一
太政官。それは私たちがまだ生れぬ前にあつたものださうな。――
「太政官て何のことやいな、一體。」
「知らんのかいな、阿呆。……教へたろか、新田の茶瓶のこつちや。」
「そら知つてるがな、言はんかて。……其の太政官て何のことやね。」
「太政官ちうたら、太政官やがな。お上の役人のこつちや。」
中の村の青年會の事務所で、二人の若い男がこんなことを言つてゐると、今一人の稍年を取つた男が、
「二人ながら知りはらんのか、あかんな。太政官ちうのは、明治十八年まであつたんで、つまり今の内閣のことや。……太政大臣がゐて、それが今の總理大臣や、それから左大臣に右大臣、參議が四五人、これだけで最高の政治をしてたんやがな。」と、下唇の裏を前齒で噛み/\言つた。
「あゝ、さよか。……そいで新田の茶瓶さんが、この村の太政官ちうことだすな。」と、常吉と呼ばるゝ、材木屋の二男は、さも感心したといふ風で言つた。
「あの太政官も、もうあけへんがな、中風で杖つかな、座敷も歩かれへん。」と、伊之助といふ中百姓の長男は、其の白く廣い額に、ラムプの光を受けて、眩しさうにしてゐた。
「中風でも、レコの方は生れてから一遍も知らんのやちうさかいなア、あゝなつても、なかなか保つちうやないか。」と、仙太郎といふ漂輕な若者は、右の拳で變な形をして見せつゝ、高らかに笑つた。これは郵便局の一人息子で、父に代つて事務を取つたりしてゐた。
「ぽし/\始めようか。……竹さんは今夜休むんやろ、待つてゝも仕樣がない。」と、年嵩の淺野貞一といふ小學校教員は言つた。徴兵前の男ばかりの中に、この人の二十三といふのが目立つて老けてゐる。
「さうだすな。」と三人の若者は、近頃喫み習ひかけた煙草の道具を片付けて、其處に並べてある形の揃はぬ寺子屋流の机に向つた。正面には淺野先生が構へ込んで、手摺れのした黄表紙の日本外史を披いた。他の三人も銘々に同じ本を披いた。
「……頼朝乃屬之狩野宗茂具湯沐令姫千手侍浴。因問其所欲。重衡欲削髮頼朝不許。因餽酒遣千手及工藤祐經佐之。祐經皷。千手彈琵琶。重衡屬杯千手。朗吟曰燭暗數行虞氏涙。夜深四面楚歌聲。頼朝微行。側耳戸外聞而憐之。更遣名妓伊王。與千手更直。明年六月。以南都僧侶請。斬于奈良阪。二女削髮爲尼云。」
常吉が行き止まり/\、此處まで讀んで來ると、淺野先生は雙子織の羽織の胸に附けた紙捻の紐を結び直しながら、太い聲で、
「其處まで。」と言つた。さうして常吉は其の半枚を、講義しかゝつたが、解らぬところが多くて、淺野が殆ど總てを代つて講じた。
「これでは輪講やないな。のツけ(初めの事)から淺野はんに教へてもろた方がよいやないか。」と、仙太郎は笑つた。常吉は面皰の多い顏を眞赤にして差し俯伏いた。
「……千手と、それから工藤祐經をやつて、酒の相手をさした。……相手といふのも可笑しいが、まア取り持ちをさしたんやなア。………」
淺野はかういつた風に、自分で引き取つて講義をして行つた。
「工藤祐經て、あの工藤左衞門やらう、赤い臺の上に坐つて、ピカ/\した羽織着て、ゴツい紐結んでよる奴や。……吉例曾我の對面。……」と、伊之助は臺詞のやうな聲を出した。一同は本から眼を離して、どツと笑つた。
「祐經が鼓を打ち、千手が琵琶を彈いた。………」
一所になつて笑つてゐた淺野は、一番先きに笑ひを止めて、講義を續けた。
「工藤左衞門、鼓知つてよるんやなア、あいつ、なか/\隅に置けん。」と、常吉は眞顏で言つた。
「重衡ちう奴も、悠長な奴や。何時殺されるか知らんのに、散財してよる。……酒もげんさい(美人の事)も向ふ持ちで、腹の痛まん散財や。」
「鼓なんぞぽん/\やりやがつて、工藤左衞門て、幇間やないか。……幇間一人殺さうおもて、曾我兄弟は長いこと一生懸命になりよつたんやなア、阿呆らしい。」
仙太郎や伊之助が、いろ/\のことを言つては笑はすので、淺野は、
「靜に。」と、學校で兒童を叱る時其のまゝの聲を出してから、
「重衡は杯を千手に獻して、えゝ聲で歌うた。……」とやりかけると、仙太郎がまた、
「もう燒け糞やなア。」と、小ひさい聲で言つて、一寸舌を吐いた。
「燭は暗し、數行虞氏の涙、夜は深し四面楚歌の聲。………」
巧く節を附けて、淺野が吟聲をやり出したので、一同は呆氣に取られた顏をした。
「いよー、重衡。……色男。」と、伊之助が叫んだ。
「これは支那の項羽のことを引いたので、項羽が漢の高祖に負けて、……」と、虞美人のことから、「力拔山兮氣蓋世」の歌まで引き合ひに出して、淺野は自分一人で面白さうに講義をしてゐた。
「……頼朝が更に名姫、……………名高い白拍子、……藝妓やなア、其の名妓の伊王といふ女を重衡のところへやつて、千手と伊王と二人で、更直した、……交る/″\お伽をした。……」
「ひよー、耐まらんな。」
兩手を高く擧げて、仙太郎が大きな聲を出した。
「もう殺されてもよい。」と、常吉は相變らず眞顏をしてゐた。
「頼朝て、なか/\粹なおツさんやないか。」と、伊之助は首を傾げた。
「自分が好きやさかいな。……伊東の辰姫を引ツかける、北條の政子を引ツかける。行く先き先きで箒黨や。」
先生の淺野までが、こんなことを言ひ出したので、輪講は到頭滅茶々々になつた。
「君、面皰とりのえゝ藥はないか知らん。」と、言ひながら、常吉は早や本を疊んで懷中に入れてゐる。
「面皰なんぞ出けたて構やせん。却つて看板になつてえゝぐらゐや。」と、仙太郎も本を疊んで煙管を取り上げた。
「えらいこツちや。どえらいこツちや。……學校の二階が墜ちた。……」と、張り上げられるだけの高聲を張り上げて、神主の息子の竹丸が馳け込んで來た。
「こいつ、また人を騙さうと思ひやがつて、……」と、仙太郎は火の付いた煙管を振り上げて打つ眞似をした。
「騙すもんか。嘘と思ふんなら、いて見といで、………」
青年會員の中で唯一人の少年、竹丸は、日本外史が懷中から拔け落ちさうになつたまゝ、南京鼠のやうに、一同の周圍をはり歩いた。
「これツ。」と、淺野は叱り付けるやうに言つて、片手で竹丸の袖を捉へながら、
「竹さん、學校の何の邊の二階が墜ちたんや。皆んな墜ちたんか。」と訊いた。
「役場になつてるところが墮ちましたのや。……わたへなア、いんま數さんとこへ使に行きましたんや、數さん役場の夜なべに手傳ひにいてはりますのや。ほいたら、役場が學校の天井と一所に教場の上へ墜ちて、大騷動だすね。」
一息に此處まで言つて、竹丸はほツと息を吐いた。
「そいつは面ろいな。いて見て來うか仙さん。」と常吉は中腰になつた。
「役場の下んとこは、一年生の教場だツしやろ。晝間やつたら、一年生が皆んな地獄おとしにかゝつた鼠や、びしやりといわされよつたんや。……さうすると面ろかつたんやがなア。」
竹丸は得意氣にかう言つたが、ハツと氣がついた風で、
「あゝ淺野先生は一年生の受持だしたなア、……先生は大人やもん、上手に逃げはるやろ、地獄おとしにかゝらはれへん。」と、きまりわるさうに首を縮めた。
「誰れも怪我しやはれへなんだか。」
心配さうな顏をして、淺野がかう訊いた時、表の方の暗黒から、
「先生。」と呼ぶ婀娜かしい聲がした。
「どなた。」と、淺野が優しい顏には不似合に突き出た咽喉佛を、ゴク/\動かして、咎めるやうに言つた聲は、例もよりまだ太かつた。
「わたし。………」
「わたしちう名はおまへん。」
「ほゝゝゝゝ。………」
「ほゝゝゝゝ、ちう名もおまへん。」
「先生嫌ひ、わたしだすがな。……お夜食持つて來ましたんや。……仙さん。……」
「今になつて仙さんか、有り難いこツちや、どつこいしよ。」と、仙太郎は立ち上つて、ヨタ/\と危ない腰付をしながら、入口の郵便局になつてゐる方へ出て行つた。
「伊東の辰姫か、北條の政子か。」と、伊之助は、正しく坐つてゐたのを胡座にして、ニヤリ/\笑つた。
「梅鉢屋の春姫や。」と、常吉もニヤリ/\しながら、淺野の顏を見詰めてゐた。
「さアえらい御ツつおうや、君茶を入れてんか。」
腸チブスの豫後の危ない腰付きを、一層危なツかしくして、仙太郎は大きな皿に入つた海苔卷鮓を恭しく捧げるやうにして持ち込んで來た。ツマに添へた紅生※の眞赤なのが先づ美しかつた。
表では駒下駄の音が、可愛らしく響いてゐた。