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仇討三態
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仇討三態
菊池寛
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 4

2

「近頃神妙に存ずる。愚僧は、今申した通りの者じゃ。御自分の父を打って松江表を立ち退き、その後諸国にて身上を稼ぎ申したが、人を殺した報いは覿面じゃ。いずこにても有付く方なく、是非なく出家いたしたのじゃ。ここで御身に巡り合うのは、天運の定まるところじゃ。僧形なれども子細はござらぬ。存分にお討ちなされい」

老僧の言葉は晴々しかった。

惟念は淋しい微笑を浮べた。

「討つ討たるるは在俗の折のことじゃ。互いに出家沙門の身になって、今更なんの意趣が残り申そうぞ。ただ御身に隔意なきようにと、かくは打ち明け申したのじゃ。敵を討つ所存は毛頭ござらぬわ」

老僧は折り返していった。

「いやいや、さようではござらぬぞ。ここは、御自分よくよく覚悟あるべきところじゃ。われらは、身上の有付きなきための、是非なき出家じゃ。御自分は違う。われらを討ち申されて帰参なさるれば、本領安堵は疑いないところじゃ。その上、我らを許して安居を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢などは思いも及ばぬことじゃ。在俗の折ならば、なかなか討たれ申すわれらではないが、かようの姿なれば、手向いは仕らぬ。早々、お討ちなされい!」

老僧の言葉は道理至極だ。惟念は、老僧を討とうという激しい誘惑を刹那に感じたが、それにもようやくにして打ち勝った。

「ははははは、何を申されるのじゃ。この期に及んで武儀の頓着は一切無用じゃ。愚僧は、もはや分別を究め申した。御身を敵と思う妄念は一切断ち申す。もし、貴僧にお志あらば、亡父の後生菩提をお弔い下されい!」

彼はそう潔くいい放つと、両手にも余る薪束を軽々と担ぎ上げながら、御堂の倉庫を指して一散に駆け下った。

薪作務があったために、その夜は「夜座各景」の触れがあった。それは夜の禅座の休止を意味していた。が、惟念には、その夜は大事の一夜であったから、自分一人単前に打座した。

隣単の雲水たちが、相集って法螺を吹いているのも耳にかけず、座禅三昧に心を浸した。いかに出家の身であるとはいえ、眼前にある父の敵を許したということが、執拗な悔恨となって心頭を去来したが、それがいつの間にか薄れてしまうと、神々しい薄明が心のうちをほのかに照らすような心持がした。初更の来たことを報ずる更点の太鼓と共に、いつもは大衆と共に朗読する「普勧座禅儀」を口のうちで説えた。高祖開闢の霊場で、高祖の心血の御作たる「座禅儀」を拝誦するありがたさが彼の心身に、ひしひしと浸み渡った。

彼が開枕板の鳴るのを合図に、座禅の膝を崩すまで、彼の心は初夏の夜の空のように澄み渡って、一片の妄念さえ痕を止めていなかった。

激しい薪作務の疲れのために、隣単の雲水たちは、函櫃から蒲団を取り出して、それに包まると、間もなく一斉に寝入ってしまったのだろう。十四間四面の広い僧堂のかしこからもここからも、安らかな鼾の声が高くきこえてきた。が、惟念には、昼間の疲れにもかかわらず、眠りはなかなか来なかった。座禅のために澄み切った心が、いつまでもいつまでも続いた。が、子の刻が近づくと、ついとろとろした。

彼は、夜半何事となくふと目覚めた。宵から、右の肩を下にして続けていたためだろう。右半身が痺れたように痛んだ。彼は、寝返りを打とうとした。が、不思議に彼の身体は動かなかった。彼は目を開いた。彼は、自分の顔の上におぼろげながら、人の顔を見た。聖龕の前の灯明の光しかない、ほの暗い堂内では、それが何人であるか、容易にはわからなかった。が、相手は彼が目覚めたのを知ると、明らかに狼狽した。

彼は、その狼狽によって、相手が昼間の老僧であることが分かった。それと同時に、その老僧の右の手に、研ぎ澄まされた剃刀がほの白く光っているのを見た。が、彼にはそれを防ごうという気もなかった。向うから害心を挟んできたのを機会に、相手を討ち取ろうという心も、起らなかった。ただ、自分が許し尽しているのに、それを疑って自分を害そうと企てた相手を憫む心だけが動いた。が、それもすぐ消えた。彼には、右半身の痺れだけが感ぜられた。

「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」

彼は、口のうちで呟くようにいいながら、狭い五布の蒲団の中で、くるりと向きを変えた。夢とも現ともない瞬間の後に、彼は再び深い眠りに落ちていた。

役僧の一人が、永平寺を逐電したのは、その翌日である。

その二

越後国蒲原郡新発田の城主、溝口伯耆守の家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに、親の敵和田直之進が、京師室町四条上るに、児医師の看板を掲げて、和田淳庵という変名に、世を忍んでいるのを探り当てた。

それを初めに知ったのは、弟の忠三郎であった。二度目に上方へ上ったとき、兄弟は京と大坂に別れて宿を取った。別々に敵を尋ねるための便宜だった。

弟の忠三郎が、三条通りを何気なく歩いていたとき、彼は町家の軒先に止まった医師のそれらしい籠を見た。籠の垂れを内から掲げながら、立ち出でた総髪の男を見たとき、彼は嬉しさのあまり躍り上りたかった。それは紛れもなく和田直之進だった。彼は、即座に名乗りかけて、討ち果したいと思ったが、兄のことがすぐに心に浮んだ。八年の間、狙いながら、肝心の場所にいあわさない兄の無念を想像すると、自分一人で手を下すことは、思いも寄らなかった。彼は逸る心を抑えながら、直之進が再び籠に乗るのを待ったのである。

彼は、敵の在り処を突き止めると、小躍りしながら、すぐ京を立って、伏見から三十石で大坂へ下った。が、その夜遅く、兄の宿っている高麗橋の袂の宿屋を尋ねたとき、不幸にも兄が大和から紀州へ回るといい置いて、三日前に出発したことを知った。彼の落胆ははなはだしかった。彼は、油で煮られるようないらいらしさで兄の帰宿を七日の間空しく待ち明かした。それでも、兄の忠次郎は、八日目に飄然として帰って来た。

兄は、弟から敵発見の知らせをきくと、涙をこぼして嬉しがった。兄弟は、その夜のうちに大坂を立って、翌朝未明に京へ入った。

が、翌朝、弟が敵の家の様子を探るため、その家の前を通ったとき、意外にも、忌中の札が半ば閉ざされた門の扉に、貼られてあるのを見た。弟は愕然とした。彼はあわてふためきながら、隣家について、死者の何人であるかをきいた。死んだ者は、紛れもなく和田直之進であった。

弟は、最初それを容易には信ずることができなかった。自分たちに発見されたのを気づいたために、自分たちを欺こうとする敵の謀計ではないかと思った。が、弔問の客の顔にも、近隣の人々の振舞にも、死者を悼む心がありありと動いていた。直之進の死を疑う余地は、少しも残っていなかった。

兄弟は、その夜三条小橋の宿屋で、相擁して慟哭した。短気でわがままな兄は、弟が見つけたときに、なぜ即座に打ち果さなかったかを責めた。が、その叱責が無理であることは、叱責している兄自身がよく分かっていた。兄は、切腹する切腹すると叫びながら、幾度も短剣を逆手に持った。そのたびに温厚な弟が制した。果ては、兄弟が手をとって慟哭した。彼らの慟哭は、夜明けまでも続いた。

八年の辛苦が、ことごとく水泡に帰した。張りつめた気が、一時に抜けた。兄弟は、うつけ者のごとく、ただ茫然として数日を過した。

弟が、ようやく兄を慰めて、郷里の新発田へ帰って来た。弟は、京都を立つ前、ひそかに所司代へ願い出て、敵直之進が、横死した旨の書状を貰った。

兄弟の家は、八百石を取って、側用人を務むる家柄であった。藩では、さすがにこの不幸な兄弟を見捨てなかった。兄忠次郎に旧知半石を与えて、馬回りに取り立ててくれた。

が、忠次郎は怏々として楽しまなかった。その上、兄弟についての世評が、折々二人の耳に入った。それは、決して良い噂ではなかった。二人は、敵を見出しながら、躊躇して、得討たないでいる間に、敵に死なれたというのは、まだよい方の噂だった。悪い方の噂は、兄弟をかなり傷つけていた。和田淳庵という医師が病死したからといって、それが直之進であるとは決っていない。ことに父が討たれたときに、弱冠であった忠三郎が敵の面体を確かに覚えていようはずがない。その忠三郎が、一目見たからといって淳庵が直之進であると決めてしまうのは、不穿鑿であると。これは、兄弟にはかなり手痛い非難であった。が、もっとひどい噂があった。兄弟は、敵討に飽いたのだ。わずか八年ばかりの辛苦で復讐の志を捨ててしまったのだ。和田淳庵という名もない医師が死んだのを、直之進が病死したのだといいこしらえて、帰参のいい訳にしたのだと。兄はそんな流言を聞くごとに、血相を変えていきり立った。彼はそうした噂をいいふらすものと、刺し違えて死のうと思っていた。が、そうした流言は、誰がいいふらすともなく、風のごとく兄弟の身辺を包んで流れるのであった。

兄弟にとっていちばん悲しいことは、そうした世の疑いを解くべき機会が、永久に来ないことだった。

年が明けると安政四年であった。兄弟にまつわる悪評も、やっぱり年を越えていた。が、安政四年の秋となり、冬となると、さすがに、兄弟のことを取り立てていう者もなくなった。短気な忠次郎も、腹を立てる日が、少なくなっていた。

が、兄弟が食うべき韮は、まだ尽きてはいなかった。

それは安政四年も押し詰まった十二月十日、同藩士の久米幸太郎兄弟が、父の仇、滝沢休右衛門を討って、故郷へ晴がましい錦を飾ったことである。

それが、なんという辛抱強い敵討であったろう。兄弟の父の弥五兵衛が、同藩士中六左衛門の家で、囲碁の助言から滝沢休右衛門に打たれたのが、文化十四年十二月、長男幸太郎が七歳、次男盛次郎が五歳のときであった。兄弟が伯父板倉留二郎の手に人と成って、伯父甥三人、永の暇を願って、敵討の旅に出たのが、文政十一年、兄幸太郎が十七歳、弟盛次郎が十五歳の秋だった。伯父の留二郎は、四十二歳であった。

三人は文政から天保、弘化、嘉永、安政と、三十年間、日本国中を探し回った。幸太郎が安政四年に、陸奥国牡鹿郡折の浜の小庵に、剃髪して黙昭と名乗って隠れて忍んでいる休右衛門を見出したのは、安政四年十月六日のことだった。

不幸にも、弟の盛次郎と伯父留二郎は、幸太郎と別れて関八州を尋ねていた。幸太郎は思った。弟や伯父の三十余年に渡る艱難も、ただこの敵に一刀恨まんためである、自分が一人で討ったならば、二人がさぞ本意なく思うであろうと。が、幸太郎は思い返した。二人は、今いずこにいるのか、先に手紙を出したが返事がない。敵の休右衛門は、七十を越した極老の者である。二人の音信を待つうちに、いつ病死するかもしれない。二人には、不義であろうとも、一日も早く多年の本懐を達するに若くはないと。幸太郎は、そう決心すると、翌七日、黙昭を欺き寄せて多年の本懐を達したのである。

父の弥五兵衛が討たれてから四十一年目、兄弟が敵討の旅に出てから三十一年目、兄の幸太郎は四十七歳、弟の盛次郎は四十五歳、伯父の留二郎は七十二歳の高齢であった。

兄弟がめでたく帰参したときは、新発田藩では、嫡子主膳正直溥の世になっていた。が、君臣は挙って、幸太郎兄弟が三十年来の苦節を賛嘆した。幸太郎は、亡父の旧知百五十石に、新たに百石を加えられた、盛次郎は新たに十五石五人扶持を給うて近習の列に加えられた。

一藩は兄弟に対する賛美で、鼎の沸くようであったが、その中で、鈴木兄弟だけは無念の涙をのんでいた。

人々は幸太郎兄弟を褒める引合として、きっと鈴木兄弟を貶した。

「鈴木忠三郎は、兄を迎えるために、便々と日を過したというが、幸太郎殿の分別とは雲泥の違いじゃ。敵を探し出しながら、おめおめと病死させるとはなんといううつけ者じゃ」

が、そんな非難はまだよい方だった。

「三十年の辛抱に比ぶれば、八年の辛苦がなんじゃ」

「八年探して、根の尽きる武士に、幸太郎兄弟の爪の垢でも、煎じて飲ませたい」

世評は、成功者を九天の上に祭り上げると共に、失敗者を奈落の底へまで突き落さねば止まなかった。

Chapter 2 of 4
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