく、そういう心のゆとりを示してみたかったのであろう。それがために西方への投票がふえる筈もなかったが、しかし、校外で、ませた大人のやることを何のいや味もなく平然としてやってのけたことによって新藤の人気が倍加したことだけは確かである。

新藤と話をしているうちに、鶴巻町の往来は夕涼みの人たちで急に賑やかになってきたので、西方は今度引越した素人下宿を彼に教えておくために外へ出た。学生のいなくなった学生街というものには一種異様な空気が漂っているもので、両側にならんでいる古本屋や理髪店の前には同じような縁台がおかれ、平素はほとんど顔を見せたこともないような若い衆や娘たちが、のうのうとした気持ではしゃぎまわっている。

彼等は国民亭という洋食屋でライスカレーを喰べると、下戸塚から馬場下へぬけ、それから二人で肩をならべて矢来倶楽部のある暗い坂をのぼっていった。

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