Chapter 1
過去3世紀のあいだに英語を話す人たちが平均的に働く一生は2倍になった。一部の人たちは現在と同じであって、人によって強く運が良い人たちは長期間にわたり能率の良い労働力を持っていた。しかし一般人の一生は現在の中年になると使い尽くされてしまった。シェークスピア(1564-1616)の時代に50才は立派であった。「由緒あるランカスター家のジョン・オブ・ゴント老(1340-99)」がそのように呼ばれたときには58才であった。コリニー提督(1519-72)は暗殺されたときに53才であったが当時の伝記作家は非常な老人と書いている。今では60才代で死んだと聞くと、まだ若く活気があり、そんな年で無いのに倒れたと直感的に感じ、80才でも死神の鎌に丁度良いかなと思う。このような変化を起こしたのに3つの要素があり、肉体的な快適さの進行、医学とその小間使いの衛生の女神、および外科学である。そして、恐ろしい実際の苦痛、今日までのどの時代にも拷問である肉体的な苦痛、および前世紀まで殆ど和らげられていない苦痛、を緩和するのに医学は比べものなく先頭に立っている。
確かに前世紀に良い基礎が置かれて、人々は真の科学的精神で働いた。偉大な教師たちは前提になる本質的な問題すなわち身体の構成と機能を研究するように後継者を激励した。オランダの力強いブールハーフェ(1668-1738)は臨床観察に革命を起こした。イタリアのモルガーニ(1682-1771)は(ウィルヒョウ(1821-1901)の言葉によると)「解剖学的な考え方を医学に導入して」1世代後にドイツのハラー(1708-77)が生理学で行ったのと同じことを病理学で行った。その頃にジョン・ハンター(1728-93)は外科手術に基本的な改良を行っただけでなく、解剖学および生理学の問題を研究した。しかし推測や観察の不完全な解釈にもとづく古い理論の影響は、開業医の身体の上に重くのしかかっていた。18世紀の主な一般理論はエディンバラ大学のウィリアム・カレン(1710-90)とその弟子で助手のジョン・ブラウン(1736-88)によるものであった。前者は古い「体液」理論から大きく前進して正しい進路の上に乗って神経系を病気の座(場所)にした。後者はすべての病気を2つに分けた。亢進すなわち過剰な興奮によって起きる安静で治療するものと、無力すなわち興奮が低いと起き刺激により治療するもの、の2つであった。ヨーロッパ大陸ではライプチヒに住んでいて1795年から1810年にかけて偉大な学説を提起したハーネマン(1755-1843)はすぐ後に「ホメオパシー」(*患者の症状と同じ患いを起こす薬剤の使用)によって反対を受けた。この「ホメオパシー」は後にこの名前で呼ばれたものと非常に大きく違うが、根本的な基礎は残っている。その昔にヒポクラテスが述べていた「似たものは似たもので治る」という彼の理論は別として、理論をまったく否定して、見ることができない病理的変化について何かを知ることは不可能であると宣言した。我々は症状だけを知ることができるのであって、もしも症状が取り除かれたら必然的にそれを作った病気もまた無くなったことを示している。彼はまた健康な人にある症状を起こす薬量は病人にも多すぎることの明らかな証明であると主張した。さらに治療能力を持つ薬量は感覚や化学分析で知ることができないほど少なければならないとした。磨り潰すこと、すなわち希薄にしてよく混和すると分子変化が起きて効力が無限に増すと主張し、彼はこれを「ダイナマイゼイション」(動力化)と呼んだ。症状と経験を極端に重視したのは、根拠の無い理論に頼る当時の傾向への反作用であり、無限に少ない薬量のパラドックスは、バケモノのような丸薬と飲み薬で患者が害を受けていることへの反対であった。両方の反対はともに有用なではあったが、彼はさらに丸薬を近くに置くと子供は眠っているあいだに治ると宣言するところまで進んだ。
しかし想像による理論も手探りの経験主義も極端な方法として支配するのは終わり、最初の大打撃はこの世紀の最初の年に現れた。他の国が群がっていたが、フランスは先頭になった。数学者クリフォード(1845-79)が34才で亡くなったと同じように31才で死去した天才ビシャ(1771-1802)は死去の前年(1801)に一般解剖学の著書を刊行して、諸臓器は共に膜と組織を持ち、従って病気の座は臓器そのものではなく構成している組織にあるのを示すことによって医学全体を再構成した。これはアルファベットが象形文字を簡単にしたように解剖学と生理学を簡単にしただけでなく、病理学的変化の研究を完全に新しい道筋に導いた。この仕事と並行してモルガーニの足跡を追った人たちは彼の病理解剖すなわち臓器の外見の研究を行っていた。これもまたビシャの発見にもとずいて形を変えていった。1808年と1816年にパリのブルセ(1772-1838)は価値ある著作を刊行した。彼の理論はブラウンのステニアとアステニアの考えに過ぎなかったが、病理解剖学および局所病変の研究を新しいものにした。打診法はウィーンのアウエンブルガー(1782-1808)により1761年に考案され、パリのコルヴィザール(1755-1821)はこれを復活させた。しかしコルヴィザールの弟子でブルターニュ人であるパリのラエンネック(1781-1826)の聴診法の導入は大きな効果を産んだ。彼は聴診器を発明して肺、心臓、腹部臓器が動いているときの音の変化によってそれらの病気を診断した。そして彼がこれを使ってこれらの臓器の病気を観察したことはブールハーフェ以来の臨床における最大の進歩であり、現代の臨床医学の基礎を作ったと言うことができよう。1827年にロンドンのリチャード・ブライト(1789-1868)はブライト病とも呼ばれている腎臓の病気(*糸球体腎炎)の本性の認識および腎臓病の一般的性質ついて刊行した。これは腎臓病についての我々の知識の基礎である。
この世紀の最初の半分における特別な研究と解析は、長く続く発熱を鑑別することであった。新しい医学が興隆して以来、開業医および理論家にとってもっとも活発で気がかりな戦場であった。ここで発疹熱とマラリア熱はよく鑑別されていた。最初に鑑別されたのは腸チフスでありパリのルイ(1787-1872)によって行われた。彼の弟子であったフィラデルフィアのW・ガーハード(1809-72)およびアルフレッド・スティレ(1813-1900)と一緒にC・W・ペノック(1799-1867)、ボストンのB・シャタック、はそれまで曖昧に一緒にされていた腸チフスと発疹チフスは同じような原因で起きるとはいえ、それぞれ独立の病気であることを証明した。これはグラスゴーのA・P・スチュワートおよびロンドンのウィリアム・ジェンナー卿(1815-1898)によって確認された。この仕事に関係したのはダブリンのR・J・グレーヴズ(1797-1863)とウィリアム・ストークス(1804-78)、ロンドンのジョージ・バッド(1808-82)およびアメリカのダニエル・ドレーク(1785-1852)、S・H・ディクソン(1798-1872)、およびオースティン・フリント(1812-86)であった。この仕事は1860年までには発熱クリニックに関して正しく基礎づけられていた。
アメリカにおける発展
19世紀が始まったときにアメリカに医科大学は3つしかなかった。そのうちハーバード・カレッジおよびペンシルバニア大学に関連した2つの医学校が重要であり、総合病院も2つしかなかった。医学教育はある程度に神学校と地盤を共通にした。医師は何年間か徒弟となり聖職者は神学における個人的な弟子をとった。もっと体系的な医学教育を希望し経済的にできる人たちはロンドンまたはエディンバラに行った。医学の文献はほとんど全て英国のものおよび(翻訳された)フランスのものであった。ラッシュその他の何人かは著書を刊行したが新しいものではなかった。2-3の医学雑誌だけが存在した。個人所有のものを別にすると2つの医学図書館だけがニューヨークおよびペンシルバニアの病院に存在した。もっとも高名な医師はフィラデルフィアのベンジャミン・ラッシュ(1746-1813)およびフィリップ・S・フィジック(1768-1837)であり、ニューヨークのデイヴィド・ホサック(1769-1835)およびサミュエル・ミッチル(1764-1831)であり、ボストンのジェームズ・ジャックソン(1777?-1867)およびジョン・C・ワレン(1778-1856)であった。小さいところにも有能な人たちが居たがあまり広く有名ではなかった。たとえばシンシナッティのダニエル・ドレーク、およびダートマスおよびイェールの医科大学の基礎を作ったネーサン・スミス(1762-1829)である。しかしビシャ、コルヴィザール、ラエンネック、ルイ、その他のようなフランスの研究者たちがこの世紀の最初の四半世紀に高名になり、アメリカのますます多くの学生たちがフランスに行くようになり、彼らが持ち帰った新しい精神はアメリカの医療にしばらくのあいだ革命を起こした。しかしアメリカの人口は莫大に増加して、正当に発展する以上に医学知識が早く蓄積するこおの要求が大きくなった。群集が必要とするほど早く教育ある医師たちを作り出すことは出来ず、時代は半製品の黄金時代であった。多分、大衆たちもまた医学においては公職におけると同じように訓練が不必要である(*専門家は不要)という考えを持っていたのであろう。機械装置は無限に何倍にもなり製品はそれに応じて価値が下がった。1870年まで医学校は公立も私立も至る所に作られ、志願者を獲得する競争が標準を非常に低下させた。卒業証書は2年で与えられ、授業時間は短かった。当局は厳しい勉強や注意深い実験を強制する気が無いので、教師たちは有能な教育を時には与えることができなかった。新しくずっと高い基準を最初に要求したのは1870年ごろのハーバードであった。この国の残りの場所においても優れた施設がこの先導に急速に続き、大勢の教育ある上流階級が医学だけでなく他の学部においても徹底した教育の必要性を認識し、医学は大きな科学であるだけでなく繊細な技術であることを理解した。いつものように金持ちたちはしかるべく寄付する場所があったら喜んで寄付する気があり、研究実験室および総合病院や専門病院の両方に気前よく寄付した。場所が許すならばこれらを数え上げるのは感謝を示す仕事である。ここではピアポント・モルガンとアンドリュー・カーネギー、ジョンス・ホプキンスとヴァンダービルト、シムズ、ストラスコーナ、マウント・スティーヴン、ペインおよびレインの名前だけをあげる。
研究方法
もちろん前世紀が医学または生理学の実験を発明したわけではなかった。この方法はギリシアおよびローマの偉大な医師たちが認識し、2人の偉大なベイコン、ロジャー(1214?-94)とフランシス(1561-1626)、によって使用され、ハーヴィ(1578-1657)によって完全に発展され、優れた手法を使ってハンターによって利用された。しかしこれらの偉大な人物は正しい考えに不足したわけではないが、我々の時代になって徐々に作り上げられた道具や大量の実験器具を持たなかった。研究実験室は19世紀に、しかも中葉に向けて発達した。そこで研究者は3つの主な方向に向かっていた。すなわち、健康時における臓器の条件および機能、病気によって起きる変化の本性と機能の変化およびその変化の原因、およびその障碍を起こすものを中和することができる予防または治療の作用、であった。これらの研究の結果は新しい知識を作り上げ、1800年における知識とくらべてさえ大人と赤ん坊の関係がある。生理学および病理学における新事実は単に考古学的な興味のある前世紀において蓄積された知識を残しただけでなく、いかなる権威の支配からも我々を引き離す。今日のどのようにまともな結論であっても作業仮説に過ぎず、いつでも新しい事実によって廃棄されなければならないことを認識している。すなわち真の科学精神である。生命のどの部分、消化と同化、循環、呼吸と排泄、生殖と指示の機能、はすべて光の洪水によって照らされてきた。これは特に脳の研究において驚くべきものであり、脳の機能は触れることができないし手に入り難く、被験者を傷つけずに実験を行うことは明らかに全く不可能である。感覚および運動のインパルスの経路と働き、機能が存在する場所、思考と記憶の機械的な手段、の秘密に深く入り込んだだけでなく、以前には夢見ることが出来ず夢で見ることが出来たとしても使用できると思ったこともないかなりの数の治療法を利用することに成功してきた。
この時代に顕著な特徴は専門化の発達である。ここで知識または判断の調整および幅の不足を、他の方法では不可能な知識の発展とを相殺しなければならない。科学的に言って事実表示の領域を広げ深めることにおいて、他の方法はこれ以上に強力ではない。実際に他の方法は医療の発展にこれほど効果的ではなかった。この専門化はその昔の無教育で単に当てずっぽう経験主義の「肺医者」や「熱医者」と混同すべきではない。ここで言う専門化とは総合的な医学知識および専門における完全な教育を基礎としているものを言う。1つの限られた領域、すなわち女性、子供、目や耳、喉、歯、脳の病気、またはそれ程まで限定されてはいないが心臓、肝臓、その他の臓器を得意の領域、とする医師たちが、医療において最も注目すべき勝利を得てきた。アメリカの医師たちは歯科および眼科、ならびに婦人科学または女性の病気を専攻した人たちの、完全に先頭に立っていた。この婦人病専門においては、女性の特殊な病気において生命と健康を保ち、ふつうの病気の女性だけでなく男性の身内および彼らの子供たちに与えた祝福は高く評価しすぎることはない。
この専門化において最も優れているのは精神科であり、研究の結果としてこれに対する大衆の精神的な態度の変化は最も目覚しいものであり感謝に満ちている。主として中世期に見られた嘲りの態度、神のわざとしての哀れみ、または単なる恐れおよび嫌悪、から同情をもって研究されるようになり、しばしば軽減され、そして常に単なる機能疾患として認識される。我が国のラッシュ、イギリスのテューク(1732-1822)、ドイツのヤコビ(1775-1858)とハッセ、およびフランスのピネル(1745-1826)とエスキロール(1772-1840)の努力によって、この改革はすべての文明国において精神的な障碍を科学的に研究するだけでなく、そのケア(介護)とキュア(治療)に人間的で合理的な方法を導入する医師たちの一団を創り上げた。アメリカは精神障害者の治療で他の国に遅れを取らなかった。しかしアメリカにおける多くの良い理想にとっての呪い、すなわち政治、は未だに多くの州においてこの科学を壊すものであった。
予防
「予防は治療より優れている」の最も輝かしい例は19世紀に見られる。古代までさかのぼると、国家は病気が最も盛んである主な条件を把握していて、我々が改めて達していないほどに公衆衛生体制を推し進めていた。モーセの律法は清潔、隔離、食物の強調においてすばらしい例を提供している。ギリシア人は食事、運動ならびに運動を完全に体系化して、彼らの理想は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(そして運動の専門家は耐久力が無いので良い兵隊にならないことを見出した)であった。ローマ人やギリシア人はイギリス人以上に殆ど執着と言えるほど入浴を好み、当時の公衆慈善家は図書館ではなく市に浴場を寄付した。しかし現代の科学はさらに進んでいる。病気そのものを作る原因を見つけて除いたり無効にする。18世紀にこれに光が当てられた。キャプテン・クック(1728-1779)とギルバート・ブレーン(1749-1834)は壊血病を起こす条件を認めて除いた。ジェンナー(1749-1823)はさらに進み種痘によって新しい予防医学を予想した。しかし、これらのすべては科学的基礎が与えられるまでは、単なる弱くて手探りの試みに過ぎなかった。この基礎は細菌学によって与えられ、後に述べる説明を理解するために少し述べなければならない。