第一章 五年前のこと
三日前に引っ越しは完了した。住むための部屋ではなく、仕事場としての部屋だ。だから家具その他、日常のこまごましたものはほとんどなかった。いくつもの本棚とそのなかに詰まるべき本。数多くの資料とそのファイル。コピー機やファクシミリ、ワード・プロセサー、プリンターなどの機器。そして必要に応じて買い足して来た結果の、いくつかのデスク。
主たるものはすべて収まるべき位置にすでに収まっていた。事務機器の配置を正午過ぎにきめたあと、日比谷昭彦は部屋を出て駅の近くまで歩いた。ベーカリーの二階の気楽なレストランで、サンドイッチとコーヒーの昼食を彼はひとりで食べた。そしてふたたび部屋に戻った。六階建てのさほど大きくはない集合住宅の、三階の西端にある3LDKの部屋だ。
玄関を入ると正面に廊下が奥に向けてまっすぐにのびている。この廊下によって、3LDKの間取りは左右に振り分けてある。廊下を奥まで歩ききると、突き当たりはバルコニーだ。そしてそのバルコニーに面しているのは、フロアが板張りになったいわゆるリヴィング・ダイニングのスペースだ。十畳ほどの広さだ。
リヴィング・ダイニングの手前左側がキチンで、そのさらに玄関寄りにトイレット、そしてそこから玄関まで、壁面が廊下に沿っていた。壁面には本棚を置けるだけの奥行きがあり、壁面の広さとともに、それは日比谷のような仕事をしている人にとっては魅力的だった。この壁面に、望んでいたとおり、彼はすべての本棚を収めることが出来た。廊下の東側は、バルコニーから順に、八畳の和室、その押入れ、浴室と洗面、クロゼットのある主寝室、そしておなじくクロゼットのついた、ひとまわり小さい洋室だ。
主寝室を執筆の部屋に、そしてひとまわり小さい部屋を執筆の準備のために使うことに、日比谷はきめていた。そのふたつの部屋の外にもバルコニーがあった。これまでの仕事場から移ってきたばかりの部屋のぜんたいを、日比谷は観察しなおした。そしてバルコニーに出て、手すりの前に立った。五月の晴れた日の午後、知らなければそれがいまの日本のどことも正しく見当をつけることの出来ない、特徴のなにもない、なかば住宅地そしてなかば商業地区のような一帯を、彼は見渡した。
部屋は気にいった。場所も総合的にいってたいへん有利だ。だからここで、これからの自分はさらに何年か、仕事をすることになる、と彼は思った。あと三年で彼は四十歳だ。四十歳になるときには、まだこの部屋でノンフィクション・ライターとしての仕事をしているはずだ。完全に徒手空拳と言っていい、フリーランスの仕事および生活だ。この先どのようなことになるのか見当も予測もつかないが、興味の持てる対象を見つけては、ひとりで調査を重ねていくノンフィクションの作業は、充分に楽しく快適だし彼はそれが好きだった。他のことはもう出来ないだろうな、というのが三十七歳の彼による自分自身の評価だ。他のことが出来ないなら、少なくともこれだけは出来るということだ。
バルコニーからリヴィング・ダイニングに入り、そのまんなかに立ち、彼は周囲を見渡した。配膳のカウンターごしにキチンを見た。廊下からキチンのなかへ彼は入った。流し台とは反対の壁に、奥行と幅のぴったりと適合した作業テーブルがあった。ごく簡素な作りの、しかし丈夫そうなテーブルだ。昨日、なんのあてもなしに入った家具店で見つけた。夕方には配達してもらった。そのテーブルの上に、エスプレッソ・マシーンとドゥミタスが一客、置いてあった。
エスプレッソ・マシーンの使用説明書を彼は読んだ。コーヒーの粉とミネラル・ウォーターを冷蔵庫から取り出し、彼は一杯のエスプレッソを作った。香りと見た目はたいへんエスプレッソらしく、ほとんど瞬時にして、ドゥミタスのなかにエスプレッソが満ちた。出来ばえを彼は試してみた。まずは上出来と言ってよかった。
ドゥミタスを持ってキチンを出た彼は廊下から玄関へ歩いた。本棚のなかの本と資料だけが、まだ整理されないまま残っていた。手のつけようがない、と思うほどの大量さでも乱雑さでもないが、ひとつの壁面にすべてを収めて見渡すとかなりの量だ。本と資料を見るともなく見ながら、彼は一杯のエスプレッソを飲んだ。そしてキチンへ戻り、もう一杯作った。キチンを出て配膳のカウンターに腰をもたせかけ、十畳のスペースごしにバルコニーのほうに視線を向け、彼はエスプレッソを飲んだ。
飲み終わってキチンに入り、ドゥミタスを、そしてエスプレッソ・マシーンのフィルターを、彼は洗った。さて、と彼は思った。仕事をするか、それとも当面の資料だけでも整理しなおすか。彼は本棚の前へ歩いた。資料を眺め渡した彼は、書類ファイルを入れておくためのボール紙の箱をひとつ、本棚からかかえ出した。それを廊下に置き、しゃがんで箱のなかを見た。
買い置きの新品のファイルが、いくつも箱のなかにあった。書類をただはさんでおくだけの、もっとも簡単なファイルだ。項目別にたくさんファイルを作り、専用の箱の内部へ横に立ててならべていた時期が自分にあったことを、彼は思い出した。いまの彼はそのようなファイルの作りかたをしていなかった。彼は本棚を見た。専用の箱はいくつもあった。この箱に新品のファイルがあるからには、棚の箱のなかはすべて項目別に仕分けしたファイルが詰まっているはずだ。
そう思いながら日比谷昭彦は、箱のなかの新品のファイルを見た。いちばん端にあるファイルは、それひとつだけ、見出しの部分に文字が書いてあることに彼は気づいた。自分の字だった。そのファイルを抜き出し、彼は見出しの文字を読んだ。「個人的な出来事」と書いてあった。自分自身のことだと思った彼は、不思議な気持ちでそのファイルを開いた。週刊誌のページを切り取ったものが二ページ、ファイルのなかに入っているだけだった。見開き二ページで完結している記事を、そのまま切り取ったものだ。立ち上がった彼は、ファイルとともに持って準備室に入った。
部屋の中央に作業テーブルがあった。ディレクターズ・チェアを引き寄せてそれにすわり、彼はテーブルに両足を上げ、ファイルのなかにあった週刊誌の二ページを膝の上に広げた。右のページは右手に、そして左のページは左手に持った。右のページの肩に、その週刊誌名と発行年月日が自分の字で書き込んであるのを、彼は見た。五年前の八月に発行された号だった。
記事を彼は最初から最後まで読んだ。見出しに書いてあった「個人的な出来事」とは、いわゆる社会問題ではなく、あるひとりの人の身の上に起きた個人的な出来事、というような意味であることを彼は知った。
その記事が書かれたときから見て三か月前、つまり五年前の五月の、あるウイーク・デーの夜まだ早い時間、独身のOLが自宅のすぐ近くまで帰って来て、そこから自宅には戻らず行方不明になった、という内容の記事だった。そのOLには、記事のなかでは中西啓子という仮名があたえてあった。
勤めている会社からの帰り道、中西啓子は高校時代の同性の友人と会い、ふたりで世間話に興じつつ軽く夕食をとった。そしておなじ電車を乗り継ぎ、いっしょに帰って来た。中西啓子が先にその電車を降り、友人はさらに先までいく。降りた啓子がプラットフォームを改札口に向けて歩いていくのを、電車のなかの友人は振り返って窓ごしに見た。彼女は手を振り、啓子も笑顔で手を振った。
啓子は自宅へ帰るはずだったが、夜のあいだずっと帰らず、明くる日の午後、そして夕方になっても帰らず、なんの連絡もなかった。夜、父親が警察へ届けた。五日、そして一週間たっても、啓子は消えたままだった。捜索願いを警察は受理し、手順どおりの手配はした。しかし捜査はしようがないままに三か月が経過し、忽然と消えた中西啓子から連絡はいっさいなく、手がかりもなかった。
両親が駅を中心に聞き込みに歩いたが、いっしょに電車で帰って来た友人のほかには、有力な目撃情報はなかった。娘の身辺を両親がどう調べても、なんの前触れもなしに突然行方不明にならなければならない理由や状況は、なにひとつ見つからなかった。東京の片隅で、ある日、二十五歳の女性がひとり、かき消えた。中西啓子は身長百六十五センチ、着やせして見える魅力的な美人であったということで、「しかし、しきりに気になるのは、消えたその独身OLが、妙齢の美人であるという事実だ」と、その二ページの記事は結んでいた。
いまから五年前、まだ三十二歳だった自分は、おそらくたまたま手にした週刊誌でこの記事を読み、興味をひかれてページを切り取り、単独の項目としてファイルに入れ、「個人的な出来事」というタイトルまでつけた。そしてそれっきり、忘れてしまった。五年前という時間が現在からどれくらい前なのか、距離感が正しくはつかめないまま、五年くらいあっという間だ、と平凡なことを日比谷は思った。
二ページの記事の内容に、あらためて強く興味がひかれるのを、彼は感じた。この個人的な出来事は、その後どうなったか。美人の啓子は自宅に帰ってきたのか。彼女は発見されたのか。その週刊誌の編集部に、彼はすぐに電話をかけた。昨年の一年間、ノンフィクション・ライターの日比谷昭彦は、その週刊誌に記事を連載した。ニュースの裏面を読む、という内容の記事だった。そのとき担当となった編集者に訊いてみようと思ったが、彼は外出して留守だった。一時間ほどで帰社するということだったので、折り返し電話をかけてもらえるよう、日比谷は頼んだ。
続けてもう一度、彼は電話をかけた。ある公の機関にある部署に、大学のときの友人が勤務していた。その友人の部署を経由すると、日本の公の機関が持っているあらゆる情報のうち、公開されているものあるいは公開していいものはどのようなものでもすべて、簡単に手に入れることが出来た。個人的に内緒で便宜をはかってもらうのではなく、完全に正式なルートだ。一般的には知られていないが、日比谷のような仕事の人にはたいへん便利だ。
友人は席にいた。週刊誌で読んだ記事の内容を、日比谷は彼に説明した。捜索願いが正式に出されたはずだから、その後どうなったかを含めて、失踪者とその家族について基本的な情報を教えてほしい、と日比谷は依頼した。電話を終わった日比谷昭彦は週刊誌の記事をコピーし、玄関のコート・ツリーにかけてあるジャケットの内ポケットに入れた。記事を戻したファイルをテーブルに残し、新品のファイルの入った箱を彼は本棚へ持っていった。あったところにその箱を収めた。
彼は執筆室に入った。バルコニーに面したガラス戸の脇の壁に向けて、ライティング・ビューローがあった。彼が原稿を書くときの机がこれだ。その机から見て、彼の右後方にあたる位置に、すべて壁に向けて、机やテーブルが三つならんでいた。三つならべてひとつとして機能している作業テーブルだ。その三つのなかから、丸い褐色のカフェ・テーブルを、彼はリヴィング・ダイニングへ持っていった。スペースの中央にテーブルを置き、椅子を取りに戻った。そして椅子を持って来て、テーブルのかたわらに置いた。
三杯めのエスプレッソを彼は作った。ドゥミタスを持ってカフェ・テーブルへいき、椅子にすわり、バルコニーとその外へ彼は視線をのばした。この椅子とテーブルを考えごとのための場所にすればいい、などと思いながら彼はエスプレッソを飲んだ。初めのうち、彼はほとんどなにも思わずに、ぼんやりとしていた。やがて思いはさきほど読んだばかりの、二ページの記事に戻った。自宅の最寄駅まで戻り、そこで消息を絶ったひとりの若い美人について、彼は考えた。
エスプレッソを飲み終え、ドゥミタスとフィルターをさきほどとおなじように洗い、彼は執筆室に入った。壁に寄せてあるふたつの机をひとつにつなげた。片袖に引出しが四つあるなんの変哲もないデスクと、白木の丸いテーブルだ。そこへさらにカフェ・テーブルをつなげ、三つでちょうどよい大きさとなっていた。しかしカフェ・テーブルはリヴィング・ダイニングに出してしまった。代わりはなにかひとつ、新たに買わなくてはいけない、と彼は思った。
カフェ・テーブルに戻り、考えごとの続きをおこなった。外出の時間が少しずつ接近していた。ほどなく電話のブザーがなった。キチンのカウンターの端にも電話機があった。彼はそこで電話に出た。さきほど彼が電話をかけた週刊誌の、矢野という編集者からだった。矢野は日比谷より二歳か三歳だけ年上の、きわめて気さくな男だ。
「お電話を」
と、矢野は言った。お電話をいただいたそうですが、という言葉の彼なりの省略型だ。
「五年前の夏の合併号」
「うちの、この雑誌の」
「そう。二ページの記事」
記憶しているページ数を、日比谷は矢野に伝えた。五年前の夏の合併号、と復唱しながら矢野は電話の向こうでメモを取った。
「連載物ではなく、単独にある二ページの記事」
「便利なんだよ、二ページというのは」
矢野が言った。
「まずちらっと書いておく、というような場合」
「この記事は、そうではない。実際にあった出来事だけど、機能としては読み物だね」
記事の内容を日比谷は矢野に説明した。聞き終えた矢野は、
「二ページには値するね」
と言った。
「ネタの出どころはどこだと思う?」
と日比谷が訊いた。
「おそらく、クラブだよ」
「新聞は?」
「という可能性もある。新聞に小さく出て、それを追ってみたという」
「書いた人は自分でも取材してるよ。コメントを述べた人が五人出て来る。すべて仮名だけど。彼女が勤めていた会社の上司の話もある。取材して書いた人を知りたい」
「なんでまた、いま頃になってこれを」
「シングル・モルトの十二年ものというように、これは二ページの記事の五年ものだよ」
日比谷の言いかたに電話の向こうで矢野は笑った。
「モルトならおいしく飲めるけど」
「古い週刊誌の記事も、なかなかいける」
「五年前というと、俺はこの編集にいたかなあ。俺は五年前の秋からだ。だからこの記事が出たときには、まだここにはいなかった。でも訊いてみるよ」
「取材して記事を書いた人」
「訊いておいて、FAXでも」
「新しい仕事場のほうへ」
「うん」
電話はそこで終わった。
畳の部屋へいき、靴下とスラックス、そしてシャツを、彼は着替えた。財布その他、ポケットのなかにいつも入れるものを入れて玄関へいき、ジャケットをはおって部屋を出た。駅まで歩き、上りの急行に乗った。途中で地下鉄に乗り換え、それを日比谷駅で降りた彼は、地上に出て銀座まで足早に歩いた。四丁目の交差点の近く、建物の四階にある喫茶店に、彼はエレヴェーターで上がった。広い店のおもて側の奥、数寄屋橋の方向を斜めに見下ろす窓に向かい合った席に、高村恵子がすでに来ていた。差し向かいの席ではなく、隣あわせにすわる席だった。だから彼は恵子の左隣の椅子に座った。
かつての高村恵子は民放のラジオ局に勤め、アナウンサーをしていた。担当していたいくつかの番組のなかに、『この本を読みましたか』という番組があった。自分で読んだ本を何冊か取りあげて紹介する番組だ。著者がゲストで招かれることもあった。日比谷昭彦も彼女の希望でゲストで登場し、ふたりの関係はそのときから始まった。
現在の彼女はラジオ局を辞めていた。詩人を志していた彼女は、詩の分野ではもっとも有名な賞を受賞し、詩人であると同時に小説も書いていた。かつての勤務先のラジオ局では、深夜の番組をひとつ持っていた。ジャズのレコードをかけながら自作の詩を読む、という番組だ。
午後のコーヒーでも、と先週から彼は恵子に誘われていた。引っ越しで時間を取られ、会うのは今日となった。文字どおりコーヒーだけだ。新しい仕事場のエスプレッソ・マシーンは彼女からの贈り物だ。会話がひとしきり続いてから、週刊誌の記事のコピーを、彼はジャケットの内ポケットから取り出した。
「確認のために年齢を訊くけど、いま高村さんは三十歳だったね」
「そうです」
と答える彼女の顔を見ながら、美人というならこの女性もたいへんなものであり、五年前に行方不明になった仮名・中西啓子と偶然にもおなじ年齢なのだ、と日比谷昭彦は思った。彼はコピーを恵子に差し出した。受け取って読む恵子の、鼻柱や頬骨、そして顎の出来ばえなどを、彼は観察した。読み終わった彼女は、
「これは日比谷さんが書いたの?」
と、記事に目を落としたまま訊いた。
「書いたのは僕ではない。今から五年前、たまたま読んだ週刊誌から僕が切り取って、ファイルに入れておいた。そしてそれっきり忘れていた。今度の引っ越しが終わって、大きな物の整理はついた。残ったのは本棚の本と資料。資料から手をつけようかと思い、なにげなく手に取ったファイルのなかに、これがあった」
「この記事に書いてあるのは、五年前の出来事なのね」
「そう」
「解決したのかしら」
「いま調べてもらっている」
「あなたはこの出来事に興味を持ってるの?」
「だからこそ、切り取ってファイルまで作って保管した」
「ノンフィクションの材料?」
「そうなる以前の、興味の対象としての、ネタのひと粒。その記事が伝える出来事について、どう思う?」
「想像は自由に可能です」
恵子は答えた。思考経路とそのあらわしかたにおいて、くっきりと明快でありつつ自在にしなやかであるという特徴を、高村恵子は持っていた。
「どんなことを思うのか聞かせてほしい」
「暗い方向へは、考えたくないの。私の気質的な方針として」
「暗い方向とは?」
「殺されてどこかに埋められ、いまはもう白骨だけというような」
「それは、想像として、つまらないね」
「それでいきどまりになってしまうから」
「いきどまりにならない方向で想像すると、どんなふうになるだろう」
「奇想天外がいいわ」
「たとえば?」
「彼女はかぐや姫」
「月へ帰ったのか」
「かならずしも帰らなくてもいいのよ」
「詩人の発想だね」
「では、ノンフィクション・ライターの発想は?」
「彼女がいまも失踪したままであるなら、たとえば彼女の写真を、可能なかぎりたくさん集めてみたい」
「資料ね」
「その記事によれば彼女は美人だということだ」
「ええ」
「ほんとに美人なのかどうか」
「写真を見て確認したいの?」
「どの程度の美人なのか。どのような質の美人なのか。この出来事に対する僕の興味は、そのあたりから始まる」
「美人ではなかったら?」
「別な興味を持つだろう。たとえばひとりの人が、日常のまんなかでふっといなくなってそれっきりとは、いったいどういうことかという視点」
「いなくなった理由や原因は、他律あるいは自律の、どちらかでしょう」
「それこそが、最初の大問題だね」
「私の結論を出すなら、彼女はどこかで元気なのよ。それが私の好みです」
「高村恵子のフィクション世界」
「そうね」
恵子はコピーに視線を伏せた。記事の最後の文章を、彼女は声にして読んだ。
「しかし、しきりに気になるのは、消えたその独身OLが、妙齢の美人であるという事実だ」
恵子は日比谷に顔を向けた。
「美人は気になるものなの?」
彼女が訊いた。
「なるさ」
「なぜ?」
「美人だよと言われれば、この目で見てみたい。きみも、美人だね」
「そう?」
「文句なしだ」
「気になる?」
「なるよ」
「それほど気になるなら、早いとこなんとかしてくださればいいのに」
「なんとかするとは?」
「私を秘書に雇って、日頃の労をねぎらうためにまず温泉に連れていって。秘書の私が旅館の部屋を予約しますから、あとはもう時間の問題よ」
「今後の課題にしよう」
と答えた日比谷は、
「高村さんと僕が知り合ったのは、いつだっただろうか」
と、訊いた。
「五年前の五月」
「ちょうどその出来事があった頃だ」
恵子が手に持っているコピーを彼は示した。
「そして高村さんは、消えたその女性とおなじ年齢だ」
ほどなくふたりは店を出た。エレヴェーターで降りていき、建物の外へ出た。五月の夕方の銀座だった。晴海通りの歩道で、ふたりは左右に別れた。その場所に立ったまま、日比谷は高村恵子を見送った。歩いて行く彼女のうしろ姿を、彼は観察した。
恵子は、ふと振り返った。日比谷が自分を見ていたことを知って、彼女は笑顔になった。見ているような気がしたけれど、やはり見ていたのね、という意味の笑顔だ。彼は手を振り、彼女も手を振った。そして建物の向こうに見えなくなった。
それから三十分後、日比谷昭彦は次の待ち合わせの席にいた。いまいくつか仕事が進行している。そのうちのひとつに関して、担当の編集者と夕食をともにしながら、語り合う。中年の編集者は若い部下をひとり連れて来ていた。コーヒーでしばらく雑談したあと、夕食の店へ移った。
日比谷には初めての店だった。思いきりのいい小粋な料理は、どれも上出来だった。酒は身の危険を覚えるほどに、澄んだ香りをたたえて清冽だった。酒がまわるほどに、編集者の世界観の披露となった。いつもどおりだ。その世界観に対して、日比谷や部下がどう反応するか。喧嘩になるほどの世界観ではないから、それはそれで、夜が更ける以前の時間の、小さな出来事としてはかたどおりだった。
有楽町で彼らと別れ、日比谷昭彦は地下鉄で新宿へ出た。そして小田急の各駅停車で、新しい仕事場のある場所へ戻った。急行の停車駅でもある駅を出て、夜道を彼は部屋のある建物まで歩いた。ロビーの内側のドアを部屋の暗証番号で彼は開けた。そしてエレヴェーターで三階へ上がった。玄関のすぐ脇、奥に深い間取りのいちばん手前にある準備室へ、彼は入った。テーブルのファクシミリから、受信した紙きれが垂れ下がっていた。その紙を切り取り、彼は読んだ。出かける前に電話で話をした週刊誌の編集者、矢野からだった。
「先刻お問い合わせの件」
と、太いソフト・ティップ・ペンで大きく、一行に書いてあった。その下に続く文面は、次のとおりだ。
「事件ものを中心に数人で遊軍を組んでいたうちのひとりが、単独で取材・執筆したものと判明。社外の契約ライターで、男性です。取材の発端は新聞のベタ記事であったと、当時のデスクから確認ずみです。どの新聞かは不明。縮刷版の検索はそちらのこととして、取材・執筆者の氏名・現住所は末記のとおり。以前から東京在住で、家業を継いでいるとのこと。家業は喫茶店。下北沢。店へ何度かいったことのある人に不正確ながら略地図を描いてもらいました。電話その他、当編集部に連絡はときどきあり、コンタクトは切れていない由」
男性の氏名と東京の住所と電話番号、そして略地図のあとに、矢野は次のようにつけ加えていた。
「近日中に、一杯から十杯くらいまで、いきましょう」
繰り返して読んだ日比谷は、自分が五年前「個人的な出来事」と見出しに書いたファイルに、その受信紙を入れた。
廊下に出て間取りをひととおり見て歩き、洗面室に入って手を洗った。今夜はここに泊まろうか、と彼は思った。畳の部屋にはじつに快適な寝袋が置いてあった。準備室からファクシミリの受信音が聞こえ始めた。彼はその部屋へ戻った。作業テーブルのかたわらに立ち、少しずつ印字されて出て来る紙を、彼は見守った。受信が完了してから、彼はその紙を切り取った。外出する前に情報の提供を依頼した友人からの、ファクシミリによる返信だった。
消えた女性の本名は、後藤美代子というのだった。生年月日の次に当時の住所があった。この新しい仕事場のすぐ近くであることに、日比谷は少なからず驚いた。週刊誌の記事では「郊外の私鉄」となっていたが、小田急線だったのだ。この住所なら、彼女が電車を降りた駅は自分がいつも利用する駅から二つと離れていないはずだ、と彼は思った。
彼女の勤務先は新聞社の調査部だった。その新聞社の名があげてあった。両親およびひとりの弟と、自宅に同居。父親の名は後藤幸吉、弟は洋介といい三歳年下。最後にあげてあったのは、捜索願いが受理された日付だった。以上の簡単な情報を、二度繰り返して彼は読んだ。いなくなって五年たったあと、後藤美代子に関して残っていることは、最終的にこれだけでしかない、と彼は思った。
テーブルの引出しから彼はファイロファクスを取り出した。黒い革表紙のバイブル・サイズだ。なかにリフィルは入っていなかった。白紙のリフィルも取り出した彼は、それをバインダーの直径いっぱいにはさんだ。そして最初のページに、矢野と友人から届いた情報を、すべて書き込んだ。行方不明のままの後藤美代子という女性に関して、自分で独自に取材することに、彼はさきほどきめた。取材を開始すれば、分厚いリフィルはたちまち情報で埋まっていくはずだ、と彼は思った。
椅子にすわった彼は、書き込んだ情報を見た。
深夜にひとりで静かに興奮している自分を、彼は自覚していた。熱中出来るノンフィクションの発端は、彼の場合、いつもきまってこのようだ。いまはまだほんのわずかでしかない情報に、彼は確かな予感を感じた。
廊下に出た彼は、本棚から都内の区分地図を出した。部屋のなかに戻り、椅子にすわって世田谷区のページを開いた。五年前には後藤美代子の自宅があり、引っ越しをしていないかぎりいまもそこにあるはずの場所を、住所を頼りに彼は地図のなかに探した。そしてその場所を略地図としてファイロファクスに描き写した。
明かりを消してファイロファクスだけを持ち、彼は部屋を出た。ドアをロックし、エレヴェーターで一階へ降りた。
建物を出て駅へ歩いた。最終のひとつ前の、上りの各駅停車に彼は乗った。そして、後藤美代子が降りた駅で、彼も降りた。改札を出て、ファイロファクスに描いた略図を一度だけ見て確認し、そのとおりに歩いた。駅から七、八分の静かな住宅地のなかに、表札に後藤と出ている二階建ての家を彼は見つけた。
後藤美代子の自宅がおなじ場所に存在していることだけを確認して、彼は駅に戻った。下りの最終までに数分の余裕があった。それに彼は乗った。多摩川を越えてその少し先に、かつて両親が住んでいた家が現在もあった。両親は他の場所へ移り、いまは独身でひとり息子の日比谷昭彦が、自分だけの場所としてその家に住んでいた。
今夜の彼はその家へ戻った。