第一章
ホテルを出ると雨が降っていた事。
三五二号室の女の代りに四二一号室の女に外科手術をする事。
並んで第一ホテルを出ると雨であった。鋪道の濡れ方で、もう一時間も前から降っていたと判った。少しの雨なら直ぐ乾き切ってしまう真夏の午後なのだ。
一時間も前から降っていたということがいきなり信吉を憂愁の感覚で捉えてしまった。しかし、この寂しさは一体何であろう……。
雨が降るということには、何の意味もない。チエホフの芝居の主人公なら、
「雨が降っている、これは何の意味です。何の意味もありやしませんよ」
と言うところであろう。
雨が降っている……。極めてありふれた自然現象に過ぎない。
しかし、このありふれた現象が自分の知らぬ間に起っていたということが信吉には新鮮な驚きであった。
何故か。
雨が鋪道を濡らしていた一時間、信吉はホテルの第四五三号室のベッドの上で、見も知らぬ行きずりの女の体を濡らしていたのである。
娘は中筋伊都子という。十九歳だが、雀斑が多いので二十二歳に見える。少し斜視がかって、腋臭がある。
一時間前までは、信吉と伊都子は赤の他人であった。伊都子は信吉にとって、まるで急行通過駅の如き存在に過ぎなかった。が、一時間後、並んでホテルを出た時には、もう信吉は伊都子の体を隅々まで知ってしまっていた。急行列車が通過する早さで知ってしまったのだ。
その女の方から誘いを掛けて、信吉の胸に飛び込んで来たとはいうもののその余りのあっけなさはさすがに悔恨となっていた。しかしこの悔恨から来る寂しさではなかった。もとより、ああ雨が降っている……というしみじみした感傷でもなかった。
伊都子と部屋に居る間、そのことと関係なしに雨が降っていたということ、しかもそれを知らずにいたということ、ホテルの部屋と雨が降っている戸外とが、まるで違った世界であったこと……それから来る憂愁の感覚であった。しかしこの感覚は信吉には説明出来ない。孤独とはこんなものであろうか。
信吉はふと眉を翳らせて、それが癖の放心しているような虚ろな眼をあげて、きょとんと白い雨足を見ていたが、一つの気分に永く閉じこもることの出来ない信吉はすぐ軽佻浮薄な笑い声にふくませて、
「僕は雨男ですね、旅行するときっと雨が降るんですよ。あんたは雨がきらい……?」
すると伊都子は、
「雨はきらいだけど、雨男は好きよ」
「どうして……?」
「だって、雨ぐらい降らせることの出来る男じゃなくっちゃ詰らないわ」
そう言って、伊都子は年に似合わぬがらがらした声で笑ったが、地下鉄の入口まで来ると、急に生真面目な顔になって、
「じゃ、あたし日本橋まで行きますから、ここから……。今夜十時お伺いします」
そう言ったかと思うと、信吉の返辞も待たず、スカートの後ろを気にしながら、階段を降りて行った。
十時にお伺いしますとは、今夜信吉の部屋へ忍び込んで来るという意味だ。新吉はふと伊都子の腋臭のにおいを想い出した。
そして雨に濡れながら、銀座の方へ歩いて行った。
信吉も伊都子も四時半までに行かねばならぬ用事があった。だから、時間を気にしながらあわてて部屋を飛び出して来たのである。
伊都子の用事とは、日本橋の某商事会社でタイプライターを購入すること。信吉の用事は、東京劇場で明日から上演される自作の脚本の総稽古を見ること。その目的で伊都子は九州から、信吉は大阪から、それぞれ上京してたまたま第一ホテルに投宿したのである。
自作の脚本の上演を見るために、わざわざ上京して来たということは、即ち信吉が劇作家としてはまだ新進であるということに外ならない。上演ずれのした大家になると、自作の舞台を見るのも億劫になっている。書斎で描いたイメージが舞台で歪められているのを見ることが、たまらないという理由もあろう。人一倍自尊心の強い信吉はさすがにそれを知っていたから、いそいそと上京して来た自分を内心軽蔑気味であったが、けれどやはり大阪にじっとして居られなかったのは、実はこんどの芝居は信吉にとっては、はじめての上演だったからだ。ありていに言えば、劇団の脚本に当選した脚本なのである。昨日までは全くの無名に過ぎなかったのだ。
もっとも彼はこの上京には口実をつけていた。上演のよろこびに有頂天になって出て来たのではない。その脚本が全部関西弁で書かれていたので、その脚本を上演する「演劇集団」の俳優にそれを教えるという名目である。
「有名な俳優と口を利けるということが、それ程ぞくぞくと嬉しいのか」
そう自嘲しながら、信吉が第四五三号室で眼を覚ましたのは、もう正午過ぎであった。
地下室のグリルで食事を済ませると、信吉は、ロビイへ新聞を取りに行った。
が、新聞は一つもなかった。五人の先客が、それぞれ新聞をひろげて見ていた。なかなか空きそうにない。信吉は苛々して来た。東京劇場の広告が見たかったのである。
信吉は中年の男の傍に腰を掛けて、
「お空きになりましたら、どうぞ」
と言った。
「新聞ですか」
「はあ」
「新聞なんか見てどうするんです?」
「はあ……?」
驚いた。
「新聞なんか見ても詰りませんよ。近頃の新聞は嘘しか書いてないから」
「そりゃ同感ですが、しかしあなたは御覧になっているじゃありませんか」
「僕は記事を読んでいるわけじゃない。暗号を読んでるんだよ」
「え……? 暗号……?」
「この新聞の第二面に鉛筆で印をつけた文字がある。その文字を辿ると……」
にやりと笑った。
「どういうことになるんですか」
「辿るとね、三五二号室という数字と午後三時という数字が出ますね。これは三五二号室へ午後三時に訪問すると、美人が歓迎してくれるという暗号ですよ」
「誰がいってもいいんですか」
「誰がいってもいい。僕でもいい。君でもいい」
「あなたは行く積りですか」
「君はどうですか」
「さあね。スリルはありますね。しかし、あなたとかち合うと拙いですな」
「大丈夫。かち合うことはない」
「どうして……?」
「午後三時には君か僕か、二人のうちのどちらかにきっと故障がはいる」
「あなたは運命論者ですか」
「でなければ、君にこんなことは教えはしないよ。あはは……」
薄気味の悪い声で笑って、
「――さア空きましたよ」
と、信吉に新聞を渡すと、さっさと玄関へ出て行った。
信吉は東京劇場の広告を見た。作者の信吉の名が信三と誤植されていた。その「三」の数字に信吉はどきんとした。
「午後三時……」
時計を見ると、午後二時半である。
「あと半時間だ」
信吉は喫茶室へはいって行った。
空いた椅子へ腰を掛けて、ボーイの来るのを待っていると、信吉の向い側へ部屋の鍵と財布を持った若い娘が一寸頭を下げて坐った。
そこへボーイが来た。
「珈琲!」
信吉が注文すると、娘も、
「ソーダ水!」
信吉の顔は見ずに注文した。
雀斑が多いが、眼元がぱっちりして、下唇が少し出ている。何かソワソワと落ち着きのない容子だった。信吉はふと娘の部屋鍵の番号を見た。四二一号室!
「三五二号室ではない」
呟いたところへ、ボーイが注文したものを持って来たが、信吉の前へソーダ水、娘の前へ珈琲を置いた。
信吉と娘はふと顔を見合せて微笑した。信吉は娘の前へソーダ水を置いた。娘は信吉の前へ珈琲を置いた。
そして暫くお互い黙黙として飲んでいたが、やがて娘は思い切ったように、
「失礼ですが、ここにお泊りになっていらっしゃるんですの」
信吉も鍵をぶら下げていた。
「はあ。あなたもですね」
「はあ。――はじめてホテルへ泊ったので退屈で困っていますの。お部屋にいても詰らないし……」
「外へ出られないんですか」
「日中は暑くて……」
「なるほど……」
信吉はこの退屈している娘を舞台稽古見物に誘おうかと思った。
「夕方なら涼しくなるでしょう。どうです、僕の芝居の稽古を見に行きませんか」
「芝居にお出になりますの」
「いや、役者じゃありません」
「はあ。じゃ脚本を……」
「え、まア」
「あのウ稽古何時頃ですの」
「四時半からです」
「あら残念ですわ。あたし四時半までに日本橋へ行かなくっちゃなりませんの」
「そうですか。じゃ明日の初日を見て下さい。切符とって置きます」
「明日の朝もう発ちますの。残念ですわ」
「そうですか。そりゃ……」
信吉は興冷めしてしまった。
喫茶室は混んでいた。信吉達のテーブルの傍にも、空いた場所を物色している客が立っていた。
信吉は伝票を掴んで立ち上った。娘も同時に立ち上った。娘の方には伝票がなかった。ボーイが二人連れだと思ったのであろう。
信吉は二人の勘定を払った。
「あら、あたしが……」
「いや、面倒ですから一緒に……」
「御馳走さまでした」
信吉がロビイのソファへ行くと、娘も随いて来て並んで坐ったが、いかにもそれが自然に見えたのは、勘定のことがあったからであろう。
ソファへは日が射し込んで来た。娘はしきりにハンカチを使った。
「暑いですね」
「お部屋へ行ってお話しましょうか」
信吉は思わず娘の顔を見た。信吉の方が赧くなった。信吉はあわてて言った。
「涼しいんですか、あなたのお部屋」
「とっても……」
「でも、女の方の部屋へ行くのはどうも……」
「じゃ、あなたのお部屋へ参りますわ」
信吉はふと胸が騒いだ。
「僕の部屋、暑いですよ。しかし、ここよりはましかな」
照れた早口で言って立ち上り、エレヴェーターに乗って、
「四時半までに行かなくちゃならないでしょう?」
信吉は気の弱い声を出した。
「でも、四時半までお話できますわ」
娘は腕時計を見た。三時であった。
「あッ、しまった、三時、三五二号室は到頭あの男にとられてしまったか」
と、信吉は呟いた。
四階で降りて、長い廊下をはなればなれに歩いた。
「ここです。どうぞ」
娘を先に入れて、信吉は扉を閉めたが、さすがに鍵は掛けなかった。
窓口の小さなテーブルへ、お互いの椅子をわざとはなして腰掛けた。
「煙草随分おのみになりますのね」
「一日に百本。――あなたはやらないんですか」
「のみますのよ」
信吉の箱から一本抜き出して、火をつけると、器用に煙の輪をつくった。
「あたし不良でしょう……?」
煙の輪は窓から出て行った。
それを見送っていると、ふと向う側のビルディングのオフィスから、一人の男がじっとこちらを見つめているのが眼にはいった。信吉はその方を指した。
「あら、未成年者喫煙の図を見られちゃった。失礼ね。あの人」
蓮ッ葉に言って、笑ったが、ふと半泣きの顔になると、
「カーテン閉めましょうか」
信吉は黙って立ち上ると、カーテンを引いた。急に部屋の中が暗くなった。
信吉はふと生唾をのみこんだ。椅子へ戻りかけに信吉はつと娘の肩に手を掛けた。娘はじっと動かず眼を閉じた。信吉はいきなりぐいと娘の肩を引いた。娘は立ち上ってぱっと眼をひらいたが、そのまままた眼を閉じると唇を突き出して来た。
二人は唇を合せたまま、ベッドの上に倒れた。
「あ、それだけは堪忍して……」
「どうして……?」
「あたしこんなこと始めてなのよ」
しかし、もだえる動作がかえって体をしびらせたのか、娘はもう信吉のなすがままになっていた。そして、
「後悔しないわ。あなただから後悔しないわ。あなたが好きだから。好きだったら悪いことじゃないわ」
夢中になって叫んでいたが、ふと眼をあげると、
「あたしを笑わない……?」
「笑わない」
「だったらいいわ。――名前きかせて頂戴!」
「須賀信吉……」
「須賀さん! 須賀さん!」
「え、何……?」
「何でもないのよ。ああ、須賀さん――須賀さん!」
と、信吉の名を呼びつづけていた。
やがて、信吉は暗がりの中でマッチをすって、時計を見た。四時であった。灯をつけて、
「出掛けなくっちゃいけない」
娘はベッドの隅へ身をすくめながら、うなずいた。
身支度が済むと、娘の方が先に出て行きかけたが、いきなり振り向くと、唇を突き出した。軽くそれに触れて、二人は部屋を出た。
そして、並んでホテルを出ると、雨であった。……
銀座通を歩きながら、信吉は、
「平凡と言えば平凡だが、平凡でないと言えば平凡でない」
と、呟いた。
ふと「外科手術」という言葉が泛んだ。信吉の表情は歪んだ。
「俺のしたことは外科手術に似ている!」
罪の意識というほどの宗教的な、あるいは道徳的な悔恨はなかったが、しかし感覚的な悔恨はあった。メスを使う医者の残酷さだ。
「――しかし、病気になれば誰だって命を落す危険を侵してまで手術を受けたがるのだ。――あの娘も進んで俺の手術を受けたがっていたのだ。俺はあの女の病気を取り除いてやったのだ」
そう思ふと、気が楽になった。
「――ところであの女の病気とは何だろう……? そうだ、好奇心かも知れないて。それとも倦怠か」
信吉はにやりと笑いながら、尾張町の交叉点の角を築地の方へ折れて行った。