Chapter 1 of 25

Chapter 1

まだあの時のひそかな感動は、消されないでゐます。小正月を控へた残雪の山の急斜面、青い麦の葉生えをそよがしてゐた微風、目ざす夜祭りの村への距離を遠く感じさせる笛の響き、其後幾度とも知れぬほど、私どもの花祭りにあひに出かける心の底には、此記憶がひろがつて居るのです。五年ほど此方、初春にさへなると、三・信・遠、三州の境山へ、ものにおびかれた様になつた訣は、この「花祭り」の作者早川さんが、最よく呑み込んでゐられるはずです。今では、広い東京にも大分、花ぐるひなどゝ砧村の先生に冷笑せられることに、却て満足を感じる人々が殖えて来ました。此は皆、早川さんのきめの濃やかな噂話に魅いられたのです。

昔も、洛中に田楽流行して、狐の業と騒がれた記録があります。花祭りにもさうしたつき物の力が、籠つてゐる様な気がしてなりません。

其最初の聞き出し手であり、今尚、語ること益幽に這入つて来たのは、早川孝太郎さんであります。さうして、其手初めに誘惑せられたのが、実は私でした。花祭りを思ふ毎に、此大和絵かきの懐しい話しぶりを憶ひ浮べずには居られません。私などの花祭りに関する乏しい知識は、隅から隅まで、此人の東道によつて、とりこんだものと言はねばならぬ。其ほどおかげを蒙る事が深い次第を皆様に告げておきたいのです。

花祭りに、「ねぎばな」と「法印ばな」とがあり、其が、設楽の奥山家に、昭和の代にも繰り返されてゐる。さうして、時には、「役花」の願主の招きに応じて、平野近くまでも出て来る。その行儀のうちに、鬼のへんべなるものをふむといふ事があつた。さう言ふ不思議な記憶が、長篠の山口で育つた幼時の印象として残つてゐる、と初中終、早川さんから聞かされてゐたものです。

その頃既に、早川さんは地狂言を研究せられてゐました。さうして私も、芸能史の組織を思うて居た頃でした。其より又四五年前、私もまだ若く、感傷に溺れ易くてゐた頃、信州の南隅、下伊那の旦開村の通りすがりに、新野の伊豆権現の正月、雪祭りの田楽の話を聞いて、又来る時のありさうな気がしてゐました。新野から東三河の東北隅、佐太に越える坂部といふ字では、雪祭りの面一つ、遠州から盗まれて来る途中、弁当をしたゝめた大夫に忘れ残された為、新野祭りの晩には、荒びてならぬといふやうな事も、上の空に聞いて通つた事がありました。

此雪祭り見物の宿願と、その後、早川さんに唆られた花祭り採訪の欲とが、道順によい日どりも続いてゐる事を知つて、もう圧へることが出来なくなつたのでした。大正十二年の正月、前後五日に亘つて、雪祭りの作法と、村人の感情とを凝視しました。本祭りの前日は、一日だけ目だつ行事もなかつた。その日ちようど、三河領豊根村三沢の花が、山坂一つ越えるばかりの牧ノ島といふ字にある、と聞き出して、村の好学者仲藤増蔵さんをたよりに、はじめて、新野峠を越えました。設楽の山村の、寒く霞んだ夕を、静かに見おろした其夜を徹して、翌日昼まで見続けたのが、私にとつて、初めての花祭りの行事でありました。此時のが、早川さんの区画に従ふと、振草川系統・大入川系統とある、其後者の現在での代表と見なしてよい、三沢山内のものでありました。

其頃の三沢の花には、顔の整うた、舞ひぶり優な若い衆が揃うて居ました。三つ舞ひ・湯ばやしなど、若衆の役になつてゐるものは、旅人の私どもにも訣り易く、味ひよかつた、と記憶します。

絵巻物に見る下人の直垂から法被に、さうして、近代のはつぴ・絆天の出て来る道筋の明らかに見える上衣に、山袴をつけた姿は、新しい時代の上に、古い姿の幻を、濃く浮べてゐました。舞ひ処に焚く榾のいぶりに、眼を労し乍ら、翁の語りや、あるかなしの瞳を垂れて歩く巫女上や、幾らとも知れぬ鬼の出現に、驚きつゞけて居りました。これが、ある時代、神遊びの一つとして、広く行はれた時代を思ひ浮べようとする努力感が、心を衝き動かさずには居ませんでした。けれども、一つ/\が、今におき、問題として並んでゐるばかりです。

其ほど複雑な、渦巻き返す夢の様な錯乱と、在所々々で特殊化の甚しくなつた神事芸能とが、其後も常に同行と憑んだ早川さんの手で、此一冊に鮮やかに組織せられたのを見ますと、嫉ましくさへ感じます。

でも、早川さんは、当然酬いられたのです。その後、唯一人の旅人として、村から村へ、木馬の道や、桟道を踏み越え、禰宜からみようど、宿老・老女の居る屋敷と言へば、新百姓の一軒家までも尋ね入つて、重い鈍い口から、答へをむしりとる様な情熱が、組織を生んだのです。もつとえらい事は、秘し隠しにせられた紙魚のすみかになつた伝法書や記録を、ひき出して来られた事であります。

其結果は、我々の知る限りの神楽以外に、ある時代・ある地方から宣布せられた、一種の神楽があつて、其方式や、目的の点に於て、従来学者の定説変改を促す含蓄のあるものゝ存して居た事が、見出されたのであります。

数十百度、此土地の方言どほり、らんごくな山の家に寝返りし、自身は、稗の飯・切りこみ汁に腹の損ふ事に甘んじて、都会の優雅な人士に、栃餅や、茸の胡桃あへなどの珍味を齎して還つて来られた、とでも言ふべきでありませう。

而も早川さんは、最よい指導者と、美しい心の擁護者とを持つてゐられました。前者は、私ども共同の学問の父たる、日本民間伝承学の祖たる柳田先生であり、後者は、志篤い、学問の本宮へ詣る間もない忙しさから、人をして代参の礼を致さしめようとする渋沢敬三さんであります。

柳田先生から受けた方法を守る為に、採訪記の範囲を出ようとせられなかつた。此事は、今の学問のにさい衆、豈夫、能くせむや、と言ひたい。而も、其記録は、結論を言ふと等しいまでに、賢明な配列法をとられてゐます。柳田先生の方法上の一つの理想は、茲に完全な姿を顕したのであります。

渋沢さんは、早川さんの学問を遂げさせる為に、又其記録を公にさせる為に、述べ難いまでの奇特心を発起せられました。さうして、其間に、自身亦、花狂ひの一人と呼ばれるまでの情熱を持つ様になられたのは、世間に名を掲げる金持ち趣味や、檀那かたぎの道楽を超越した、晴れやかな志を示してゐます。

早川さんは、師匠に、擁護者に、得難い人を並べ得ました。だが、今一つ、なくては寂しい学友の、一人として学問の感触を温めてあげる者がない事であります。此は、日本の民俗学が、まだ新らしく、おれが/\の学者に充ちてゐるからだ、と思ひます。私なども、友人でありながら、早川さんの為のよい友人としての誇りは持てない不心切な心で居ます。此後もつと、採訪と実感と論証とに、互ひの励みをつけて行きたい、といふ気になつてゐます。其は、此「花祭」に対する感謝からばかりではありません。此研究の、形をとり出した始めから、早川さんの後について来た久しい歩みの跡をふりかへる事が、りくつゞくめの、中年の同門の盟友としての感情に、止つてゐられなくしたのです。さう言ふ唆られる様な情愛を以て、此本の解説であり、一異見ともなる様な文章を書きました。

私の此文章が、必しも花祭り及び山の神楽の本義を説き得て居ないかも知れません。私自身すら処々、既に転換を欲する固定した考への型に這入つたのもあります。あやふやな点の著しくなつて感じる部分も、可なり悟つてゐます。併し、其も、今日から後の私の為にも、早川さんや私より後の研究者の為にも、みじめな足場位には、役立つだらうと思ひまして、目を瞑つて、大方の前に暴す事としました。

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