Chapter 1 of 13

すべての革新運動と同様に、演劇の革新運動も亦、精神と形式とがつねに相伴ふものとは限らない。ことに、芸術の分野に於ては、その精神と称するものが、往々にして、観念の遊びに過ぎなかつたり、または、単なる感覚のニュアンスにとどまつたりすることがあり、また、いちがいに形式といつても、技法の末にこだはることや、衣裳の新奇を衒ふことにつきる場合、これは、本質的に云つて芸術の革新の名に値しないものである。

従つて、近代の演劇史をひもどくものは、旧きものが如何に滅び、新しきものが如何に生れたのかを知ると同時に、旧きものは旧きが故に滅んだのではなく、新しきものは、突如として旧きものに代つたのではないことを学ぶであらう。そして更に、いつの時代に於ても、先駆者は、多くは、先駆者としてだけの業蹟をしか残さず、言はゞ不滅なもの、比較的生命の長いものをすら創らずして時代の波のなかに没し去つてゐるのである。

これに反し、真に時代を画するやうな作家とは、もとより、その新しさと力強さとによつて一世の視聴をあつめ得たものを言ふのであるが、演劇革新のためにも、おのづから、かの先駆者どもの成し遂げ得なかつたところ、即ち方向を示すだけでなく、困難な道を切り拓くといふ、それにふさはしい才能のみに課せられた大きな役割を果してゐる。

演劇の革新も、すべての革新と同様、こゝまでいかなければ真の革新とは云ひがたく、かゝる革新にはまた、恒に、精神と形式との並行的な進化がみられ、両者の不可分の関係が明瞭に保たれてゐる筈である。

以上述べたやうな観点に立つた一国の演劇史の叙説は、まだ何人によつても企てられてゐないやうに思ふ。私はこの小論に於てむろんそれを試みる用意はないが、この選集を編むに当つて、私の脳裡を去来した演劇史論的理念を先づ最初に掲げておくことは必ずしも無駄ではないやうに思ふ。

Chapter 1 of 13