1 演劇をつくる人と制度
編集部 今度「ピカデリー劇場」がアメリカ流のプロダクション制度による新しい実験劇場として発足したので、演劇をつくる人と制度といふやうな問題を中心にして御話を伺ひたいと思ひます。
実は昨日、正宗白鳥さんに久しぶりに遭ひましてね。いろんな話が出たんですけれども、正宗さんは東京に出ると芝居をなかなかよく見られるんですね。昨日も僕の顔を見て、「いつたい今の芝居はこのままでいいのか――?」(笑声)といふ話から非常に激しい調子で「なんとかこれはしなくちやいけないんぢやないか」と云はれる。正宗さんがさういふ調子で話をされることも非常に愉快だつたし、またさういふ機会に正宗さんがどういふことを考へてゐられるか僕は聴かうと思つて、それからいろいろ話が発展したんですけれども、「いつたいこのままでいいのか――?」と正宗さんが云はれるそのいちばん大きい原因は、東京へ出てきて芝居をときどき見て失望されることが多いんだらうと思ふんですね。正宗さんは新劇はもちろんだし、歌舞伎も文楽も、なかなかまめにみられるやうですが、とにかくさういふ話から、歌舞伎は今の若手の俳優がいつたい前の時代をつぐだけの役者にこれからなれるかどうか――? どうも新しい道を開拓しようといふ意欲がないし熱意も見られないで旧態依然とした状態ぢやないだらうか、あれではもう駄目ぢやないか、といふ意見。それから新劇の方も作家がなかなか出ないし、劇団もいつたいどこに向つてゆかうとしてゐるのかどうもよくわからない。新劇の方がさういふ状態だといふことは、正宗さんの意見ではやつぱり小山内薫のやうな人がゐないからぢやないか。マア小山内薫が左団次と提携して自由劇場をはじめ、更に築地小劇場を創立し、ともかく日本の新劇を或る方向に引つ張つてゆかうとしたあの熱意と理想を正宗さんはなかなか高く評価して、ああいふ人物が今ゐないことが新劇にとつての不幸ぢやないかといふ意見です。
僕はさういふ話を聴いてゐながら或る点には同感し、或る点はまた僕流の考へ方があると思ひましたけれども、歌舞伎についていへば、なるほど曾ての左団次とか勘弥とか猿之助が自分で新しい道を開拓しようと努力をした、あの機運が今まつたく見えなくなつたことは現在の歌舞伎の将来性を疑はせる原因だと思ひます。新劇の方は、なるほど小山内薫はゐないかしれないけれども、マア今の時代の小山内薫は、例へば千田君にしろ、村山君にしろ、それから久保田氏、岩田君をはじめ不肖ながら僕にしろいくぶんさういふ役割をしてゐるわけだ。けれども、ただ、僕自身の場合、非常に反省させられることは、やつぱり芝居に全力を打込んでないといふこと、この点は僕なんか、果して全力を打込んでどれだけのことができるか疑問だけれども、ほかの諸君はこれからといふところだと思ふ。結局正宗さんの意見に対して僕が同感であることはやつぱり芝居に全力を打込んで、しかも現代の演劇の革新といつてもいいし、新しい芝居の樹立といつてもいいけれども、さういふ仕事に没頭するやうな有能な人の出現を待つといふことが一方で考へられると同時に、演劇界全般に亘つて、人の問題と同時に制度や組織、さういふ問題をまた考へていつていいんぢやないかといふこと。すべての解決は新しい人が必要であると同時に新しいシステムが必要である。新しい人といふのは出現を待たなければならないのですが、新しいシステムはみんなで考へて努力をして或る程度改革ができる。
そこで現在の演劇界の広い意味での制度といふやうなものの欠陥を考へてみますと、ただ単に一つの劇団の組織とか機構とかいふことぢやない。もつと大きな日本の演劇界そのものの機構にわれわれはもう少し眼をつけて、新劇に関係してゐる人たち全部の力で必要な改革をしてゆかなければならない。演劇界全体の制度のいちばん大きい欠陥、新劇の発展を阻んでゐるやうな大きい欠陥は、僕はやつぱり演劇界に巣喰つてゐる不合理性、その不合理の最大なものは封建的な因習ともう一つは必ずしも封建的とは云へない非計画性だと思ふんです。
さう考へてきますと、現在の新劇が徐々に発展はしてゐると思ふんだけれども、或るところですぐ壁にぶつかつたり、或は大きな廻り道をしたり、時によると挫折したりするといふのは、どうも今言つたやうな演劇界に根を張つてゐる封建的なもの或は間に合せ的なものにあるやうに思ふんで、それを打開する方法として、僕は、新劇が立つてゐる地盤そのものを再検討して、できれば新しい試みをやつてみる、最も合理的なシステムで封建的な一切の影響力から脱し、殊にそれを制度の面から新しい近代企業としてもつと計画的に仕事をしてみること、これが僕は一応面白いことだと思ふんです。たまたま今度のピカデリー劇場が新劇のために開放された。そこでこのピカデリー劇場の運営はまつたく白紙といつてもいい状態で出発できる。さうなると、ピカデリー劇場の運営の仕方いかんによつては、新劇と必ずしも狭く考へないで、日本の現代の芝居の面貌を一変するやうなことが少くとも試みとしてはできるんぢやないか。それで大いなる期待をピカデリー劇場にもつてゐるわけですが、聞くところによると、ピカデリー劇場の運営に対しては総司令部の演劇関係の部門では相当に強力な注文をつけてゐるといふ。もちろん命令の形ではなくなつて、希望といふ形で示唆を与へてゐるさうですが、その細目を聴きますと殆どどれも至極尤もなことで、しかもそれにも拘はらず、こんなことが日本の実情でできるだらうかと思はせることなのです。つまり、これまで、その尤も至極なことが、実にいい加減にうつちやられてあつたことを不思議に思ふんです。なるほどさう云はれてみれば、それをやらなければ日本の芝居の現代性は確立できないやうなすべての条件を含んでゐることを僕は知つて、これはどんなことをしても、万難を排して、速かに実行してみなければならない。それを新劇関係者が傍観しないで、自分たちの力で成功させなければならないといふことを僕は非常に感じた。その項目はいづれピカデリーの運営委員会から公式の発表があると思ひますけれども、僕が聴いたことはかういふことなんです。
一、運営委員会の特色は、従来の興行資本からまつたく独立したもので、それは決して営利的な目的をもたない。これは西洋のいろいろな国々では一種の公共的な組織体だといふこと。
二、プロデューサーシステムをとる。これはどういふことかといふと、凡そ芝居に関心をもつて、今の日本でかういふ芝居をやらせてみたいと思ふ人は誰でも自分の思ふやうな芝居のプランをそこへ持ち込める。そこに新しい門戸が一つ開かれたといふこと。今までは、例へば現在のいろんな芝居に対して不満をもつてゐても結局興行資本家がウンと云はなければ芝居ができない、たとへ出来たとしても、これは非常に限られた少数の見物を相手に社会の片隅でこそこそ仕事ができるにすぎない。ところが誰でも芝居のプロデューサーとしてその才能と手腕をふるふ機会が与へられるといふことは、大劇場で、相当な観客を動員し、いろんな意味で非常な責任を負ふことになる。成功するか不成功に終るかは別問題として……とにかく斬新なアイデアが実現できる道が開かれたといふことになるのです。これは日本の演劇界における革命だと思ふ。玄人、素人を問はない、一つの演劇的な夢が実現される一つの道が開かれたことに非常に重大な意味がある。
三、劇作家の上演料が、入場料金のパーセンテージで支払はれる制度にすること。これまた日本では初めてのことで、ただそれが初めてで珍しいといふことに意味があるんぢやなくつて、当然さうあるべきことがやつとその通りに行はれるといふことに意味があるのです。もしそれができれば、これはやつぱり大きな結果を生むと思ふんですね。それはなぜかといふと、今までの興行資本の手で興行が行はれる場合はもちろんのこと、いはゆる新劇団がいろんな作品を取上げて上演する場合も、劇作家の上演料は云はばおぼしめしである。(笑声)これだけしか出せない、或はこれだけ出せば黙つてゐるだらう、といふ標準なんです。ところが現代における芝居といふものは、そのレパートリイが舞台の魅力の大きい領域を占めてゐる。さうだとなると、芝居が成立するための経済的な条件から云つても上演作品の云はば市場価値とでもいへるやうなものが合理的に計上されていい筈です。これはいろんなデーターを考へて最も合理的なパートを与へなければならない。それには最初からその計算を全く新しい方式で出すのはたいへん複雑なことだと思ひますけれども、これはずゐぶん長い間西洋で行はれてゐることで、だいたいこの標準が一〇パーセント……アメリカの例はよく知りませんけれども、今の総司令部の係官の意見ではやはり一〇パーセントぐらいが適当だらうといふ。僕の知つてる範囲で、フランスではそれ以上のものがずゐぶん沢山あります。これは普通の原稿料とか印税とかと同じやうに、作家によつて、或は作品によつて、或は劇団の特殊事情によつて多少の開きはあつてもいいと思ふけれども、一〇パーセントといふことはまづ標準として適当だと思ふ。さうすれば、作者は現在の日本の実情からいつて、小説を書くのとやゝ同じくらゐの率の収入になる。それはどういふことかといふと、相当の劇作家が脚本を書いてゐては生活ができないといふ事情をみればわかる。さういふ事情から脚本を書くことを渋つてゐる作家がなくはないといふ。上演料次第でいい作品が生れるとは限らないが、さういふ一面も十分考へられると思ひます。
四、今までの芝居は特に日延べといふやうな方法もありましたけれども、普通は公演の期日を最初に決めてしまひ、特別な事情のないかぎりそれで打切るといふ習慣に対して、今度はロングランができることが一つの特色ですね。ロングランができるといふことは一方からいふと、非常に不入であるとか或はぶざまなものはいつでも打切つて止められる。これがちよつと日本では画期的なことだと思ふ。だいたい芝居といふものは我慢して見られる程度のものは見る必要はないんだからね。(笑声)たいしたもんぢやないけれども、マアやりはじめた以上仕方がないから一ヶ月なり十五日なりを打つといふものならない方がいいんで、今まではさういふものが相当あつたと思ふんですね。それを今度のやり方によつて……日本の芝居が全部さうなるのではなく、たつたひととこだけれどもさういふことをやるといふことはやはり全体に大きい刺戟となる。それからロングラン・システムで見物が喜んで来さへすればいつまでも長く続けてやれるといふこと、これはまた受ける芝居が必ずしも芸術的に勝れてゐるとは云へないわけですけれども、とにかく或る選択のもとに取上げられた作品が見物を喜ばせ、相次いで見物の足が絶えない状態ならば、見たい人にはできるだけ多く見せることが芝居としては最も望ましいことだ。さういふ途が今度開かれることは、その作品を書いた作者はもちろん、それを上手に演じてゐる俳優、またその舞台を指導した演出者、すべてにとつて愉快なことで、殊にそれによつてその芝居に関係した人々が経済的に潤ふことになれば一石何鳥かわからないことになる。最初に云つたやうに、日本の現在の実情ではいろいろな障碍があつてやつぱりさう簡単にできることだとは思ひませんけれども、とにかくやつてみるといふことは必要ですね。
五、次に運営委員会といふものがあつて、ただピカデリー劇場の経済面の運営をするだけでなくつて、いろいろなプロデューサーの案を検討し採択の自由をもつてゐる。採択の自由をもつてゐるといふことは一つのそこに理想がなければならない。これはピカデリー劇場が企業体ぢやないんですから、利益といふ点での、つまり儲かる芝居が理想的な芝居だといふ今までの企業資本家の理想とは非常に違つた理想でなければならない。今までの個々の新劇団ぢやむろん一つの理想をもつてやつてゐますけれど、これから大きい劇場が利益から離れた理想をもつて、しかもその理想を一貫してレパートリイの上に示せる劇場ができたといふことは非常に大きな新しいことで、ただ運営委員会がどこに理想をおくかといふことが問題ですね。これは運営委員会がいづれ公表するでせうからここで臆測はしないが、ただ注文はしたいんだなア。
最初にピカデリー劇場が新劇に開放されたと云つたことはちよつと言葉が実は狭いので、アメリカ側でも日本の新劇の人に接触をしてゐて、そこで新劇新劇といふ言葉が使はれるから新劇といふもののあることを知つたといふ程度で、われわれの概念でできてゐる新劇といふ言葉は実はアメリカ人には通じないと思ふ。ピカデリー劇場を特にさういふ種類の芝居に開放しようといふ意図は、われわれの考へてゐる新劇といふ枠の中にある芝居に開放する意味ぢやなくなつて、むしろ僕の推測ですけれども、当り前の意味での現代の芝居といふことだと思ふんですね。市民が見て楽しみ、しかもその楽しみが健康な楽しみであり、それが芸術的に見ても或る水準に達してゐて、云はば人間の愚昧さとか、ただ本能だけに訴へるやうな、早く云ふと俗情だけに訴へる芝居といふものをわざわざ育てようといふ意図はない。日本の現在の芝居を外国人の眼で見ると、歌舞伎といふものはなるほど完成した芸術だらうけれども、なんとしてもこれが現代の人たちの生活に必要欠くべからざるものだとは思へないだらうと思ふんですね。
それから今度は日本で云はれてゐる軽演劇の部類に属するものは、これまたなかなか注意してみるとこの中に新しい芝居の芽もあるし、非常に健康なものもある。しかしさういふ芝居が、現在のところでは、目指してゐるところがまだ低い。例外はむろん認めるとしても、全般からいつて非常に安易なものだと思ふ。もつとどんどんと自分はかういふことをやつてゐるんだといふことを誇りうるやうな仕事にならなければならない。さういふ一面がまだ充分に僕は備はつてないと思ふ。
新劇の方は、これもいろいろ努力をしてゐるけれども、まだ一般市民……民衆の心を捉へるやうなものがごく少ないわけですね。さうすると文明国の演劇として見るとどこかに空白がある。早く云ふと、だんだん歌舞伎、新劇と見せられていつて、これだけか、何かまだあるんぢやないかといふ気がするんですね。文明国には例外なくそれがあるんだからね。それはいつたいどういふものか――? 僕の考へで云ひますと、今まで日本で新劇といはれてゐたものがだんだん成長し、或は完成味をもつてくると自然にそれが一つのプールの中に入つて、これがその国の代表的な芝居になる。多くの見物に喜ばれ、同時にその国の演劇的な水準を代表する芝居といふものになつてくる。早く云ふと、国際的にいつても一国の演劇文化を代表し、それが一つの見本になるやうな芝居といふもの、これが日本にはたしかに欠けてゐる、さういふものを生み出し、或はどつかに隠れてゐれば表面に引つ張り出す、といふことを僕はアメリカの方も考へてゐるんだと思ひます。ピカデリーの運営委員会もそれを理想にして貰ひたいと思ふんです。
さうなると、さういふ芝居は日本の現実のいろいろな条件からいつてどこから出てくるかといふと、僕は新劇から出ますといふことは云ひ切れないんですね。これは或は軽演劇からも出うる可能性が充分ある。更に歌舞伎劇も新しい道を発見すればさういふところへ参加できるし、またできるやうにしなければならない。殊に歌舞伎の若い俳優はさういふ一つの目標をハツキリもたなければならない。それから素人の演劇の中からも出る可能性が大いにある。
さう考へてくると、運営委員会は眼を広く日本の演劇界全体に放つて、どこからでもさういふ要素を吸収して、日本に現代の芝居を作るんだといふ目標をなるべく早く具体的に示して欲しい。もちろん現在の新劇団がそれをなしうるといふ自負はもつてゐていいんだけれども、運営委員会としてはその自負だけに頼つてゐては僕は狭いんぢやないかと思ふ。あるプロデューサーが提示した案を運営委員会が検討する場合にも、今云つたやうに、自ら狭い殻を作らないことと、あまり手をひろげすぎて、水準を低く下げないことが、僕はゼツタイに大事だと思ひます。どうかすると、すぐ間に合はないといふ事情がこれからキツと出てくるだらうと思ふけれども、その場合にこれはすこし困るけれども、まあまあ、といふやうなところで、運営委員会が、知らず識らず妥協しないやうに、充分警戒し、一切の努力を惜しまないで欲しい。さうしてこのピカデリー劇場にはかういふ水準でなければ採用されないんだといふ認識を早く一般に与へてしまふ。それにはひと興行ごとに運営委員会の側としてもそれに対する意見を公表して、その次にもちだされる企画に対して一つの指針を与へるやうにして欲しい。
今云つたやうなことが実現しても、そのために日本の演劇界がすぐ一変するとは思はない。これはピカデリー劇場だけがさうなるにすぎないのですけれども、さうかといつてその仕事を過少評価してはならないと思ふ。日本のやうに演劇の歴史が云はば中断されてゐて、クラシックと近代的なものとの繋がりが非常にもろい国では、演劇に於けるアカデミズムの確立がともかく急務だと思ふ。仮りに今云つたやうな理想がピカデリーに或る程度実現されて、ピカデリーそのものとしてはまづわれわれが満足するやうなものができても、それはまだやつとアカデミズムの第一歩だと思ふ。そのアカデミズムといふものがやがてハツキリ樹立されれば、その限界といふものをむろんもちながら、なほ且つ一般演劇界に与へる影響は大きく、そこでアカデミズム本来の役割を果してゆく。そこは気長にわれわれは見守らなければならない。それと同時に、そのときにこそ日本の本当の意味での先駆的な新劇運動が生れてくる。生れるとすぐに栄養失調にならない新劇運動が生れてくる。僕らは実際を云ふとその新劇運動に期待をかけます。ピカデリーはそのときには華やかな存在ではなくなるだらう。むしろ地味な役割を演じることになるのです。新劇運動に養分を供給する土壌になるといふ役割にかへつて貰ひたい。
編 御話に出て来た「現代の芝居」ですが、これが日本にないといふことは文化生活の上の大きな問題だと思ふんですが、岸田さんの御考へになつてる「現代の芝居」といふ意味を……
今までわれわれが現代劇といつてゐたのは現代生活の中から生れ、現代生活を如実に表現した芝居といふふうに云つてはゐますけれども、現代生活といふものは結局表面的な物的な面だけでなくてむしろ精神の面が大きいでせう。さうなると、舞台の上に現代人の生活、現代の世相がそのまま現れてゐなくなつても、それはいい。古代の生活がうつされてゐても、それが現代人の精神生活をくぐりぬけ、現代の芸術として生れたものならば現代劇……。さういふ意味では現在の歌舞伎俳優を現代的な作品によつて現代劇ができるわけだ。こんなことは当り前のことだが、念のために云ふだけです。
編 さういふ理想にピカデリーが進んでゆくとしまして、そのほかにも外国のいろいろな新しい演劇運動を取入れたり、もつと側面的な意味でアヴァンギャルド的な演劇の仕事をやつてゆくやうな団体もできるわけですね。新劇の或るものはさういふ役割を果すわけでせう。すると、さういふものがピカデリーにも反映もするでせうし……。
反映もするでせうし、それがそのまゝピカデリーに入つて、その新劇団としての公演ができるやうになる。それがつまり、新劇の成長であり完成なんですよ。その代り、もう新劇ではなくなるわけだ。日本の大劇場に進出することは表面上景気がいゝけれども、実は新劇としてはいくらか堕落を意味してゐたんだ。それがやつぱり日本の特殊事情ですよ。西洋でもブールヴァール劇といふ通俗劇の中には文字通り卑俗なものもありますけれども、ブールヴァール劇場で公演されるもので新劇の大人になつたものが沢山ある。さうなつてゆくのが当然で、新劇が永久に新劇であり、新劇以外に通用しないといふことは、つまり発育不良の人間と同じです。さういふ人も劇団も西洋には沢山ありますね。それはみんな歴史の陰に消えてしまつた。むろんその時代においては何かの役割を果したらうけれども、その影響力は長くもないし、或る意味においてはそれは一つの不運な存在だといふことですね。
例へて云ひますと、フランスの自由劇場、Le Thtre Libre がだんだん発展をしていつて、アントワーヌ Andr Antoine を中心とする職業劇団になりましたね。しかし職業劇団になつても取上げるものは通俗的なものでなくつて、例へば大したものぢやないけれどもまづブリユウ。それから、クウルトリイヌやルナールのものもやつた。民衆にアッピールするもので、しかも、芸術的なものだ。ところが、自由劇場生え抜きの作家で、最も新鋭の闘士であり、理論家であり、純粋な芸術家と考へられてゐたジャン・ジュリアンは到頭大劇場の作家にまで成長しないで、自由劇場が大きく発展する前に仕事を中絶してしまつた。それは、先生自身の仕事が民衆から遊離してゐたことを示すものです。これは先駆者の或る種の人たちのもつてゐる特色でもありますけれどもね。さういふものを目指す必要はないわけですね。さういふものになりがちなんだ日本の新劇作家は。かく云ふ僕もその一人だが……(笑声)
編 だいたいピカデリー劇場は戯曲中心の芝居に進んでゆくと思ふんですが、そこで今度は戯曲に対する岸田さんの夢を……日本にどういふ戯曲が出てくると思ひますか、また出てきたらいゝと思ひますか。
僕は一と口に云ふとね。今の新劇作家の作品がそのまま成長してゆく……成長してゆくことがすなはち民衆の心を捉へるといふことであればこれはいちばん結構だと思ふんだけれども、またさういふゆき方と別に、ピカデリー劇場のやうな劇場に最も適当した作品がどこからか生れてくるといふ気がするんですよ。突如として生れてくるかもしれない。さういふ場合にその作家はいつたいどういふ特色をもつてゐるだらうかといふことを考へますとね。これはいはゆる文壇的な修行や生活の中からは生れてこないと思ふ。やつぱりひろい視野をもつた生活人の中からだと思ふですね。生活人の素質をもち、しかも文学的な才能をもつてゐるといふ人でなければさういふ作品は書けないと思ふんですよ。さうしてその作品を書く心構へといふところから、或は野心といふ面から考へて行くと、ちやうど大新聞に長篇小説を書くやうなつもりで戯曲を書く人、それはどういふことかといふと、数ヶ月の間大新聞に長篇小説を書くといふことは非常に責任を感ずるんですよ。新聞社に対する責任もあるけれども、とにかく読者に対する責任ですね。読まなきや読まないでいゝといふ大胆不敵な人もあるかもしれないが、書くつもりになつた以上読まれないのは淋しい。読まれる以上面白く読んでもらひたい、退屈させることは禁物です。なんとなく、非常に責任を感ずるんだ。この責任といふ言葉は……僕の云ひたいことはちよつと違ふ点もあるんだけれども、その責任を感ずるといふことは今までの戯曲作家にあまりないんですよ。
編 重荷といふと語弊があるかしれませんが、さういふものですね。
重荷といふと消極的でやゝ気持が滅入るが、責任に立ち向ふ気持は、もつと明朗であつていゝでせう。近ごろは十五日になつたけれども、前には三日か四日の新劇の舞台にせいぜい人がきたつて多くても数千人。その見物がいはゆる選ばれた見物です。面白くなくつても感心させるやうなところがあればいい。(笑声)極端に云へば、「感心しにこい」といふ気持で脚本を書いてゐるところもなくはない。これでは責任を感じてるとは思へないよ。芝居はこれでは駄目ですね。
編 現在の戯曲にはさういふところが大いにあるといふわけですね。
さうですね。これは何もピカデリーにかぎらないけれども、芝居といふものは僕は見物をぢかに前において或る時間見物席に縛りつけて動かさない仕組になつてるものですからね。みんなを感心させるとか、或は考へさせるとかいふ要素もあつてもいゝけれども、それは自から作品の中にさういふものが含まれるといふだけであつて、作家としての心構へとしてはやつぱり見物と対等の立場で作品を書くべきだと思ひます。見物を教へるとか頭を下げさせるといふ心懸けはもつてのほかで、お互は、人間として対等の立場だ。対等の立場で語るといふのはどういふことかといふと、つまりこれは対話の精神を重んじるといふことですな。戯曲は対話の形式で書かれるといふこととは別なんだ。舞台と見物とは対話をしてゐるんだ。対話といふことは相手の云ふことも聴かなければならない。相手は沈黙で答へてゐるかもしれないけれども、相手に耳を傾けるといふことは自分の云つてることが相手にどの程度わかつてもらへたか、それに対して相手はどういふ反応を示すか、相手をぢりぢりさせたり、退屈させたり、不必要に疲れさせたりといふことは、これは無礼です。そして仮りにそれが激しい議論でも、二人の議論によつて最も妥当な第三の意見といふものを生み出すための議論だといふことを忘れたくない。相手を言ひ負かすために議論をするのは、特別の場合です。これが対話の精神だ。これこそ戯曲家が戯曲を書くときの最も大事な心構へだと思ふ。それがやつぱり新劇にはなさすぎるね。それから今の通俗劇も対話の真の精神から遠い。お客を大いに意識してはゐるが、お客に媚びお客にへつらつてゐる。これぐらい対話として卑しいものはないと思ふ。新劇が、傲慢で無愛想なら、一方に愛想のいゝ通俗劇がある、と思ふのは間違ひで、傲慢と卑屈とは、対話の精神に反する二つの著しい悪徳です。
編 対話の対象を、現代の大衆と云つても甚だ漠然としてゐますが、つまり作家の見る現代精神との対話があれば、そこにモダン・プレイが生れてくるわけですね。
対話の相手たる観衆は、結局、民衆であり、人間であるわけですよ。その民衆がどうかすると俗衆の相貌を呈することがありますけれども、あくまでもこの二つは違つた質のものとして考へたいですね。
編 岸田さんは最近「戯曲家は繊細ばかりぢや駄目だ、粗野な精神が必要だ」と云つてられるやうですが……
それは現代のこの社会情勢と人心の動向から考へて、戦後に、よく云はれる、混乱してゐるといふか、或は荒んでゐるといふか、さういふ時代の民衆に訴へるものとしては、繊細だとか、或は複雑だとか、持つて廻つたものとか、或は必ずしもひとりよがりぢやないんだらうけれども、あんまり象徴的なものとか、さういふものよりも簡明直截であつて、しかも力強いもの、曲線的であるよりも直線的な、さういふ傾向、色彩のものが今はいゝんぢやないかと思ふんです。ところが日本人の特色は曲線的だからね。さういふ意味で作者自身も人間改造が必要で、或はさういふ素質をもつた新人たちが初めて登場してくるといふことにならないと、今の作家たちがさういふふうに自分を変へようと思つたり、さういふものを書いてみようと思つても僕はなかなか駄目だと思ふんですよ。多少はどうにかできるでせうけれどもね。
編 では最後に結論として、ピカデリー劇場運営委員会への希望を……
結論になるかどうかわからないが、恐らくピカデリー劇場の運営委員会は議論百出でせう。それはいいんですが、それがどういふ結果がそこに現れようとも、それに対して一般の批判を仰げばいゝ。さうならなければどうしても運営委員会の独善といふことになりますからね。少くとも理想をもつて或る方向を示すことが必要だね。さうでなければてんやわんやだよ。(笑声)運営委員会は経営的な面と芸術的な面で、それぞれエキスパートであるに越したことはないが、専門家であるより常識をもつた社会人であることが大事ですね。さういふ意味からいつて、僕は少数でいゝから専門委員なり特別な相談役なりといふものが必要だと思ひます。