Chapter 1 of 6

一 緒言

東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた。奥羽地方に伝わっている炭焼藤太の出世物語で、津軽領の者は今の津軽伯爵家の四代目の君がすなわちこの人であると謂っているそうである。津軽の殿様の御舎弟の書かれた可足筆記によると、津軽家はもと田原藤太の末で、その先祖の武運にあやかる様にと藤太と名づけられたのであったが、幼少の時にその父は安東勢と戦って討死したので、乳母に抱かれて身を吉次信吉というものに委ね、ついに炭焼にまでなり下ってそれで炭焼藤太と呼ばれ、後に最明寺入道に見出されて本領の安堵を得たのみならず、西海の軍に功を立てて、津軽家中興の英主として名を揚げるに至ったのだと書いてあるという。これがその話の大要で、藤太の奥方は京の近衛家の姫君であるとも云い、或いは藤太の母親は最明寺殿の側室で、藤太も実は時頼の落胤であるのだとか、或いは藤太はかの金売吉次の父親であるのだとか。地方によっていろいろに伝えているそうである。柳田君のこの面白い読物が将来どんな風に発展するかは、神ならぬ身の予想し難いところであるが、自分もかつて九州旅行の際に、豊後臼杵で真野の長者炭焼小五郎の譚を聞いて、田舎の豪族がどんな風に考えられていたかということを民族的に考えてみたことがあるので、この辛酉新年の屠蘇機嫌の筆始めに、その感想を書きとめておくこととする。これが活字によって読者の前に致される頃までには、柳田君の読物は自分がここに書こうという九州にまで飛んで行って、その譚の全体についてももっともっと興味ある解説を与えられることとは思うが、自分はただ民族の方面から自分の感じたところのみを、備忘録位の意味で書きとめておくのであって、あえて柳田君の記述の先廻りをしようというのではない。もしこれが幾分にても同君の御参考ともならば幸いだと思うのである。この筆初めに当って、自分のこの小編が柳田君の読物から思い出して執筆するに至ったことにつき、ここに深厚の敬意を同君に表する。否ただにこればかりではない、自分の過去現在未来にわたっての諸研究が、柳田君からヒントを得た事の甚だ多く、往々同君の発表の跡追いをなすものだとの譏りをも甘受するものである事をここに告白して、同君に敬意を表するものである。

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