七
翌くる朝は空は晴れて居たが風は中々強かつた。浪は高く岸に砕けては深く石垣の下まで押し寄せて来た。岬端から遠く沖の方へ一体に黒ずんだ海面には、浪の穂尖が白く風に散つて絣模様に見えた。併し入江は自然の防波堤の為めに浪は左程に立たなかつた。沖漁に行く船は皆陸へ引き揚げてあるが、小伝馬船は皆舳を揃へて繋いであつた。そしてどの船もどの船も昨日の鰹を揚げるのに忙しがつた。男は皆裸になつて、或は船から籠に入れ、或者はそれを浜へ運んで居た。女達はそれを受取つて浜納屋の側へ運んで居た。そこには大釜を据ゑて盛に蒸して居つた。釜の側には日蔽をして、十幾人の女が円座を作つて魚を切つて居た。舟の掃除をするもの、海へとび込んで騒ぐもの、往く者来る者、帳面を持つて立つて居る者、浜は近来にない活気を呈して居た。笑ふ声、唄ふ声、子供の泣く声、それを叱る声、罵る声、呼ぶ声、命ずる声、種々の物音が相混じ相乱れて騒がしいと言つたらなかつた。納屋の屋根や、樹の上には鳥が真黒になつて啼き騒いで居た。隙があつたらとび下りて掴み去らうと空高く舞うて居る鳶も幾羽も居た。何処からともなく沢山の猫が集つて来て人の足許やそこらにうろついて居た。
平三は表紙一ぱいに肉太に「浜帳」と書いた厚い帳面と矢立とを持つて、先刻から岩の上に腰かけて此活気に充ちた光景を眺めて居た。かうした激しい活動の間に立ち交つて、自分も其中の一人であることが非常に愉快であつた。昨日今日東京から帰つたばかりとは思はれぬ程、気分が田舎生活に同化して居るのを感じた。眼の前に働いて居る多くの漁夫等と心持の上で何等の間隔がない、自分もそれらの人々と同じく今日まで漁夫の生活して来た者の如く思つた。若い男や女に交つて、後で考へると我ながら気恥しく思ふ様な洒落や戯談をも平気で言つたりした。
十時頃には大方片附いた。どの船からも血の交つた垢水をかひ出したので入江は赤土の泥を流した様に濁つた。船は綺麗に洗つて、お互に手伝ひ合つて陸へ揚げた。そして帰る者は帰つて行くし、残つて幾組にもなつて悠つくりと話し合ふ者もあつた。忙しいのは鰹節を拵へて居る者ばかりとなつた。今晩夜更までかゝらねば蒸し終へないだらうと本家の主人は天気を気遣ひながら言つて居た。
「どうかまあ、今日明日だけ雨にしたくないもんだが、怪しいもんだ。」と空を見上げて言つた。
製造法や売捌のことや損益のことなどについて暫く本家の主人と話して、平三と平七とは帰つた。磯二は若い者等と尚ほ浜に残つて話して居た。
「総体でどれだけあつたかいの。」と平七は途すがら平三に尋ねた。
平三は歩きながら帳面を開いて、
「昨日からのを合せて一万以上になります。」
「一疋一銭として百円余か、随分獲つたなあ、自家が一番多かつたらう?」
「さうだつたでせう。本家へ持つて行つたのは自家が一番多いといふことでした。」
「何にせい思ひがけぬことで大い拾ひ物した様なもんぢや。」
「さうですね。たつた二日、それも一日みたいなもんですからね。」
「ほつほ、気味の宜いことやつたなあ。」と平七は快活に言つたが、急に調子を変へて、「それでもお桐の葬式料とお前の道中金が出来たわい。」と言つた。
平三はハッとした。が何気なく、
「葬式には大抵どれほど要るもんですか。」と聞いた。
「さうやな、四五十円は何うしても要るな。」
「中々要るものですね。」
「眼に見えん入費が要るさかいな――借金せんならんと思ふとつたが、それでも其心配は要らん様になつた。嬉しやな。」
「都合が好うございましたねえ。」
「ぢやが何にも残らんなあ、みいんな担いで行つて了ふんだ、使へるだけ使ひ尽して、そして死ぬ時にや、こつぽりと集めて持つて行くんだから。」と平七は嘆くやうに言つた――「まア仕様事がない、どうしたもんだ、どうも仕様がない。これだけに尽いてやれや、彼も満足やらうぞい。」
そして平七は寂しい徴笑を洩らした。其中に家へ来た。父は外から、
「お桐帰つたわいの、寂しかつたかいな。」と声をかけた。
お桐は眠つて居たか返事がなかつた。お昼の仕度には父は納屋の戸前で肴の料理を始めた。平三は炉に火を焚きつけた。納戸から呻声が聞えた。平三は「お桐。」と呼んだが矢張返事がなくて、うん/\と呻つて居た。続いてはつはと急促な呼吸づかひに変つた。もう一度呼んで見たが返事がなかつた。
「眠てるんやらう、黙つとれ/\。」と平七は外から平三に言つた。
其中に磯二も帰つて来た。お菜が出来上つた頃、町へ行つて居たお光も帰つて来た。お桐も眼を覚した。飯を食べる時お光はお桐にも出て来て一緒に食べんかと言つた。が平七はそれを制して、
「今、混雑しいさかいお前は後に食べいの、済んだら其処へ持つて行つて呉れるさかい、お前のに別に刺身が拵へてあるわいの。――それとも一緒に食べたかつたら出て来てもよけれど。」と腕曲に言つた。
平三は母の顔を窃かに見た。
「え、後にします。」とお桐は力なく答へた。