Chapter 1 of 7

一 医院

医師  どうも不思議だねえ。どこも、なんともないが、それでも痛むかね?患者  痛むかはひどいですよ、先生、このしかめつ面がわかりませんか!医師  もともとさういふ顔かと思つとつたよ。どれ、もう一度見せなさい。こゝだね、押へてちや駄目だ、手をどけなくつちや……。これで痛むかね? 痛む? どういふ風に痛むね?患者  いやだなあ、口で言へるやうなもんぢやありませんよ。なにしろ、なにがぶつかつたんだかわからないんですからね。外からか内からかもわからないですからね。医師  さうか。突然、急に痛み出したんだね。別に、誰もそばにやゐなかつたかね? 抓られでもしたんぢやないか?患者  先生、戯談はよして下さい。抓る相手がゐれや、それくらゐわかりますよ。それに、指なんていふ生やさしい感じぢやありませんからね。かう、刃物でゑぐられるやうな、錐を突き刺されるやうな、かうなんとも云へない……。医師  刃物も錐も使つた形跡はない。してみると、神経的なもんだ。患者  神経だと、どういふことになるんですい? お宅の専門ぢやないんですか?医師  いや、専門でないといふわけぢやないが、厄介だね。電気でもかけてみるか。患者  心細い云ひ方をしないで下さいよ。電気にでもなんでもかゝりますよ、毒でさへなけや……。あ、痛た、た、あん時の事を思ひ出したゞけで、これですからね、その当座と来たら、眼がくらんで道ばたへ坐つちまひましたよ。医師  道を歩いてたのかね。患者  さつき、さう云つたでせう、お祭りの寄附を集めて廻つてたつて……。医師  それや聞いたが、もう少し詳しく云つて見給へ。町内を一軒々々廻つて歩いたわけだね、ふむ、すると?患者  すると、ほら、あの狸横町の左側三軒目に名取つていふ家があるでせう。名取氏高、尊氏のあべこべだ。あるでせう。中学の先生でさ。あの家へ行つて、へえ、今日は、お賽銭をどうぞつて、表から声をかけました。医師  あの家なら、僕も一度往診したことがある。縁なし眼鏡をかけて、ちよつと綺麗な奥さんがゐらあ。患者  それ/\、その奥さんつて女が、つんとすまして出て来た。――只今、たくがをりませんですから、あたくしではわかり兼ねます……。医師  はゝあ、よほど出すもんと思つたんだね。患者  あつしや、云つてやつたねえ。――なに、ほんのお賽銭ですから、お思召で結構です。すると、――お賽銭つて申しますと、こちらから持つて参るもんぢやございませんか知ら……。医師  声色、うまいねえ。なるほど、その通りだ。患者  ――いや、お賽銭と云つても、つまり、お祭のなんですから、町内の若いもんにおみ酒の一杯もふるまつてやつていたゞきたいんで……。――ですから、それなら宅とも相談いたしまして……。いや、奥さん、そんな大そうなことをお願ひするんぢやありません。これだけのお宅の奥さんなら、お主人から委されてゐる会計といふもんがある筈だ。医師  君、さう云つたのか?患者  云ひましたとも。ねえ、その会計のうちから、お白粉代をちよつと倹約なされば、世間並の義理が果せるんぢやありませんか。ねえ、これが、押売り物乞ひなら、それや別です。町内で、年に一度の陽気なお祭、しかも、そのお祭りは、勿体なくも稲荷大明神のお社といふもんがあつての話でさあ。ねえ、奥さん、野暮なことを云はないで、門構の手前、いつてう、気前の好いところをお見せなさい……。医師  門構の手前はよかつたね。僕なんかも、それを云はれると、いや、云はれなくつても、門の大きさつてものは気になるもんだ。患者  すると、渋々出しました。帯の間のガマ口から、五銭白銅を一つ。……チエツ、……思はず、あつしや、手を引つ込めた。――あら、少なすぎます? 訊くやつあ、ねえや。――こちとらの家でさへ、子供の駄賃がこれだつて、云つてやつた。医師  すると、また追加したかね?患者  驚いて、五十銭玉を放り出しやがつた。愉快だつたね。だが、今更、礼も可笑しなもんだ。照れかくしに、大きく鼻をこすつて玄関を飛び出した。よく見ると、なに、それほどの門構でもねえ。ガラガラ、ピシヤリ……。表で、向ひ側を廻つてる野郎に出くわしました。――おい、これみろ、豪勢なんだらう。初めての五拾銭玉を見せびらかさうとすると、その時です、先生……。痛いツ!医師  そこで、眼がくらんで、道ばたへしやがんぢまつたわけだね。患者  肩先ですぜ、先生……やられたツと思ひました、そん時は……。医師  まだ痛むかね。患者  また痛み出したやうだね。医師  腫れてもゐない。凹んでもゐない。患者  変だな、気のせいつてこたないね。医師  さういふこともあるよ。膏薬でも塗つて、一と晩、様子を見てみるんだね。さ、あつちへ行つて……。看護婦  先生!医師  なんだ。看護婦  あの、根本さんからお電話で、御隠居さんが急に、なんですか、足の裏がお痛みになるんださうです。我慢がおできにならないから、すぐ診に来ていたゞきたいつておつしやるんです。医師  足の裏が痛む。……? どういふ風に?看護婦  さあ、それは伺ひませんでしたけれど、お熱はないさうです。医師  よし、自転車の掃除はできてるね。それから、もう一人待つてる患者さんは?看護婦  あゝ、さつきから、頬つぺたが痛くつて、ぢつとしてゐられないつて、表を歩いてらつしやいます。医師  呼んで来なさい。それから、今の人には、左肩へイヒチオルを塗つて、温湿布だ。いや、冷湿布の方がいゝか。まあ、どつちでもいゝや。紳士  先生、どうしたつていふんでせう、これや……。歯の方はなんともないんですが、頬の筋肉がやけに痛むんですがなあ。医師  まあ、ちよつと、お坐りになつて……。お名前は……。紳士  名前なんか後にして下さい。年は四十二です。首から上の病気はしたことはありません。医師  ちよつと、拝見……。御商売は?紳士  口を開けたまゝぢや、云へない商売なんですが……。医師  ぢや、どうぞ……。紳士  貿易商……。医師  なるほど……もう一度、中を……。別に糜れてもゐないやうですね。かうしてはさんでどうですか。痛む場所は指の当つてゐるところぐらゐですか?紳士  さあ、指がどこに当つてるか見えないですな。医師  いや、感じで結構です。紳士  感じません、なんにも……。たゞ、痛いだけです。とてもお話にならないくらゐ痛いです。医師  一種の流行病かも知れませんね。さきほどから、大部、さういふ患者さんが見えるからどうも不思議ですよ。で、何時からです、痛みは?紳士  今朝、店へ出掛けようと思ひまして、家を出ました。何時も自動車を呼ばせるんですが、今日はこの通りお天気がよろしいもんですからな、練兵場を突つ切つて本町通りまでぶらぶら歩いてみようといふわけで、丁度、騎兵連隊の裏門のへんに来かゝると、妙に、長閑な気持になりましてな。桃がもう蕾をもつてゐますし、選挙はやつと形勢もきまりましたし、つひ、平生好きな浪花節が、ひとくさり……。医師  はゝあ、あなたも浪曲党ですか?紳士  赤垣源蔵徳利の別れ、なに、たゞレコードで覚えたくらゐのもんですがね、勿論人様の前ぢや絶対にやりません。誰も聴いてないと思ふと、なんとなく節が浮んで来ます。それを、まあ、やつたわけです。すると、その折角陶然とした気持のところへ、出し抜けに、キリキリキリ……。医師  痛み出したんですな?紳士  あんまり頬つぺたに力を入れすぎて、これや、破れたかなツと思つたほどです。医師  おほきに。でも、鼻の方はどうもありませんでしたか? あれや、大分、鼻も使ひますからな。紳士  いや、その方は、別に……。医師  ふむ、してみると、その時、頬の筋肉が痙攣を起したといふ風にも考へられるが、そんなに長く痛むのはをかしいですな。頬の筋肉は、この通り、腕や脚などと違つて、伸び縮みの自由なもんですから、つれるといふやうなことは、まあないと思ひますが、念のためにマツサアジでもやらしてごらんになつたらいゝでせう。別に薬は差上げません。強ひてとおつしやるなら、含嗽を二三日分、持つてお帰りになりますか。紳士  いや強ひてとは申しませんが、やはり、その、安静の必要がありませうか?医師  頬だけは、無理にお動かしにならない方がよろしいでせう。看護婦  先生、また根本さんからお電話なんですけれど……。医師  あゝ、今すぐ伺ふからつて……。やあ、御大事に……。紳士  診察料は如何ほど……?医師  さうですか、では、向うの窓口でいたゞきませう。初診は……えゝと、これも、窓口で申上げます。痛いツ! なるほど、これだな。

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