改版の序
本書が版を改めて世に出る時を持ちえたについては、並み並みでなく感慨を強いられるものがある。
私は昭和十四年の年末に原稿を書きあげて、翌年一月二十日づけの序をしたためた。そして本書の初版は二月二十日の日附で刊行されている。それは日本的なるものの強調から日本主義にすすみ、林内閣の祭政一致の宣言から国民精神総動員へと急激に傾きつつあった一時期である。その線に沿って思想や研究やの統制は、きおい立つ力で強められていった。学界の一部は幾分自ら進んで自由を狭め、真理の探究を投げ打って、そうした精神統制に挺身追随したように見えたが、中でも国文学界は挙げて時潮に狂奔するもののような疑いさえ蒙った。本書もそうした時期において書かれたものであった。
私も国文学徒と世から呼ばれるような仕事にかかわってきた一人であったにかかわらず、自分では国文学者と一つなみに呼ばれる中へ加えられるには何かそぐわない点を中に感じつづけてきた人間であるだけに、そうした時期の執筆は殊に気骨の折れる仕事であった。そのために不要の所で言葉使いや言い廻し方に絶えず注意したり、率直に言えるはずの事を言わずにしまったりするような結果になった。それは本書を少しも積極的に良くしなかったばかりか、種々の点で悪くしている。その中でも最も根本的な点は、全体としての構想をかなり曖昧にしてしまっている事である。思想表現の点で十分の自由が保証されている今日にあっては、余りにも中庸を得過ぎているに違いない私の構想も、当時思想統制の前衛としての国文学界においては、それが明晰に語られるならば、異端の烙印を蒙るおそれは決して存しないわけではなかった。私は今日この文章を読み直してみて、今少しの明晰さと厳密さとを表現に与える勇気を持ちあわさなかった弱さを思うと共に、当時私が時代精神の圧力に対して抱きつづけた対抗と緊張と恐怖との肉体的感覚や、暗澹たる無力感や、それにもかかわらず働きつづける批評的意識やを思いおこして、自分自身がいとしまれてならないのである。このように些か感傷の痕をとどめた文体は気になる点が多いのだけれども、敢て気のついた誤植をただすほか、一切文章に手を加えないでもとのままに止めた。読者もまた私のそうした愛惜の情を許されるであろう。
ただ一箇所意識して正した所がある。第七節後鳥羽院関係の叙述の終近く、初版には「上皇の風雅であり、遊びであらせられる。しかしまたかくの如く困難な時代には、上皇には上皇の抒情があらせられる」とあった所だけは、この版では今見るように改められている。それは最初の原稿にそうあって、すでにその通り刷り上がっていたのに、当時内務省の検閲において問題になり、どうしても許可にならなかったので、やむを得ず紙型に象眼をして、その頁だけ刷り直したのであった。読者はそのいずれであっても殆ど問題にされないであろうけれども、そうしたどちらでも良いような違いであるだけに、最初の原稿通りにもどして置きたかったにほかならぬ。
以上のようなわけで、本書は厳密な意味において最初の形を些かも変えていないのであるが、その結果、初版が出てから今年までの八年間になされた研究によって修正をほどこしたり追加したりする事が一切出来なくなってしまった。私は特に注意すべき業績についてだけ、ここに列挙して置きたい。
その第一は、第四節西行の処に関している。そこには当時として最もよいと思われるテキストを挙げて置いたが、その後、佐佐木信綱博士・川田順氏・伊藤嘉夫氏・久曾神昇氏による最も完全な『西行全集』(昭和十七年・文明堂)が刊行された。これは西行関係の全集として今までのものと比較することの出来ぬ完全さに達している。
第二に、第四節西行論は全体として今日では些か私の意に満たぬ点の多いものである。これを書いた頃、私はまだ自分としての確定的な西行論を掴んでいなかったからである。その新しい考えの一端は、敗戦後の私の第一作である『西行論』(昭和二十二年・建設社)にまとめられている。それを併せ読まれる好意を有せられるならば、私にとってこの上もない喜びである。
第三に、第六節の『新古今集』撰定論の主旨が、後鳥羽院を中心として撰定の行われたと見る点は、今もその通りで変りはないが、それは今では後鳥羽院宸撰説とでも言うべき説の成立によって、一層決定的なものとなって来ている。それは、戦争中に前篇を出された小島吉雄博士の『新古今和歌集の研究』続篇(昭和二十二年・星野書店)の要旨であって、緻密な考証によって動かしがたい確実性にまで到達し得ている。
第四には、第九節の定家論の所で註の中に紹介した定家歌集を訂正する。定家の後裔冷泉為臣伯爵自ら編纂した『藤原定家全歌集』が、定家七百年遠忌の記念として出版された。それは定家自筆の家集のはじめての覆刻である上に、私の『新古今時代』における「定家家集補遺の研究」の不完全な点を現在知り得る最も確実な資料によって訂正増補された補遺を附してあって、殊に補遺作成のための論考の中に多くの示唆を含んでいる。今日望みうる定家全歌集としてこれ以上のものはしばらく手に入れる事は出来がたいであろう。ついでながら冷泉為臣氏はその後戦争の犠牲となられた。つつしんで哀悼の意をささげたい。
このほかなおいくつかの研究も発表されているが、ごく重要と思われるもの二、三を列挙してほかは割愛しなければならぬ。
今私は北海道の地に来て、札幌の静かで深い秋のけはいの中に沈んでいる。そして多くの友の戦争によって背負った運命の違いについて思いかえしている。そして私は死にもせず、また自分の考や言葉も変える事なく生きて行ける幸を思いつづけている。この北方の都は幸に捨てねばならぬ伝統の桎梏を持たず、緑の樹間に白雲を望む清澄の空気は、壊滅の後の文化再建を考えるにこの上もなく応わしいようである。私はここで本書の自然的発展の結果をまとめる事が出来そうに思う。それまで本書はなおしばらくの間、私の代弁者となっていてくれるであろう。
最後に私は、古書肆の店頭から殆ど姿を消してしまった本書を再び人寰の裡へ呼びかえしてくれられた知友角川源義さんの御厚意に、心からの御礼を申しあげたい。
昭和二十二年九月一日風巻景次郎