Chapter 1 of 4

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進化學より見たる哲學

加藤弘之

井上哲博士が先頃心理學會で「哲學より見たる進化論」と云ふ題にて講演されたとのことで、それが哲學雜誌の第二十五卷第二百八十一號に掲載してある、それを讀で見ると余の意見とは全く反對であるから余は今囘「進化學より見たる哲學」と云ふ題で聊か批評を試みたいと考へたのである、併し余は進化學も哲學も十分に知て居るのではないから井上博士の説を批評する抔いふことは頗る大膽すぎたことで到底物にはなるまいと思ふ、豫め此事を申述て置く。

ところが博士の講演は隨分長いものであるから一席の演説に、それを委しく批評することは到底出來難い、仍て其要點と思ふ部分に就てのみ論ずる考であるが併しそれにしても又隨分長い演説になるであらうと思はれるのであるから務めて簡略にする考である。尤も博士の論説の大要を始めに擧げて、それから後に余の意見を述べるやうにするよりも先づ博士の論説の中を一節宛切て擧げて毎節に余の批評を加へることにしやうと考へる、そこで博士は先づ左の如く述て居る。

井上博士曰、余は決して進化論を否定せぬのみならず、それを大に道理ある學説と考て居るのであるが併し惜いことには進化論は唯末の事のみを見て根本的の道理を忘れて居るやうに思はれる點が少なくない、然るに凡そ進化を説くには必ず先づ運動といふことを説かねばならぬ、而して其運動を説くには必ず又其起因となるものがなければならぬのであるけれども、進化學は夫等の事を全く不問に付して少しも研究せぬのであるから其道理から考へると進化論は決して哲理とはならぬのである、進化論では靜的實在から動的現象の始めて生ずることも全く解らぬ、此靜的實在なるものは哲學上種々の名目がある、佛教では眞如實相と云ひスピノーザ氏は本體(Substanz)と云ひカント氏は物如(Ding an sich)といふの類である、けれども進化學者には左樣なものは少しも解らぬから唯々末の研究のみをして居て其本源には一向構はぬのである云々。

評者曰、宇宙には必ず一の靜的實在なるものがあつて是れは微塵も動かぬものである、實在は不動であるが現象は動である抔と考へるのが抑の大謬見ではなからう乎と余は考へるのである、動靜といふ反對の状態は古來學者に限らず一般に想像することであるけれども余の考ふる所では眞の靜なるものは絶無であつて靜と見えるのは全く動の少ないのではない乎、宇宙萬物皆恆に活動して居るのであらう、其外に唯一の靜なる實在があるとは何分にも考へられぬではない乎、物理學の開けぬ時代には熱の反對に寒なるものがあると考へたのであるが、それは大なる間違で寒と認めるのは全く熱の少ないのであるといふことが解つたのであるが動靜の反對的状態も矢張それと同じことではない乎、併し井上博士は實在は宇宙萬物の一ではない全く宇宙の本源である、それゆへ活動するものではないと言はれる乎も知らぬが其主張の謬つて居ることは後に解るであらう。

評者又曰、右の理を説くには先づ所謂實在即ち宇宙本體なるものから説き始めねばならぬのであるが井上博士に限らず凡て形而上學者と歟又は唯心哲學者と歟いふ者は宇宙の本源として一種の大心靈を認める、尤も是れは必ずしも人格神の如き人間に類似した本體であるとしないにしても必ず畢竟一種の絶大なる意思を有して居るものとなるのであつて是れが即ち全く靜的實在である、カント氏の如きは人格神を信じたのであるけれどもショッペンハウエル氏の如きは左樣なるものは信ぜぬが併し宇宙の本體は意思であると認めたのであるから是亦矢張大心靈であつて畢竟する所は人格神と同樣矢張不可思議的神秘的超自然的超越的のものになる、一層罵詈的に云へば即ちお化となるのである。

評者又曰井上博士の靜的實在なるものは決して人間らしき神と歟佛と歟でないことは能く解つて居る、或は支那で天と歟上帝と歟いふの類又は佛の眞如實相といふ類である乎も知れぬ、併し兎に角左樣なる實在には必ず大意思大心靈があつて、それが宇宙を支配するといふことになるのである、而して此大意思大心靈の力で以て始めて宇宙に現象が起るといふことになるのである、是れが即ち井上博士の哲理であると考へられる、けれども右の如き大意思大心靈たる實在なるものが始めて宇宙に現象を起すとするならば、其力は非常に大なる動ではあるまい乎、非常に大なる動力があるからこそ始めて宇宙の現象を起し得るのではあるまい乎、兎に角大意思と云ひ大心靈と云ふ言辭の上に明かに大動力の意味を顯して居るではない乎と余は疑ふのである、果して然らば靜的なる意義は如何に解してよき乎、余は甚だ惑ふことである。

井上博士曰スペンサー氏は所謂「不可知」を説て宇宙の本體なるものは何である乎決して解らぬ、それは哲學の研究すべき領域でないといふやうに説て居るが是は甚だ謬つたことであるけれども併しヘッケル氏に至ては決してそれどころのことではない、靜的實在を全く輕蔑して居る、全く無いものとも言はぬけれども何の用をもなさぬものゝやうに論じて居る、それは左のヘッケル氏の文で解る、Was als ”Ding an sich“ hinter der erkennbaren Erscheinungen steckt, das wissen wir auch heute noch nicht. Aber was geht uns dieses mystische ”Ding an sich“ berhaupt an, wenn wir keine Mittel zu seiner Erforschung besitzen, wenn wir nicht einmal klar wissen, ob es existiert oder nicht?ヘッケル氏の個樣なる議論といふものは全く實在を無視して居る、同氏は又宗教をも全く迷信として顧みないのであるが同氏を尊崇する加藤の如きも矢張同樣である、然るに宗教の古來今日迄存在して居るのは宇宙間には到底自然科學で解釋の出來ぬものがあるから、そこで宗教が必要になるのであつてスペンサー氏の如きも「不可知」を立てゝ宗教と科學とを調和することに努めたから多少道理が立つけれどもヘッケル氏に至ては左樣なことさへせぬのである云々。

評者曰、スペンサー氏は博士の論ぜられる如く宇宙の本體は何である乎、到底自然科學で解るものでないと認めて「不可知」を立てゝ宗教と科學との調和を圖つたのであるけれども此調和といふことに就ては余は甚だ服せぬのであるが併し、それは別問題であるから今は論ぜぬことゝして唯スペンサー氏が宇宙本體の如何は到底不可知であると斷言したことに就ては少しく論じたい、それに就て論ずると余が宇宙本體と認めるものを論ずるに大に便宜を得ることになるからである、スペンサー氏は形而上學者でも又唯心學者でもない、全く經驗學者であるから同氏の不可知論には固より大に取るべき所があるやうに感ぜられる、宇宙本體の性質にも又現象の性質にも今日迄人智で解釋の出來ぬことは夥多あるのであるが併し其中には到底不可解の事と今日未可解の事との別もあるであらう、けれども古代に於けるスピノーザ氏と今日に於けるヘッケル氏等とが宇宙本體と認定したるマテリーとエネルギーとの合一體(Einheit der Materie und Energie)が實に宇宙本體であるに相違ないとするだけのことは決して不都合のないことと余は考へるのである、余が何故左樣に言ふ乎と云へば右マテリーとエネルギーとは始終變化はあつても其物それ自身は全く恆久的(konstant)で絶て生滅のないものであるといふことは近世化學と物理學とで發見されたのである、即ち自然科學の經驗上確證を得たことで決して想像説でも假定説でもないのである、それが果して全く生滅のないものである以上は如何にしても、それを他造物であるとすることの出來ぬのは言ふ迄もないことと思ふ、それゆへ余は此マテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙の本體とすることに就て聊も疑はぬのである、但し此説を抱く學者中に二派があつて一はマテリーを主としてエネルギーを屬とし又一はエネルギーを主としてマテリーを屬とするのであつて甲は即ちホルバフ氏やビユフネル氏の唯物論であり乙はライブニツツ氏やオストワルド氏の Dynamismus 即ち Energetik(唯力論とでも譯すべき乎)であるが然るに此二派を共に非として一に偏せざる中央派とでも稱すべきは即ち所謂 Hylozoismus でスピノーザ氏の説も此意味になるのであらうと思ふがヘッケル氏は確かに此説を取るのである、而して余も亦此派を是認したいと考へる。

評者又曰若しも此マテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙の本體とせぬときは本體と宇宙とは全く別物となつて宇宙は外物のために支配されることになる、宛かも神のために支配されるのと同じことである、ところがマテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙本體とするときには本體と宇宙とは全く一物となつて本體即ち宇宙、宇宙即ち本體と云ふことになる、其點が即ち自然的と超自然的との分れる所以であると思ふ、猶一寸茲に言はねばならぬことがある、博士はスピノーザ氏の本體を靜的實在の一例に引いたけれどもスピノーザ氏の本體は唯今も述べた如く他學者の實在とは違ひ超自然的でなく全くマテリーとエネルギーとの合一體であるから此點は大に注目せねばならぬことと思ふ、一寸此事を斷つて置く。

井上博士曰進化論は右の如く宇宙の實在抔には一向頓着なく唯動的現象界の事のみを主旨として研究するのであるから純形式的の眞理に對しては何の解釋も出來ぬ、例へば二と二とが四となり三と三とが六となるといふが如きフォーミュラー抔は是れが如何に進化する乎、又論理の三原則の如きも決して進化するものでない、のみならず進化律それ自身が毫も進化せぬではない乎、凡て靜止的眞理に至ては進化抔いふことはない全く恆久不變である、又空間時間の如き是れが如何に進化する乎を聽きたい、加藤の如きは空間時間抔に就て何の考もないやうである云云。

評者曰凡そマテリーとエネルギーとは必ず進化するものと余は信ずるのであるが唯進化せぬものは自然法それ自身である、進化律は自然法の一部であるから、それゆへ進化すべきものでないのである、數學的フォーミュラーの如きは是れは全く自然法それ自身である、又論理の三原則の如きも矢張同樣自然法それ自身である、それゆへ固より進化すべきものではないのである、ところが空間時間であるが是れは自然法それ自身とは言へぬけれども併し是れはマテリーでもエネルギーでもない、それゆへ是れは進化せぬのである、進化するのは唯マテリーとエネルギーとのみであるといふことを知らねばならぬ。

井上博士曰スペンサー氏もヘッケル氏も其他の進化論者も凡て機械主義であるが是れは隨分面白い點もある頗る痛快でもある、此主義では神が宇宙を造つたと歟又は神が宇宙の先き先き迄を見透して人間の運命を定めると歟いふ所謂目的主義を全然破壞するのであつて、それに代へるに自然淘汰性欲淘汰なる主義を以てして生物の生存競爭に依り其勝敗が定まつて乃ち淘汰が出來るといふことを説くのであるから實に痛快である、けれども余は茲に一の疑問がある、凡て進化といふことが全然一の目的なしに絶對機械的に出來るものであらう乎如何といふに、其れは甚だ疑はしい、抑進化なるものが單純から複雜に移り無秩序から秩序に到るといふのであるとすれば此進化なるものが決して偶然の出來事でないことは明かであつて全く法則的に出來るのである、して見るとそこに自然と目的が立つて居るやうに考へられるではない乎、尤も決して神の立てたやうな目的ではないけれども必ず進化の方針が定まつて居るやうに思はれるではない乎、進化は決して亂脈ではない必ず其道筋が定まつて居るに相違ないのである云云。

評者曰一定不易の法則即ち自然法で以て起る現象が決して盲目的でない偶然的でない、自然力は必ず斯くあるべき因があつて斯くあるべき果が生ずるのであるから、それゆへ宇宙の現象は宛かも初め目的を定めて其目的通りに出來るのと同じやうに見えるには相違ない、けれども初め目的を定めるといふ一の超自然力は絶てないのである、唯宛かも、それがあるのと同じやうな結果になるといふに過ぎぬのであるから、それを目的法であるといふことは決して出來ぬ、矢張因果法とせねばならぬのである、茲に一の比喩を設けて説明して見やうならば古代にあつては地球が太陽を囘ると思つて居る、然るに天文學の開けで、それは大なる謬で反對に地球が太陽を囘るのであるといふことが解つた、けれども此の如き謬つた考も實際には餘り不都合はない、矢張太陽が地球を囘ると見て居ても、それで暦も出來れば又日月蝕も測れるのであるのであるが、學理上因果法であるものを謬て目的法と見て居ても、それは實際上餘り不都合はないのである、けれども、それを學理上から考へれば太陽が地球を囘るといふのと全く同樣なる謬見になるのである。

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