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春雪の出羽路の三日
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春雪の出羽路の三日
喜田貞吉
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 15

タヤとラク

江畑君方の一夜は、有益なる雑談に夜の更けるも知らずに過ごしたことであった。そのうち特に面白いと感じたのは、この地方で小作百姓をタヤというとのことである。タヤはもちろん田屋の義であろう。他の地方では一般に婦人の月経のことを「タヤ」といい、月経時のことを「タヤにいる」などという。タヤについては『民族と歴史』第四巻第四号に、橋川正君の「タヤ考」を紹介しておいたが、あれは主として本願寺のタヤについてであった。月経をタヤと呼ぶことは、もともとわが邦俗血穢を忌んで、経時の婦女の住宅内に同居し、特に神棚に近づくことを許さぬ習慣から、漁村では通例海岸に月小屋を設けて、経時の婦女はその期間をここに過ごすの例であったように、農村では有り合せの田屋に経時を送ったことから、得た名であるに相違ない。田屋とはその名のごとく田地の所在に設けられた小屋で、平素は居村の住宅に住んでいる農民も、農繁期には朝夕その耕地に通うの不便を避けて、便宜ここに寝泊りしたものであった。もちろん村落に近い田地にはこの必要もなかったであろうが、それでも刈り取った稲を納めたり、籾を落としたりするための小屋は必要であったはずで、それを経時の例の隔離舎に使用していたものであろう。

ところで特にこの仙北地方に、他では半人または間人などと呼ばれた小作百姓のことを、タヤと呼んだのは一考に値する。由来、奥羽地方はもと夷の地であって、特に出羽でも仙北三郡の地方は、比較的後まで夷俘や俘囚の残存した場所であったから、かの「大宝令」の規定に見ゆるがごとく、人居は常に城堡内に保護せられて、ただ農時にのみ出でて営田の所に住むという習慣が比較的後までも行われていたことと思われる。この営田の所の住居すなわち田屋である。後に夷に対する防備の必要がなくなった時においても、地主たる農民はなお引続いて、営田から離れたもとの村落に住居し、営田の地なる田屋には、土地を有せずして耕作にのみ使役せらるる、いわゆる農奴が住む習慣を生じたものではなかったろうか。農奴はすなわち後の小作百姓の類である。かくてここに小作百姓に対して、田屋の称呼も起り得る訳である。

仙北でもまた庄内地方と同じく、皮革を扱う旧特殊民をラクといっていたそうな。これは本誌一月号「庄内雑事」中に書いておいた通り、牛馬医たる伯楽の略称であるに相違ない。去る一月二十八日、大和御所町における差別撤廃講演のさいに、同地大正村西松本の前川増吉君所蔵の部落関係書類を借覧した中に、牛の疾病治療法を図示した一巻の伯楽伝書があった。上方でもやはり牛馬医はこの人々によって行われて、ために伯楽の名があったのだ。この仙北地方にももと少数のラクがあって、皮細工に従事し、万歳などに出ておったが、今もその流れのものが遺っていて、太鼓、三味線などの皮を張ったりしているものがあるそうな。しかし今では多くは他の職業に転じ、住居も比較的自由で、通婚も時には行われ、そう差別待遇は受けておらぬという。そうなければならぬ。

Chapter 5 of 15
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