Chapter 1 of 14

たしかに一度だけ咲いた

「アイロンをかけてたとき、思いついたの。霧も素敵だなと、私は思いました」

リカが言った。

「霧もいいですね」

ハチミがなかば叫んだ。人の意見に賛成するとき、いつも彼女はなかば叫ぶ。彼女の名は初美という。はつみ、と読む。しかし、クラスの仲の良い仲間たちは誰もが、彼女をハチミと呼んでいた。

「でも」

ナナエがハチミとリカのふたりに言った。

「小さな霧吹きで、しゅっしゅっと、二度や三度吹いたくらいでは、リカはなくならないでしょう」

「そうね」

「大きな霧吹きを使うのです」

「誰が吹いてくれるの?」

「それが問題ですね」

「どこか広い場所で、私の全部が、いっきに霧になるの」

「それなら素敵」

「赤い霧」

リカが言った。

「赤がいいの?」

「すこし寒いような日で、空は曇っていて、しーんとして静かなのね。町ではなくて、どこか遠いところ。山のなかというわけでもないけれど、高原の奥のほうで、いったん峠のように高くなって、そこからすこし低くなった場所。見とおしのいい、広い場所」

「素敵です」

「高い崖みたいなところから、私は身を投げるの。すうっと落ちていく途中、自分の意志によるタイミングで、ぱっと霧になれるの。まっ赤な霧」

「誰も見てないの?」

「見てて。ハチミとナナエとトモには、絶対に見ててほしい」

「見ます。手袋をして、イア・マフをかけて」

「あ、可愛い。そいうの、トモにぴったり」

「ダッフル・コートを着て」

「そう、そう」

「リカは赤い霧になるのね。風が吹いて来て、その赤い霧が、さあっと空中を流れるのね」

「そうよ。でも、すぐに空間にのみこまれて、見えなくなってしまうの。私はそれで終わり」

リカがしめくくった。

「完全に見えなくなるまで、見ててあげます。安心してて。でも、見えなくなったら、悲しいな」

「写真に撮っておけばいいかしら」

「そうね」

「写真ですか」

「曇った空に、赤い霧がさあっと流れてるの。ほかの人が見ても、なんのことだかわからないわ」

「書いておいて。その写真の下に。私の名前を」

「リカは霧と消えた」

トモが言った。

「それがいい」

「赤い霧の午後、私たちはリカを見送りました」

ナナエが言った。

「それもいいね」

リカはうれしそうだった。

「赤霧リカの最後」

ハチミが言った。そして四人の少女たちは、はじけるようにいっせいに笑った。

「それが最高」

リカと呼ばれている彼女の名は、赤桐里花という。

「自分の名前から思いついたことなのかしら、霧になって死にたいというのは」

トモがリカにきいた。

リカは力をこめて首を振った。

「そんなことないのよ。人の言った冗談がやっとわかったみたいに、いま初めて自分でも気がついたの」

ほかの三人が楽しく笑った。

「ということは、リカは語呂あわせで死んでしまうのね」

ナナエが言った。

「悪くないよ」

「いいね。こういう洒落は、仲間のほかは、誰にもわからないから」

「TVの天気予報で言ってくれるといいな。なお本日、関東甲信越地方のとある一角で、午後三時十五分頃、赤い霧がさっと流れて消えるという、不思議な現象がありました」

「それは賛成」

「霧の色は赤なのね」

トモの質問に、

「リカには赤がいちばん似合う色だから」

とハチミが答えた。

掘りごたつのテーブルをはさんで、ナナエのむかい側にハチミがいた。ハチミからふと視線をはずして窓を見たナナエは、窓の外に降りはじめている雪を見た。

「あ、雪」

ほかの三人が窓をふりかえった。

「ほんとだ」

「降ってますね」

「積もるといい」

「大雪」

「そう!」

「学校、休み」

「明日は日曜だよ」

「だから、月曜まで降り続け」

「それなら積もるね」

「雪もいいな。死んだ私は、雪になるの。雪になって空から降って来て、どこかに積もって、太陽が出て来て溶けて流れて、あるいは蒸発して、それで私はおしまい」

「いいね。海に降ると、もっといい」

「山の奥に半年ほど積もってるのも、悪くないわ」

「冬に降って、夏になってもまだすこしあるの」

「会いにいけるわね、みんなで。手ですくってあげて、指先で触れて、ハチミ、ハチミと、名を呼んであげる」

「いいわ、それ。でも私は雪だから、返事は出来ないね」

ハチミが言った。

「丸めて球にして、みんなで雪合戦をしましょう」

「当たるとハチミのほうが痛いよ」

ハチミの自宅の二階にある五つの部屋のうちのひとつに、この四人の少女たちはいた。畳敷きの十畳の部屋だ。まんなかに掘りごたつがあり、彼女たちはこたつに入っていた。おなじクラスの仲の良いグループだ。四人とも十四歳だ。

「雪に色はつかないのかしら?」

トモがハチミにきいた。

ハチミは首を振った。

「色はつきません」

「どの雪がハチミなのか、わからないわ。どうしましょう」

「いいのよ、わからなくても」

「どれがハチミかしらと、私たちは捜すのに苦労するね、きっと」

「これだと思えば、それが私なのよ」

「降る場所をきめておいて」

「それは便利でいいね」

「みんなの家の庭に降ろう」

「時間をきめておかないと」

「そうだね」

「その時間に雪が降るのを、私たちは待ってるのね?」

多少の不満の気持ちをこめて、ナナエが言った。

「そうねえ。そういうことになるかしら」

「時間はきめないでほしいわ。朝、目が覚めたら雪が降っていて、どれがハチミかなと思いつつ、夜になってもまだ降っていて、ハチミはもう降ったかなと思いながら、私は眠りたいから」

「雪の結晶ひとつ、というのはどう」

「雪のひとひら」

「きれいね」

「平凡に美しい」

「結晶って、小さいでしょう」

「そうね」

「降りかたが難しい」

「そうね」

「花のなかに降ります」

ハチミが言い、ほかの三人はそれぞれに声を上げた。

「それはあまり感心しない」

「出来すぎよ。絵になりすぎ。イメージ先行」

「駄目か」

「それに、花は気持ち悪いです」

「花が不気味なときって、確かにあるからね」

「私の家の庭にある池に降るといいかもしれない」

「鯉がいますね」

「池の水の上に、雪の結晶がひとつ、はらりと落ちてそれでおしまい」

ハチミの言葉にナナエは首をかしげた。リカは、

「なるほど」

と言い、ナナエは首を振った。

「陳腐よ」

「そうかしら」

今日、冬の土曜日の午後、いっしょに勉強をするという理由をつけて、四人は集まった。二階でこたつに入るとすぐに、ハチミの母親が汁粉を持って来た。甘さを上品におさえた、よく出来た汁粉だった。

それを食べ、食器を階下へ持っていき、そのあと四人は話を続けた。勉強はまだ始まっていない。本当に勉強するつもりは、四人のなかの誰にもなかった。

四人は死ぬことについて話をしていた。どんなふうに死ぬともっともきれいで気分がいいかという話題は、この四人が好む話題のひとつだ。

自分にとってもっとも望ましい死にかたに関して、四人はそれぞれにイメージを作っては、それを仲間のまえで披露する。批判や賛成を受け、おかしいアイディアには心から笑い、さまざまな修正を加えては、次々にヴァリエーションを生み出していく。ヴァリエーションもアイディアも、そしてもとになるイメージも、つきることはなかった。

「ナナエの死にかたをまだ聞いてませんね」

リカに催促されて、ナナエはほかの三人を順番に見た。

「これまでに出したアイディアは、みんな取り消します」

と、ナナエは言った。

「いいアイディアがいくつもあったのに、みんな取り消してしまうの?」

「残念」

「取り消し。なぜかというと、やはり問題は血なのよ。さっきリカが言ったように、赤い霧になるというアイディアも、血がどこへ消えるべきかについての、ひとつのアイディアだと私は思います」

「血というものは大変だからね」

「大量にあるし」

「とにかく血がなくなるといいなと思って、そればかり考えてたら、いいこと思いついたの。血を湖に吸い取ってもらいます」

「血と湖」

「あるいは、湖と血」

「説明して」

「あのね」

テーブルの上数センチの空間を、ナナエは両方の掌で平らにならした。

「季節は五月。よく晴れた美しい日の午後。どこか高原のなかの、さほど大きくない、しかも人のまったくいない静かな湖のまんなかへ、私はボートで出ていきます。湖のまんなかまで来たら、ボートをとめ、ボートの上であおむけに寝て、空を眺めるの。一時間ほどそうしていて、空や湖とうまく気持ちがひとつになったら、剃刀で左の手首を切り、湖のなかにつけます。そのまま空を見ていれば、血は湖のなかに吸いこまれていき、私はやがて気を失い、血はなおも流れ、限度を超えて流れ出てしまうと、そのときはすでに私は死んでます」

ほかの三人が拍手をした。

「きれい!」

「すごいっ!」

「立体的ですね。ナナエにぴったり」

「血が大量に出てしまうと、色は白くなって、顔なんかほっそりしてしまうのですって。最高。ひきしまって青白くなって、私はもうどこにもいません」

「ボートに乗ったままなの?」

「リカとハチミとトモが、桟橋から別のボートで来てくれて、私のボートを桟橋まで引いていってくれます。そして私を岸に上げて、あとは霊柩車に乗せてくれれば、それでおしまい」

「最後まできちんと出来てるね」

「無理がないわ。まったくの空想ではないし、現実にあり得ることだから。いいよ、ナナエ。それ、たいへんいい」

「その湖は、いくらなんでも、急にはなくならないでしょう。私に会いたくなったら、湖まで来てください」

「その湖で泳いでしまいます」

「くすぐってあげましょう」

みんなが笑った。

「最高ですね」

「とてもいい」

「だから私は、これにきめました。絶対に、いま言ったとおりに、私は死にます。これ以外は、いまのところ、絶対に嫌です」

いかに死ぬといいかについて好んで語り合う四人は、早死にしたいという希望において一致していた。中学に入るまえから、この四人は自分たちの早い死とそのかたちについて、何度も語り合って来た。ハチミは、ほかの三人への年賀状に書いた自分の名前のあとに、『早く死に隊のメンバー』などと書いたりする。

「この願いをかなえたい」

せつなく、ナナエが言った。

「いつも思ってれば、かなえられるよ」

「赤い霧になるのはちょっと大変ですけど、いまのナナエのアイディアなら、実現性があります」

「だいじょうぶよ、ナナエ」

「かなえてね」

「どの人の願いも、すべてかなうといい」

「早く死にたい」

「私も」

「みんなそう思っています」

「死にましょう」

「いなくなりましょう」

「最高です」

この四人がここでともにおこなう予定だった勉強は、小論文の宿題だ。『私の将来の希望』というタイトルで、四百字詰めの原稿用紙七枚に、文章を書く。十二月二十三日から彼女たちの学校では冬休みが始まる。それまでに提出する宿題だ。

どのようなかたちで早死にするといいかについて、彼女たちは語り合い、好きなだけ笑った。そしてそのあと、それぞれにノートブックを取り出し、なにも書いてないページを開き、宿題の小論文について考えた。

四人に共通した将来の希望は、自分が思い描き、親しい仲間たちから賛同を得たかたちでの、きれいな早死にをすることだった。

「でも、これは書けないね」

「先生は喜ばないです」

「四人そろって早死にする希望について書いたら、父母は呼び出しをくうにきまってる」

「手紙が来ます」

「そして私たちは、お説教されるね」

「とても退屈なことを書いたら、逆にほめられるかなと思います」

「退屈な希望を四つ、みんなで考えましょうよ。誰がどれを書くか、あみだくじできめませんか」

将来の退屈な希望に関して、四人はアイディアを出していった。ノートブックに落書きのようなメモをとりながら、いくつもの候補について語り合い、笑い、一時間以上かけて四つにしぼりこんだ。ナナエが自分のノートにあみだくじを書き、四人はそれぞれにくじを引き、なにについて書くかきめた。

冬休みがすぐに来た。十二月最後の一週間はたちまち過ぎ去り、大晦日があって正月となった。そしてナナエが死んだ。

ナナエの家では、今年の正月はホテルで過ごすことになっていた。大晦日から四日まで都心のホテルに泊まる。スイートをふたつ借りる。ひとつは両親が使う。そしてもうひとつには、ナナエの姉とナナエ、そして弟の三人が泊まった。姉とナナエは、ベッド・ルームにふたつならんだベッドを使い、弟は居間の片隅に置いてもらったエクストラ・ベッドに寝た。

大晦日には父親は不在だった。会社の仕事で十二月の初めから彼は外国へ出ていた。一月一日の午後に帰国し、空港からまっすぐそのホテルへ来ることになっていた。だから大晦日は父親なしでひとつのスイートに集まり、四人でTVを見て過ごした。

元旦の朝、九時三十分に、彼ら四人はルーム・サーヴィスで朝食をとった。正月の特別メニューがあり、そのなかから彼らは元旦雑煮定食というものを選んだ。柔らかくてまっ白で、ひどく粘りのある奇妙な餅が、雑煮に入っていた。とろけているようでいてうまく噛み切ることのできない、食べにくい餅だった。その餅をナナエは喉につめた。

食事用の長方形のテーブルの片隅で、四人はむかい合ってすわり、それぞれに雑煮を食べていた。突然、ナナエが椅子を立った。言葉にならない声を喉の奥で発しながらナナエは椅子のかたわらに立ち、飛びはねるように一回転した。両手で胸を叩き、天井を仰ぎ、体を深く二つに折って頭を垂れた。

母親と姉、そして弟が、不思議なものを見る目でナナエを見た。ナナエはテーブルを離れ、無秩序に走りまわった。顔から血の気が引き、まっ青だった。完璧にパニックを起こした人の目で、ナナエはテーブルの三人を見た。ナナエの胸の中で妙な音がしていた。

母親が、さすがにまっ先に事態に気づいた。椅子を立ってテーブルの端をまわり、ナナエに駈け寄った。母親はナナエの肩をつかもうとした。

その手を逃げるかのように、ナナエはフロアに崩れた。

「なにやってるの?」

高校生の姉が冷たく言った。弟は無表情に雑煮を食べていた。

「菜菜絵!」

母親が叫んだ。

フロアに倒れたナナエは、呼吸が出来ないまま七転八倒していた。苦しまぎれに反射的に体を動かしていた。その動きは正常な脈絡を完全に欠いた動きだった。

そのナナエを、母親は抑えこんだ。片手で娘の背中を叩いた。

「菜菜絵! 吐きなさい!」

母親は叫んだ。

転げまわり、のけぞり、虚空をつかんで必死に目をむくナナエの顔は、いまはそのぜんたいが不気味に濃い赤だった。

「美奈ちゃん!」

母親が鋭く姉を呼んだ。

「なによ」

「電話して!」

「なぜ?」

「ホテルの医者」

「医者?」

「早くしなさい、美奈!」

母親の剣幕に、姉はのっそりと椅子を立った。フロアを転げまわる妹を、彼女はのび上がってテーブルごしに見た。

「美奈子!」

「わかったわよ。どこに電話するの?」

しゃがんでいた母親は立ち上がった。ソファにむけて彼女は走った。ソファのむこうの丸いテーブルに電話機が置いてあった。受話器を取った母親は、フロントの番号を押した。

スイートのフロアを受け持っている人が駈けつけたのは、それから四分後だった。そのとき母親はナナエを逆さにしてかかえ、かかえた娘とともに飛び跳ねながら、片手でナナエの背中を必死に叩いていた。ナナエはほとんど動いていなかった。

救急車が呼ばれ、出動し、正月の町を走り、ホテルに到着した。スイートのフロアまで救急隊員が上がって来たとき、ナナエは絶命していた。

午後の二時三十分に、父親はホテルに到着した。フロント・デスクの手落ちでメッセージは伝わらないまま、彼はスイートのフロアへ上がっていった。

どちらのスイートのドアもロックされていた。いくらチャイムのボタンを押しても、誰も出てこなかった。廊下のハウス・フォーンで、父親はフロント・デスクに電話をかけた。自分宛てにメッセージがあるかどうか、彼はきいてみた。メッセージを彼はそのとき受け取った。

ハチミとトモは、正月の休みのあいだ外国に出ていて留守だった。だからもっとも親しい三人の仲間のうち、リカだけがナナエの葬儀に参列した。最初から最後まで彼女は泣いていた。

ハチミとトモが外国から帰って、三人は集まった。

「嘘です、それは絶対に嘘」

ナナエが死んだということを、ハチミは信じなかった。ホテルで食べた正月の雑煮の餅を喉に詰まらせた、という直接の死因をリカからきかされて、ハチミは笑っていた。

「まさか。それは昔のお笑い番組のギャグですよ。おじさんのコメディアンがやるギャグです」

「ほんとだと、この私が言ってるじゃないですか」

「信じませんね」

「ナナエちゃんいますか、などと自宅に電話をしたら駄目よ」

「なぜ?」

「ナナエはいないのですから。お母さんは悲しみます」

「さっき私は電話をしたよ」

ハチミはそう言い、リカとトモは悲鳴を上げた。トモは両手で顔を覆っていた。

「誰も出なかった」

「なぜ電話をしたの」

「おみやげがあるから。ナナエに頼まれたもの」

「なになの?」

「化粧品」

「ナナエは、もうどこにもいないのよ」

「嘘だね」

「初七日が三日まえで、私はお墓へもいって来たのだから」

リカがハチミとトモに言った。

「ほんとなの?」

「立派なお墓。私だったら辞退するようなお墓でした。ぴかぴかしてました。無表情な字が深く彫ってあって。悲しいです」

ハチミとトモはしばらく黙っていた。

「お墓へいってみましょう」

黙っているふたりの友人に、リカが言った。

「電車で一時間。そしてそこからバスに乗ります。バスに乗っている時間は十五分くらいでした」

「餅が喉に詰まったのですって?」

ハチミの質問に、リカはうなずいた。

「そんなの、ないよ」

「私だって、困りました。泣きました。可哀そうだもの、そんな死にかた」

「赤い霧になって、空中で消えてしまうのではなかったかしら」

「それは私」

「あ、そうでした。ナナエは湖ね。湖の上にボートを受かべ、手首を切って湖のなかに入れ、そのまま死んでしまうというのがナナエの望みだったはず」

「こともあろうに、餅ですよ、餅。正月の雑煮を、ホテルのスイートで家族といっしょに食べているときに」

「なんと可哀そう」

「ナナエがイメージしていた死にかたとは、まったくちがいます」

「大変だわ」

「困ったね」

「とにかくお墓を見るといいのよ」

「いってみましょうか」

「いまからいけば、夕方には帰って来ることが出来ます」

「いきましょう」

「ショックですねえ。餅は、大ショックです」

「本当のことなのよ。もうどこへいってもナナエは見かけないし、葬儀にはたくさんの人が来て、陰気で大変だったし、お母さんは泣いていました。お父さんはまっ青です。お姉さんと弟が、黒い服を着て神妙な顔をしてました。あれがお芝居ということはまずないですから、ナナエは本当に死んだのね。墓もあることだし」

「その墓を見にいきましょう」

一月のよく晴れた、風に冷たさのある日だった。三人は歩いて駅までいき、電車に乗った。途中で急行に乗り換えた。西へむかって一時間、その急行に乗っていた。

どこの田舎へ来たのだろうか、と誰もが思うような駅で三人は降りた。午後の閑散とした駅を出てくると、タクシー乗り場とバス・ターミナル、そして噴水の広場があった。噴水が平凡に水を噴き上げ、一月の薄い陽ざしがそれを照らしていた。

「お墓へいくバスは、あれです」

ターミナルのむこうの端を、リカが示した。風はここのほうが強かった。ダッフル・コートのフードをハチミは両手で押さえ、リカは髪を風になびかせながらダウン・ジャケットの襟のなかに首をすくめていた。

人のいない広場を、バス・ターミナルのむこうの端にむけて、三人は横切っていった。噴水のかたわらを歩いた。噴き上げられた水が地面に落ちて来るときの音が、風にからめ取られて三人の後方へ飛んでいった。

バスには乗客がまばらに乗っていた。いちばんうしろの席に、三人はならんですわった。やがて運転手がどこからともなくあらわれ、運転席に入った。ドアが閉じ、エンジンが始動し、バスは平凡に発車した。停車する停留所名を、録音テープ合成音声が順番に告げた。

「霊園前、というところで降ります」

リカが言った。

「十番目くらいでしたね」

「八っつめの停留所。実際には、前ではないのね。下。坂道を登っていくから」

バス・ルートは国道に沿っていた。停留所ひとつごとに、周囲の景色のなかから民家が少なくなっていった。両側に畑がせまり、雑木林の丘がつらなりはじめた。そして低い山なみが前方に見えてきた。

「あの山よ」

リカが指さした。

「あんなとこなの?」

「ナナエは嫌がってるはずだ」

「きっと」

霊園前という停留所で三人はバスを降りた。降りたのは彼女たちだけだった。乗る人はいなかった。

停留所の標識に取りつけてある時刻表を、三人は見た。

「一時間あとね」

「それに乗ればいい」

「お墓まで、どのくらい?」

「歩いて十五分」

「いきましょう」

冷たい風と澄んだ陽ざしのなかを、三人は歩いた。坂道を上り、霊園のゲートを入った。山裾のスロープが何段にも造成してあり、どの段にも墓がびっしりと並んでいた。段ごとに名称がつけてあり、列の番号が表示版に書いてあった。

「迷うとわからなくなるのよ」

「ナナエはどこにいるの?」

「ヒナギクの段」

リカの返事に、ハチミとトモは笑った。

「笑うしかないですね」

「そうです」

「ナナエが聞いたら、きっと怒ります」

「ヒナギクは嫌い、と言って」

そのヒナギクの段に三人は到達した。段のなかへ入っていき、何とおりかある経路を奥へ向かった。

「大きいお墓ばかりね」

「まわりに合わせると、そうなるのでしょう」

「どれもみなよく似てます」

「区別がつかないね」

「みんな死んだ人ばかりなのかしら」

ひときわ大きな墓の前に、リカが立ちどまった。

「ここです」

彼女が言った。

ハチミとトモも立ちどまり、リカが片手で示す墓にむきなおった。三人は無言でその墓を見た。黒みを帯びた荘厳な色調の、大理石の墓だった。高さは彼女たちの身長を超えていた。さえぎるもののない陽ざしを、墓の正面と左の側面が、冷たく反射させていた。

何段にもなった凝った台の上に、墓石は重く大きく乗っていた。線香を立てるところには、淡い色の灰が線香のかたちのままに、大量に残っていた。まだ枯れきってはいない花が、花立てに豊富にあった。

「最近、誰か来たのね」

「家族でしょう」

「ほんとにナナエはもういないの?」

トモがリカにきいた。白い小さな顎の先を、リカは指先でこねまわしていた。

「いません」

「どうして?」

「死んだからよ」

「望んでいた死にかたとは、まったくちがうのに」

「だからナナエは可愛そう」

「ほんとですね」

「死ぬのは五月だったはずなのに」

「五月のきれいに晴れた日。湖の上で」

「かなわなかったのね、ナナエの願いは」

「かなえてあげたい」

「ナナエはこの中にいるの?」

「台の下。空洞になってるところがあって、そこに灰を入れた壺が置いてあるの」

「ひとりぼっち?」

「そうですよ」

「いつもここにいるの?」

ハチミの質問にリカはうなずいた。

「いつも、ここです。ここしかありません」

「毎日?」

「そうね」

「おなじ景色を見てるの?」

雛段になった墓地の一角から、霊園のぜんたいをトモは眺めわたした。

「毎日、いつも」

「ナナエ、そこから出て来て」

ハチミが泣き声で言った。

「四人いないと、寂しいです」

トモがそう言い、リカは泣きはじめた。

「ナナエ。私たちに話をして」

「いつもみたいに」

「ナナエ」

「出て来てください」

墓の前で三人はしばらく泣いていた。晴れた空から冬の風が吹き、陽ざしの角度が深くなった。夕方にむけて、気温がすこしずつ低くなり始めていた。

泣き終わって、三人は墓の前を離れた。段の出入り口にむけて歩いていき、ところどころに階段の作ってある道を下っていった。三人はどちらかと言えば小柄な、よく似た雰囲気の十四歳の少女だ。トモのソックスは赤、ハチミのソックスは黒、そしてリカのソックスはグリーンだった。どれにも淡い陽ざしが斜めに当たった。

霊園のなかの坂道を下り、バスの停留所まで三人は歩いた。標識のかたわらで十数分待ち、時間どおりに来たバスに乗った。バスには乗客がひとりいるだけだった。電車の駅が終点だった。そこでバスを降り、駅に入って急行に乗った。

一月が終わった。二月になった。そして梅の花が咲き、それと前後して、学年末の試験があった。学校は休みになり、新しい学年がやがて始まった。少女たちは進級した。ひとつ上の学年になった。桜の花がすぐに散った。

ナナエの突然の死から、三か月以上が経過した。その三か月以上のあいだに、ハチミとトモそしてリカの三人は、ナナエの死にかたに関して、ことあるごとに語り合った。そしてひとつの結論に到達した。

ナナエの死にかたは、彼女が望んでいた死にかたとはまるで異なっている。だからナナエは可愛そうだ。出来ることならナナエの死をやりなおさせてあげたい。という結論だ。

「ナナエが願っていたとおりに、やりなおさせてあげたいですね」

「成仏してないわ、きっと」

「ナナエはあのお墓にいないの?」

「おそらく」

「どこにいるの?」

「さまよってます」

「どこを?」

「どこか暗いところを。ひとりで」

「泣いてますか?」

トモの質問にリカは首をかしげた。そしてうなずき、

「ときどき」

と答えた。

「ほんとに、やりなおしさせてあげたいです」

「でも、生き返ることは無理でしょう」

「どうしたらいいかしら。ほんと可愛そうです。こういうとき、どうしたらいいの?」

「もうじき五月なのね」

「でもナナエは、今年の五月に死にたいと言っていたわけではないのよ」

「やりなおさせてあげるなら、出来るだけ早いほうがいいよ」

「そうね」

「五月のよく晴れた、きれいで静かな日。ナナエが望んでいたとおり、湖の上で」

「ボートの上にあおむけに横たわって、青い空を見ながら」

「素敵ですね」

「餅はないですよ、絶対にやめてほしいわ。いまごろナナエは、顔をまっ赤にして、嫌だ、嫌だ、と言ってます」

「ああ、どうしたらいいの」

「困ったね」

「こんなに困ったことは、私、これまでに一度もなかった」

「私も」

「知恵をしぼるべきよ」

「私たちが」

「そう。私たち三人。ここで知恵をしぼってナナエを助けてあげられなかったなら、仲良しだった意味がないです」

このような会話を何度となく重ねたあげく、三人はついにひとつの名案を手にした。三人の誰もが名案だと信じた。だからそれは最高の名案だ。

「身代わり」

最初にそう言ったのは、ハチミだった。

「そう!」

リカが賛成した。

「あ、わかりました!」

トモが叫んだ。

「私たち三人のうちの誰かが、ナナエの身代わりになって、ナナエが望んでいたとおりに、死になおしてあげます。気持ちを集中させてナナエになりきれば、ナナエはいっしょについて来てくれます」

「そのとおり!」

「ナナエが望んでいたとおりに、身代わりの人がナナエになりきって、死んでみせてあげます」

「素敵」

「ナナエは喜びます」

「五月のある日」

「もうすぐだ」

「梅雨になる前、ということね。梅雨のあとに来るはずの夏を感じさせるけれど、春の感触もまだ充分に残した、さわやかな美しい日です」

「そのとおり」

「ナナエは待ってます」

「絶対、待ってるわ」

「このままでは、ナナエはあまりにも可愛そう」

「私もそう思います」

「身代わりになって、ナナエが望んでいたとおりに死んであげて、その人がナナエを連れて天国へいくのね」

「そのとおりよ」

「それは素敵なアイディア」

「なぜいままで、これを思いつかなかったのかしら」

「ナナエは待っています」

「きっとそうだと、私も思う」

「五月のある日」

「ということは、もうあまり時間はないね」

「準備をしましょう」

「湖を探す」

「ナナエが言っていたような湖」

「ナナエが言った言葉を、私はよく覚えています。どこか高原のなかの、さほど大きくない、まわりに人のいない静かな湖」

「低い山で囲まれているのね」

「そしてその山のスロープに生えている林が、そのまま湖の水面に接しているような」

「よく写真で見るね」

「探しましょう」

「方向としては、どちらかしら」

「北だよ。東北のほう」

「そうね。信州」

「そうです」

「観光案内を見るといいのかしら。日本全国の湖の、画像によるインデックスがあるといいな」

「きっとあります」

「画像で探していくのよ」

「あるはずだ」

「では、手分けしましょう。私は画像のインデックスを探します。トモは本で探して。リカは人づてに捜してみて」

ふさわしい湖を探すことに関して、三人の意見は以上のようにたやすくまとまった。

「ボートで湖の上へ出ていくのよ」

トモが言った。

「ボートがなくてはいけない」

「ということはまず、桟橋でしょう」

「そうね」

「その湖の岸のどこかに、桟橋が必要です。そしてボートも」

「貸しボート屋さんがある湖は、人がたくさんいるはずだから、だからそういうところではナナエが望んでいたような雰囲気は望めないわね」

「夏の観光シーズンのまえだから、人のことはそんなに心配しなくてもいいのではないかしら。まわりになにもない、小さな湖を探せばいいのよ。周囲が観光的に開発されていなくて、道路からはずれた場所にあり、アクセスが限定されていて、観光の人たちは車でどんどんとおり過ぎてしまうような」

「あるはずだ」

「まだ残ってると思います。ひとつくらいは」

そう言ってハチミは楽しそうに笑った。

「身代わりの人をきめるのは、いつにしましょうか」

「当日、湖のほとりで」

「それがいい!」

叫ぶように、リカが言った。

「誰が身代わりになるのか、そのときまで、わからない」

「いいわ、とても素敵です」

「湖のほとりできめましょう」

「ふさわしい湖がみつかったら、一度はそこへいってみなければいけないね」

「現場はよく観察しておく必要がある。ナナエのためだから、慎重に」

「雰囲気を壊すものがないかどうか、よく調べておかないといけない」

「では、今日、いまから、みんなで湖を探しましょう」

ナナエが自分の死に場所として希望していたような湖を探す作業を、その日から三人は開始した。そして一週間後には、ひとつの成果があった。

画像によるインデックスで、ハチミは三つの候補を拾い上げてきた。三つの湖をTVモニターに写し出しながら、それをカラー・プリントしたものを、彼女はほかのふたりに見せた。どの湖も、ナナエが望んでいた湖のイメージに、すくなくとも画像の上では適合していた。

トモは観光用のガイド・ブックのなかから、普通の観光客はほとんどいくことのない、観光ルートからはずれた場所にある、しかも山に囲まれた静かで小さな湖に関する記述のある部分を、四個所みつけてきた。そのコピーを、トモはほかのふたりに見せた。

リカは友人から手がかりをひとつ得ていた。探している湖とぴったり重なり合うイメージの湖が、かつて自分が読んだ小説のなかにあったとその友人は言い、その小説から湖が描写されている部分をコピーしてリカに提供してくれた。それをリカはハチミとトモに読んでもらった。

「これです。ぴったり。これ以上は望めないわ」

ハチミが感心してそう言った。

「ほんとうにこのとおりなら、素敵ね。こんな湖が現実にあるのかしら」

トモがふたりにきいた。

リカは次のように説明した。

「友人は、その小説を書いた小説家に、電話できいてくれたの。この湖は実在するのですかと友人がきいたら、実在します、と小説家は答えたのですって。小説家がその湖を実際に見たのは、いまから六年ほど前なのですって。当時のとおりに描写したら、こんなふうになるのですって。現実のままを僕は書きました、と小説家は答えたのだと、その友人は言っていたわ。湖の名前も教えてもらったの。そしてその名前は、ハチミが持ってきたカラー・プリントのなかにあるし、トモがガイド・ブックからみつけてきた湖のなかにも、入っているの」

三人は抱き合って喜んだ。

「ではこの湖にしましょう」

「見て来なくてはいけないね」

「桟橋まであるんだよ。このとおりの桟橋が、いまでもあるのかしら」

「小説家が見たときには、かなり古いけれどもまだ充分に人が歩けるような桟橋だったそうよ」

「いまはもう、朽ちているかもしれない」

「ここに書いてあるとおり、ほんとにボートが舫ってあるの?」

「どうかしら。とにかく、いってみましょう。桟橋はほんのすこしでも残っていれば、充分に役に立つと思うから」

「ここへ、三人でいってみましょう」

その週の日曜日、三人は朝早くに出発し、その湖までいってみた。特急で乗り換えなしに湖に最も近い駅までいき、そこからは別の電車あるいはバス、どちらでもよかった。電車なら高原のふもとからバスに乗りなおす。バスなら、その湖がある高原を抜けていくルートを走る。湖の近くにあるバス停留所を降りると、湖まで普通に歩いて十五分だった。

四月なかば、快晴の日の正午過ぎに、三人の少女たちは高原を越えていくバスをそこで降りた。峠には明るく陽がさし、その陽ざしのなかを、三人は地図を見ながら歩いた。

「バスの停留所から湖まで、普通に歩いて十五分ですって」

観光ガイドのコピーを見ながら、トモが言った。

「バス停留所から湖へ下りていく小径の入口まで、十分。そして、小径の入口から湖まで、これは下り坂で五分。そう書いてあるわ」

小径への入口までの十分は、そのぜんたいがゆるやかな登り坂だった。傾斜はゆるやかなのだが、いつも都会のなかにいる三人の少女たちは、たちまち、そして一様に、脚の疲労を強く覚えた。脚は急に重くなり、筋肉は自分が思ったとおりには動かなくなった。目には見えないほどの登り傾斜が、おかしてく笑ってしまうほどにつらかった。

「うわあ、大変」

「脚が動かないです」

「どうしましょう」

「階段とはちがったつらさなのね」

「なんだか不思議な感じ」

「押してあげる」

トモはハチミの背中に両手を当てた。頭を垂れ、ハチミの背を押しはじめた。

「引っぱってあげましょう」

リカがハチミの片手を取り、先頭を歩いた。

体を前へ傾けたハチミは、膝に手を当て、一歩ごとに力をこめて自分の膝を押していた。

途中で一度、彼女たちは路面にすわって休んだ。

「あとどのくらい、あるのかしら?」

「時間にして、ここがちょうど半分」

「ほんの五分なのに、こんなに疲れるの?」

「おかしいですね」

「登り坂のせいだ」

「ほとんど登ってないのに」

「でも、傾斜していることは確かだよ」

うしろから押したり前から手を引き合ったりして、三人は残りの五分を歩いた。

「小さな標識があるのですって」

トモの言葉に、リカが前方を指さした。

「あれでしょう」

「標識だね」

「あそこが、小径への入口です」

標識のかたわらに、やがて三人は立った。湖の名前と湖面標高の数字が、その小さな標識に書いてあった。

「いきましょう。こちら」

路線バスの走る峠道から、三人はわき道へ入っていった。すぐに下り坂になった。下りの傾斜はかなり急だった。蛇行している小径を下りていくと、樹々のあいだから湖が見えはじめた。

「見えた。静かな湖だ」

「素敵」

「なんだか玩具みたい」

「水の色はブルーなのね。グリーンかと思ってたけど」

小径を下りきって、三人は湖のほとりに出た。湖の縁に立ち、彼女たちは湖を観察した。

「どうかしら」

「素敵だ」

「ぴったりだ」

「ナナエが言っていたのと、そっくりおなじような湖」

「ひょっとしたらナナエは、この湖を知っていたのかしら」

トモの発言に、ほかのふたりは首をかしげた。

「知らないでしょう」

リカが言い、

「知らないと思います」

とハチミも言った。

見渡したところほぼ円形の、作りもののような雰囲気をたたえた、小さくて静かな湖だった。あと二、三歩で水に触れるあたりに、湖のかたちに沿って、小径がつけてあった。三人が立っている場所から、左右どちらの方向へも、その小径はのびていた。

「湖を一周出来るのかしら」

「観光案内には、一周は出来ないと書いてある」

「この湖です。ぴったり。ナナエは喜ぶわ」

「ここにきめましょうか」

「これ以上の場所は、望めないでしょう」

「そうね。私もそう思う」

「人がいないのね」

「なんにもないし」

「あるのは、あの桟橋だけ」

湖にむかって立っている三人から見て左前方に、桟橋が一本あった。木製の簡単な作りの桟橋だ。湖の縁から十五メートルほどまっすぐ突き出たあと、浅い角度で一度だけ折れ曲がっていた。そして曲がり角から突端まで、ほんの数メートルだった。曲がり角を中心にして、桟橋は水面にむけて落ち窪んでいた。張り渡してある板はいたるところ穴があき、支柱は朽ち、桟橋ぜんたいは右に左に傾いていた。

「だいじょうぶかしら」

「ほんのすこしだけ足場があればいい。桟橋の根もとにボートをぴったりつけて、腰を低くしてひょいと乗り移れば、それでいいんだから」

「では、これで充分ね」

三人は桟橋へ歩いた。桟橋のつけ根に立ち、あたりの様子を眺めた。

「ぴったりだ」

「いい雰囲気」

「ほんとにナナエが言っていたとおりの場所です」

はじめにトモが、そしてハチミ、リカの順に、三人は桟橋に上がった。湖を縁取る草の生えた湿地のような部分から、三人は湖水の上へと出ていった。

「思いのほか、しっかりしてる」

「でも揺れるよ。ほら」

「そうよ」

「そっと歩いて」

「このくらいなら、だいじょうぶ」

「ボートはないのね」

「ここにひとつだけある」

桟橋の曲がり角まで出ていったハチミは、曲がり角の内側を指さした。ほとんど水没したボートが一隻、縁だけを水面の外に出して、じっとしていた。

「これでは使えない」

「どうしましょう」

「いいアイディア!」

そう言って、ハチミが指を鳴らした。

「カヌーを持ってくればいい。私の父親は、カヌーが好きなの。いくつかカヌーを持ってるけど、ひとり用の折りたたみ式のカヌーがある。それを持ってくればいいんだ」

そう言ったハチミを、リカとトモが見た。

「それは大きいの?」

「折りたたむと、たいしたことないよ。私ひとりでも持てるから。持つと言っても、背中にかつぐのだけど」

「オールは?」

「パドルもあるよ」

「完璧ね」

「完璧」

右手を高く上げたハチミは、人さし指と親指とで、ひとつにつながった輪を作ってみせた。そしてその輪を右目に当て、湖を見渡した。

「ここにしましょう」

「決定だ」

「ほんと」

「ここは最高」

「ナナエに感想をきいてみたいね」

「この径を、いけるところまで歩いてみましょうか」

桟橋の根もとから湖の縁に沿ってのびている小径を、リカが指さした。

「そうしましょう」

三人は桟橋を下りた。両側に夏草が盛んに生えようとしている細い小径を、一列になって歩いていった。百メートルほどでその径はいきどまりになった。夏草に覆われた灌木林が正面に立ちふさがり、小径はその手前で終わっていた。

「こんないいところなのに、誰もいないのね」

「ホテルやレストランがないから」

「静かだわ」

「昼寝をしたらいいでしょうね。どこかにハンモックを吊って」

「死ぬにも最適」

「そうね」

「来てみて、よかった」

「帰りましょうか」

桟橋までひきかえし、三人はそこにしばらくいた。そして、スロープのなかを蛇行する小径を、上の道路まで登っていった。舗装された二車線の峠道にも、四月の快晴の日の陽ざしが明るく当たっていた。

「さて」

等しく風に吹かれながら、三人はそれぞれに峠道の左右を見渡した。平凡なセダンが一台、三人のまえを走って去った。

「バスに乗って帰る?」

「そうね」

「バス停まで歩きましょう」

「ああ、うれしい。こんどは下り坂」

路線バスの停留所まで、三人は歩いた。標識に取りつけてある時刻表を彼女たちは見た。次のバスまで二十分あった。そのバスを待つことにし、三人は道路のわきの草の上に腰を下ろした。

「いつにしましょうか」

リカとトモを対等に見て、ハチミが言った。

「五月のある日」

「天気のいい日」

「天気図を見続けてるといいよ」

「明日はかならず晴れるという日が来たなら、その日にここへ来ることにしましょう。日曜日や休日ではなくても、学校は休めばいいのだから」

「そうね」

「電話で連絡を取り合って」

「ハチミがカヌーを持って来るのね」

「そうよ。パドルも」

「カッター・ナイフ」

トモが言った。

「なにに使うの?」

「手首を切るのです」

「あ、そうか」

「手首を切って、その手首を湖のなかにつけておけば、血は流れ出て湖に吸い取られ、死にます」

「死んだあと、そのカヌーをどうやって桟橋まで戻すの?」

リカが質問した。ハチミはしばらく考えていた。そして、

「簡単」

と答えた。

「ロープを持って来ればいいのよ。細くて丈夫なロープがあるわ。それをカヌーにくくりつけておいて、終わったら岸からたぐり寄せればいいの」

「なるほど」

「ほかにはなんにもいらないわね」

「電話があるといいね。携帯電話」

「私、それを持ってくる」

「なにに使うの?」

「霊柩車を呼ぶ」

「そうか」

「ナナエが言っていたことを、みんなでよく思い出しておきましょう。メモに書いて、三人でつきあわせ、慎重に検討しましょう」

四月の後半がすぐに終わった。五月になった。一日、二日、三日と経過していき、第二週のはじめに天気図が安定しはじめた。日本列島のほぼぜんたいが、高気圧に覆われるときの天気図だった。

これなら明日でもいい、と学校で三人の意見はまとまった。明日、あの湖へ出かけることにきめ、持っていくものの分担を確認した。特急の時間を調べ、切符を買った。夕食を三人そろって外で食べ、九時すぎに彼女たちはそれぞれの自宅に帰った。

ハチミの家ではガレージが二階建ての別棟になっていた。自動車が三台は楽に入る広さのガレージが下にあり、二階はふたつの部屋だった。ひとつは広い物置、そしてもうひとつは、なぜか畳を敷いた四畳半だ。

物置には父親の持ち物が整理して置いてあった。カヌーは三隻あった。そのうちの二隻は天井に吊ってあり、もうひとつ、折りたたみ式のカヌーは、キャリング・バッグにおさめられて、奥の壁に立てかけてあった。

ハチミはこのカヌーで、父親といっしょに湖や川で何度か遊んだことがあった。ほんのちょっとした水遊びだが、カヌーの組み立てかたはほぼ記憶していた。マニュアルがバッグのなかにあるのを確認し、一本のパドルとともに、それを彼女は自分の部屋へ持っていった。細いけれどもきわめて丈夫なナイロンのロープが三百メートル、スプールに巻いてあった。それも、ハチミは部屋へ持っていった。

トモは携帯電話機を用意し、リカは三人の弁当を作った。サンドイッチだった。明日、学校で食べるのだと母親に言い、手伝わせて丁寧に作った。飲み物を二種類用意し、デザートも作って添えると、大きな籐のバスケットはいっぱいになった。

次の日、三人の少女たちは、学校へいくのと同じ時間に家を出た。リカは歩いて駅へいき、電車に乗った。トモはバスで駅までいき、電車に乗って待ち合わせの駅へむかった。ハチミは部屋の電話でタクシーを呼び、家のすぐ近くまで来てもらった。ガレージのまえでカヌーをかついでパドルを持ち、タクシーが待っている場所まで五十メートルほどを、ハチミはゆっくり歩いた。

きめておいた時間どおりに、三人は乗り換えの駅で落ち合った。ラッシュ・アワーが終わる時間のターミナル駅で、彼女たちは高原へむかう特急に乗った。

早朝から絵に描いたような快晴だった。特急に乗って三十分もたつと空はさらに青くなり、陽ざしはよりいっそう透明な明るさを増した。

下見に来たときとおなじルートをたどって、三人は正午前に高原に到着した。峠を越えていくバスを、先日とおなじ停留所で降りた。

「ものすごくきれいな日になったね」

「最高」

「ナナエに気持ちが通じてるんだ」

「ナナエは今日まで待っていてくれたのね」

「早くナナエを喜ばせてあげたいです」

「それにしても、この坂道はこたえる」

ハチミがかついでいるカヌーを、トモとリカのふたりが、それぞれ片手でうしろから支えた。しばらく歩いてから、三人は道路のわきに腰を下ろして休んだ。ハチミとトモがふたりでカヌーをかついだ。リカはパドルそして弁当の入った籐のバスケットを持ち、先頭に立った。三人とも前かがみになり、一歩ごとに声を上げては、自分の膝を手で押して歩いた。

湖への入口まで三人はたどり着いた。そして小径へ入っていき、下りのスロープを蛇行して湖まで下りた。四月に来たときにくらべると、草の密度と丈の高さがまるでちがっていた。

「見えてきました。ナナエの湖」

「水の色が、先日とはちがうのね」

「ナナエが言っていたとおりの色だ」

「ほんとだ」

「今日も、誰もいませんね」

「静かだわ」

「ほんとに人がいないのね」

「真夏のシーズンになると、すこしは人が来るのではないかしら」

桟橋のつけ根に三人は荷物を下ろした。リカが作って来た弁当の中から、飲み物だけを取り出して三人は飲んだ。静かに平らに広がる水面、そしてその水面ぜんたいを取り囲むようにして斜めに落ちてくる緑の丘のつらなりを、三人は眺めた。

「低い山でぐるっと囲まれてるのね」

「囲まれてなかったら、湖の水はどこかへ流れていってしまうよ」

「そのとおりです」

「木の生えた山のスロープが、いきなり水のなかへ入っていくのね」

飲み物を飲み、しばらく時間を過ごしたあと、ハチミはバッグからカヌーを取り出した。桟橋のつけ根に桟橋と平行になるよう、折りたたまれたカヌーを置いた。そしてマニュアルを見ながら、組み立てていった。リカとトモがそれを見ていた。

やがて組み立てが終わった。

「わ、素敵な船」

「ナナエはなんと言うかしら」

「手を叩いて喜んでるわ、きっと」

スプールに巻いてあるロープを、ハチミはバッグのなかから取り出した。ロープの一端をカヌーのなかにくくりつけ、ロープをのばしてスプールをすこし離れた草の上に置いた。

「浮かべましょう」

「まっすぐ押せばいいのよ」

ハチミがカヌーのうしろにまわり、リカとトモはそれぞれカヌーの両側についた。そして草の上を湖にむけて押した。

カヌーは軽く草の上を滑り、すぐに水に浮いた。その様子を三人はしばらく眺めていた。

「さあ」

ハチミが言った。

「身代わりをきめましょう」

「ナナエの身代わりになって、ナナエが望んでいたとおりの死にかたで、もう一度だけ死んであげる人」

「どうやってきめましょうか」

「ナナエの好みは、ジャンケンだった」

「そうね。なにかといえばすぐにジャンケンだった」

「では」

「ジャンケン」

小さな輪を作っておたがいにむき合い、三人は気持ちをひとつに合わせた。そして、

「ジャン、ケン」

と三人そろって言った。そして次の瞬間、

「ポン」

と三人が言おうとする寸前、

「待って!」

とハチミが叫んだ。

「ちょっと待って。勝った人が身代わりになるの、それとも、負けた人なの?」

「負けた人」

「どうして?」

「ナナエはジャンケンばかりするのに、いつも負けてたから」

「そうです。ナナエはジャンケンに負けてばかりいました」

「では、負けた人が身代わりね」

確認し合い、三人は再び気持ちをひとつにした。

「ジャン、ケン」

と声をそろえた三人は、右腕をうしろへ引く動作を同時におこなった。

「ポン」

ハチミが石、そしてリカとトモがそろって鋏だった。

「ああ、残念」

ハチミが言った。リカとトモがジャンケンをしなおした。リカは鋏、そしてトモは紙だった。三人は歓声を上げた。

「このカヌーに、どうやって乗ればいいの?」

トモが言った。

三人は桟橋へ歩いた。ハチミはカヌーのうしろ、そしてリカはカヌーの前部で、それぞれ桟橋に腹ばいとなった。両手でカヌーを桟橋に引き寄せ、押さえた。

「腰を低くして、片足をカヌーに入れるの。そしてカヌーのまんなかに、その足を置くのよ」

ハチミの言うとおり、トモはカヌーの中央で桟橋の上にしゃがんだ。湖に浮かぶカヌーにむけて片脚をのばし、底の中央に足をついた。

「そのまま、もういっぽうの脚をそうっと引きこんで、静かにすわるの。両手で縁につかまって」

ハチミの言うとおりに、トモはカヌーのなかに入った。シートにすわってから、一度だけぐらついた。ハチミとリカがそれを押さえ、カヌーは安定した。

「水の上にすわっているみたい」

桟橋のハチミとリカを見上げて、トモが言った。

「感じはわかったでしょう」

「面白い」

「はい、これがパドル」

一本だけのパドルを、ハチミはトモに差し出した。トモはそれを受け取った。正確な使いかたではないのだが、ハチミの言うとおりにトモがパドルで水をかくと、カヌーは水面を軽く滑って桟橋を離れた。

「わ、面白い!」

左右交互に、トモはパドルを使った。蛇行しながらカヌーはさらに桟橋を離れた。ロープのスプールまで歩いたハチミは、しゃがんでロープをつかみ、たぐり寄せた。カヌーは桟橋にむけて戻って来た。

「トモ」

「なあに」

「ナナエによろしく」

「伝えます」

「ナナエが望んでいたとおりだから」

「そうね」

「はい、カッター・ナイフ」

「そうだ、それが必要なんだ」

ハチミが差し出すカッター・ナイフを、トモは受け取った。

「湖のまんなかまで出ていって」

「うん」

「ゆっくりでいいよ」

「だいじょうぶ」

「ナナエの気持ちになりきって」

「まかせて」

「バイバイ」

ハチミとリカが桟橋の上で手を振り、カヌーのなかからトモがそれに応えた。カッター・ナイフをトモはシートの下に置いた。パドルを両手に持ちなおし、水をかいた。きわめて軽く、カヌーは桟橋を離れた。

左右交互に、トモはパドルを操った。船首は大きく振れるのだが、方向としては湖の中央にむけて、おりたたみ式のカヌーは進んでいった。

途中でトモはカヌーを一回転させた。回転させるつもりではなく、パドルを操るテンポをまちがえただけだ。水面上でカヌーは鋭く軽快に一回転した。このカヌーは回転性能がたいへんすぐれていた。

桟橋の上でハチミとリカが笑った。声を上げて笑っているトモを、ハチミとリカは桟橋から見た。桟橋とカヌーとのあいだに少しずつ距離が出来ていった。桟橋の根もとの地面に置いてあるスプールから、細く白いロープが少しずつほどけては、湖のなかに引きこまれた。

桟橋の突端までハチミはひとりで歩いた。桟橋の古い板は、ハチミの体重を受けてきしんだりぐらついたりした。

「水のなかに落ちるよ」

リカが言った。

「だいじょうぶ」

ハチミは空を仰いだ。青い晴天の空が、頭上いっぱいにまぶしく広がっていた。

「こんな空、ひょっとしたら、私は初めて」

空を指さしてハチミが言った。

「私も」

「ナナエに早くこの空を見せてあげたい」

「もうじきです」

リカは桟橋に腰を下ろし、ハチミは突端から引き返してきた。そしてリカのかたわらにすわった。

ほぼ丸い形をした小さな湖だ、とトモは思っていた。しかし、その湖の中央にむけてカヌーで出ていくにしたがって、湖は大きさを増していくようにトモは感じた。たとえば桟橋とのあいだの距離が大きくなればなるほど、湖も大きくなっていく。湖の中央へ出ていくにしたがって、どの方向へも岸は遠のいた。

そしてそれに対応して、頭上の空が広がった。湖が大きくなり、空は広がり、その中間で、カヌーに乗った自分はどんどん小さくなっていくように、トモは感じた。

どの方向へ視線をむけても、岸までの距離が等しく遠く思えるあたりまで到達して、トモはパドリングを止めた。パドルをカヌーのなかに入れた。両肘をカヌーの縁で支え、小さなシートの上で腰をまえにずらせていき、せまい船体のなかに両脚をそろえてのばした。さらに腰をずらし、すぐうしろにある縁に頭のうしろを預けると、トモはカヌーのなかであおむけに横たわることが出来た。

しばらく彼女は空を眺めていた。水面の上をさまざまな方向から風が吹いて来た。カヌーの上にいるトモを撫でて通過していき、どの風もどこかへ消えた。

風のままに、カヌーは湖の中央でゆっくりと回転していた。あおむけになっているトモがすこしだけ視線の方向を変化させると、その視線がまっすぐにのびた正面に桟橋が見えた。桟橋の根もとにハチミとリカが立っていた。なにごとかに関して、ふたりは熱心に語りあっているように見えた。突然、ハチミが体を動かした。踊りのパターンの一部を、ハチミはリカにおこなってみせた。そしてリカも、そのパターンのヴァリエーションをおこなった。

ハチミとリカにトモ、そしてすでに死んでいるナナエの、学校でのサークル活動は舞踏だった。舞踏の練習で覚えた踊りの一部をおこなっているハチミとリカを、水面すれすれに遠く見て、一瞬、トモは強烈な懐かしさを覚えた。その懐かしさに、彼女は泣きたくなった。

涙をかろうじて抑えこみ、トモはあおむけのまま桟橋にむけて手を振った。リカとハチミは気づかなかった。手を下ろして水のなかにひたして休め、再びその手を上げて、トモは桟橋にむけて振った。やがてハチミが気づいた。ハチミが湖にむきなおってさかんに手を振り、リカもおなじように手を振った。

桟橋やその背後にある潅木林の斜面、そして湖をとり囲んでいる山なみなど、見えている景色のすべてが、いまのトモには精巧に作られたディオラマのように見えていた。陽ざしのなかで手を振っているリカとハチミは、良く出来たふたつの小さな人形だった。

リカとハチミが手を振るテンポに自分の手の動きをしばらく重ねて、トモは安心した。泣きたい気持ちは遠のき、彼女は右手を下ろした。そのまま、水のなかに手をひたした。水は冷たく、指先に彼女はその湖の深さを感じた。そしてその深さは、自分から岸までの距離の大きさであり、空の広さでもあった。

カヌーの上にあおむけとなっているトモは、自分が小さくなっていくのを感じ始めた。彼女の気持ちのなかで、彼女は縮小しはじめた。湖の中央で水面の上に横たわっているも同然の彼女は、空の巨大さと直接に関係を持ちつつあった。空の巨大さを自分の体で受けとめ続けていると、ある瞬間から、自分が小さくなっていくのをトモははっきりと感じた。空の中へ気持ちがのびればのびるほど空は大きくなり、それに比例して、彼女自身は彼女の感覚のなかで小さくなっていった。

カヌーの安定をそこなわないように注意を払いながら、トモは上体を起こした。シートの下に手をのばし、カッター・ナイフをさぐり当てた。ナイフを手に取り、柄についているネジを緩め、彼女は刃を出した。刃をいっぱいにのばし、ねじを締めなおした。

上体を再び横たえ、左にむけてねじり、左腕をカヌーの外に出した。カッター・ナイフを逆手に持ったトモは、刃を左手首の内側に当てた。そして力をこめて刃を手首に食いこませ、ひと息に横へ切り裂いた。

充分な手ごたえがあった。すっぱりと絶ち切られた動脈から、血が噴き出る決定的な感触を、トモは空気のなかに感じた。噴き出た血は水面の上を小さな弧を描いて飛んだ。水の上に落ちる音を、トモは聞いた。彼女は目を閉じていた。

深く避けた切り口から、血は律動して噴出した。血管の断面から飛び出てくるときの音を、そして律動に乗ったひとかたまりの血が空中を飛ぶ感触、さらにはその血が水面に落ちる音など、すべてをトモは感覚の中で受けとめた。

トモはカッター・ナイフから手を離した。カッター・ナイフは水に沈んですぐに見えなくなり、左腕を肘まで彼女は水につけた。そして、左にむけてねじっていた上体をもとに戻した。カヌーの上で全身から力を抜き、まっ青な空を仰ぎ、右腕も水面にもぐらせた。両腕を肘まで水につけて、彼女はひとりだけのカヌーの上で目を閉じた。

左手首に、痛みはほとんどなかった。そのかわり、手首に一か所だけ、外に向けて開かれた部分が生まれているのを、トモは自覚していた。その開かれたひとつの口からは、血が律動とともに体の外へ出ていた。血は湖のなかで水の抵抗に遭いながら、その水をかきわけては吹き出ていき、トモの左手首の周囲でゆっくりと水になじんだ。そして水に薄められ、水のなかへ溶けていった。

カヌーの上であおむけになり、トモは空を見ていた。見れば見るほど空は大きく、奥行きを増した。それに比例して、自分自身は小さくなっていった。湖の中に流れ出ていく血は、自分が小さくなっていくことの、ひとつのたしかな実感だった。空の大きさと奥行きの深さをまえにして、自分は小さくなり続け、血は湖に吸い込まれ、やがて自分はなくなってしまうのだと、トモは覚悟をきめた。そのような覚悟は、きわめて快適だった。

意識が薄くなっていくのを、ほどなくトモは感じた。軽く小さくなっていく自分を愛しく思いながら、トモは目を閉じた。意識は薄れ続け、やがて彼女は、おだやかに静かに、気を失った。

桟橋ではハチミがあぐらをかいてすわっていた。そのかたわらにリカが両脚をまっすぐにのばしてすわり、腰のうしろに両手をついて上体を支えていた。ハチミは湖に視線をむけ、リカは潅木林のほうをぼんやりと見ていた。

「お昼にしましょうか」

ハチミが言った。

「そうね」

「お腹が空いた」

「私も」

「食べましょう」

「トモは?」

「もうずいぶんまえから、おなじ姿勢のまま、動いてないですよ」

「見てみます」

ハチミの足もとに置いてあった双眼鏡に、リカは手をのばした。携帯電話機といっしょに、トモが持って来た双眼鏡だ。

リカは双眼鏡を目に当て、湖に顔を向けた。湖の中央から反対側の山なみにむけて、カヌーは大きく移動していた。桟橋からはかなりの距離だった。

「トモはあおむけです」

「目を閉じてるでしょう」

「カヌーがこちらをむいているので、トモの顔は見えない」

「やがてカヌーの向きが変化すると、トモの顔が見えます」

「トモは両腕を水のなかに入れてます」

「眠っているみたいね」

「そう見えるわ」

「死んだのかしら」

「さあ」

「呼んでみましょうか」

「そうしましょう」

ハチミが立ち上がり、リカも双眼鏡を持って立った。ふたりで湖にむきなおった。

「トモーォッ!」

声を重ね合わせて、叫んだ。

ふたりは何度かくりかえして叫んだ。

リカが双眼鏡を目に当てた。視界のなかにカヌーをとらえた。倍率は十倍だ。桟橋とカヌーとのあいだにある距離は、双眼鏡を介すかぎりにおいて、十分の一に縮んでいた。

「トモはまるっきり動かない」

リカが言った。

「私たちの声がきこえない、ということはないよね」

「きこえてます」

「もう一度、呼んでみましょう」

リカは双眼鏡を下ろし、ふたりはタイミングを整えた。そして声をひとつに重ね合わせ、トモの名を湖にむけて叫んだ。

リカは双眼鏡で再びカヌーを見た。カヌーの向きがすこしだけ変化していた。あおむけになって横たわっているトモの横顔を、リカは右側から見た。

「目を閉じています」

「眠ってるのかもしれない」

「眠くなる気持ちは、よくわかります」

「この素晴らしい天気で、しかも湖の上にカヌーでひとりきりだもの。あおむけになって空を見ていたら、眠くなる」

「眠くなると言うよりも、ゆっくり気絶してしまう感じ」

「そのとおりだね」

「弁当を食べよう」

桟橋を歩いて根もとまでいき、バスケットが草の上に置いてあるところまで、ふたりは歩いた。バスケットの上には携帯電話機が載せてあった。

「使いかたを知ってる?」

電話機を指さして、ハチミがきいた。

リカはうなずいた。

「知ってます」

「ここで食べましょう」

バスケットをあいだにして、ふたりは草の上にすわった。バスケットを開いた。あぐらをかいた脚の上に、大きな紙ナプキンをそれぞれに広げた。

「うわあ、いろんなものがたくさんある」

ハチミが歓声を上げた。

「これがサラダ」

「すごい」

「母親に手伝わせたの」

「おいしそう」

「母親はサラダが得意なのよ」

「これは凝ってます」

「食べて」

「トーストしたサンドイッチがある」

「薄く切ったパンを二枚合わせて、トースト・サンドイッチを作る機械で焼くのよ。焼くと二枚のパンは縁がくっつくの。一辺だけを開いて、そこから中にいろんなものをぎっちり詰めるの」

「こんなにふくらんでますね」

「食べて」

「食べる」

ふたりの少女は食べはじめた。空は青く気温は高い。あたりには草や樹の匂いが充満していた。風がほどよく吹き、顔を上げると湖が見えた。湖は静かな濃いブルーの、平らな広がりだった。その広がりの周囲を、低い山なみの連続が囲んでいた。湖の中央からむこうへ向けて遠のきつつ、トモを乗せたカヌーは風のままに漂っていた。

ふたりの少女たちは、昼食に一時間以上かけた。食べ終わって完全に満足し、彼女たちは草の上に体を横たえた。横たわった姿勢による視界で、ふたりはそれぞれに湖を眺めた。どちらの視界のなかにも、遠く小さく、カヌーが見えていた。

「あんなに遠くまでいってしまったよ」

リカが言った。

「だいじょうぶ。ロープはつながっているから」

「トモはどうしたのかしら」

「寝てるかもしれないですね」

「トモは寝るのが得意よ。学校でも、授業中にすぐ寝てるから」

「双眼鏡は?」

「ここ」

上体をなかば起こしたリカは、双眼鏡を手に取ってハチミに渡した。ハチミは双眼鏡でカヌーを見た。

「さっきのまま」

ハチミが言った。

「寝てるのかな」

「さあ。なんとも言えないね」

「起こしてみましょうか」

「と言うよりも」

双眼鏡を、ハチミはリカに手渡した。

「ロープを引っぱってみればいいんだ」

ロープのスプールが地面に置いてある場所までハチミは歩いた。そのうしろにリカが走った。しゃがんでロープをつかんだハチミは、立ち上がって湖の岸へ歩きながら、ロープを両手でたくしこんだ。ハチミの足もとに不規則な円を描いて、濡れたロープが何重にも重なっていた。

「カヌーはロープにひっぱられて動いているはずよ」

ハチミが言った。

「トモは起きませんね」

双眼鏡で見ながら、リカが言った。

「カヌーを岸まで引っぱってみましょうか」

「そうしましょう」

歩み寄ったリカは双眼鏡を足もとに置き、ハチミよりまえに出て、白く細いロープを湖の中からたぐり出した。ふたりの両手が、そして膝やくるぶしのあたりが、水に濡れた。

トモがあおむけに横たわったままのカヌーは、湖の中央まで戻って来た。

「いまちょうど、まんなかあたりね」

ふりかえってリカが言った。ハチミは微笑した。そしてうなずき、

「トモはまったく動かないよ」

と答えた。

ふたりの少女はロープをたぐり続けた。カヌーは少しずつ近くなっていった。

「トモ!」

リカが叫んだ。

「トモ! きこえたら、返事をして!」

「手を振って!」

「起きるのよ、トモ!」

ふたりはカヌーにむけて交互に叫んだ。カヌーの上のトモは、しかし、あおむけに横たわったままだった。

カヌーは岸に近くなった。ほんの数メートルのところまで近づき、そのあとすぐに船尾が岸に接した。

「引っぱって!」

ハチミが叫んだ。リカと力を合わせて、ハチミはカヌーをうしろむきに岸の草の上へロープだけで引き上げようとした。そこは岸のスロープがもっともゆるやかな部分だった。

ロープを離したハチミとリカは、それぞれにカヌーの側面へまわり、腰を落としてカヌーに両手をかけ、草の上へさらに引き上げた。カヌーは船体の前半分が、草の生えた岸に上がった。

「トモ!」

カヌーのなかで動かないトモに、ふたりは叫んだ。

「トモ、返事をして!」

「トモ!」

トモの足に手をかけ、ハチミが左右にゆすった。リカはトモの膝に手を添え、おなじように左右に揺すった。トモは静止したままだった。閉じた目は開かず、両腕はカヌーの外に出て草に接したままであり、あおむけの顔は陽ざしのなかで青ざめていた。

草の上を滑らせて、ふたりはカヌーを完全に陸に上げた。カヌーの両側にしゃがんだリカとハチミは、左右からそれぞれにトモの肩や顔に触れてみた。

「トモ」

優しく、リカが囁いた。

「トモってば。ほら、私たちの友達のトモ」

トモは返事をしなかった。

「トモは死んでるのです」

ハチミが言った。

「そうかな」

「そうよ」

「くすぐってみよう」

トモのわきの下に指先を入れ、リカはトモをくすぐった。トモからはなんの反応もなかった。

「ひんやりしています」

トモの頬に手を当てたハチミが、リカを見て真剣に言った。

「ああっ、これを見て!」

リカが声を上げた。彼女が指さすところをハチミも見た。

カヌーの縁から草の上に垂れているトモの左腕を、ふたりは見た。手首には水平に切り裂かれた傷口があり、その傷口は水につかってふやけ、大きくぱっくりと開いていた。まだすこしずつ、そこから血が流れ出ていた。血はいったんトモの掌にたまり、指のあいだから草の上へ落ちた。

「ハチミ!」

リカが叫んだ。そしてハチミにむけて、カヌーとトモごしに、リカは両手をのばした。ハチミも、おなじようにリカの名を叫んだ。

「リカ!」

「トモは完全に死んでます」

「トモの血は湖の中なのよ!」

「ナナエに会えたのだろうか」

「会えてるわ」

「絶対?」

「まちがいない。ナナエが望んでいたとおりに、トモは死になおしてあげたのだから」

「絶対ね」

「だいじょうぶです」

「ナナエとトモは、いまはいっしょにいるのね」

「夢中になって話をしてるわ。ずいぶん会ってないから」

「私もナナエに会いたい。思いっきり話をして、むちゃくちゃに笑いたい。みんなで」

「トモが私たちにかわって、みんなやってくれてる」

「トモはナナエといっしょなのね」

「それは絶対にまちがいない」

「ナナエは喜んでいるのね」

「望んでいたとおりにやりなおしてあげたのだから、もうなにも不足はないはず」

「よかった。これでよかったのね」

「完璧です」

「トモをカヌーから降ろしてあげよう」

リカはトモの両脚をかかえこみ、ハチミはトモのわきの下に両腕をさしこんだ。そしてタイミングを合わせて抱き上げた。トモの体をふたりはカヌーの外に出した。すこし離れたところまでトモをかかえていき、陽の照る草の上にトモを下ろした。妙にぎこちなく、トモの死体は草の上に横たわった。

「あとは霊柩車に乗せて、自宅まで送ればいいのよ」

ハチミが言った。

「私は電話をかけます」

「どこへ?」

「お葬式の会社へ。霊柩車を一台、上の道路までさしむけてもらいます」

「この地元にある会社がいいわね」

「104で聞いてみます」

リカは双眼鏡をバスケットのなかに入れ、携帯電話機で電話をかけはじめた。

カヌーまで歩いたハチミは、カヌーの内部にくくりつけたロープの先端をほどき、スプールに巻き取った。そしてカヌーの解体をはじめた。

「電話がかからないです」

ハチミのかたわらまで歩いて来て、リカが言った。電話機を耳に当てて、リカは首をかしげていた。

「エリアからはずれてるのかな」

「そうかもしれない」

「上の道路へ上がって、歩きながらかけてみる」

「そうして」

「かかったら、ここへ戻って来るから」

「私はここにいるよ」

カヌーの解体を続けながら、ハチミが言った。

リカは上の道路へつながる小径へ歩いた。色の淡いブルー・ジーンズに白いテニス・シューズの彼女は、生地を裏がえしに使ったアロハ・シャツを着ていた。肩を超える長さの髪を、うなじで束ねていた。小径を上がっていく彼女のうしろから、風が吹いた。電話機を耳に当て、シャツの裾を風にはためかせ、リカの姿は灌木の陰になかばかくれた。

Chapter 1 of 14