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俗法師考
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俗法師考
喜田貞吉
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 10 of 28

4 声聞師の職業とその起原

俗法師が平安朝に至ってことに増加したことはすでに述べた。地方官の収斂誅求を避けて自ら課丁の公民権を放棄し、形を沙門に托して出家脱籍したものが、延喜時代においてすでに天下の人民の三分の二の多きに及んだとは、これ実に詐らざる社会状態であった。三善清行はこれを同情なき方面から観察して、彼らは家に妻子を蓄え、口に腥を食い、形は沙門の如く心は屠児の如しとまで罵っているが、彼らの中にも真に仏門に帰して、如法の修行を成じたものの少くなかったことを疑わぬ。しかしながら何分多数の俗法師ができてみれば、単に檀那の善根に訴えて、如法の托鉢のみでは生きて行かれぬ。いきおい種々の職業をかねて生活の途を求めねばならぬ。

ある者は踏歌の流れを汲んで千秋万歳法師となったのもあろう。ある者は陰陽師の道に入って、祈祷卜筮に生きたのもあろう。あるいは身を遊芸に委して、傀儡子・田楽法師の徒となったのもあろう。これらはすなわちみないわゆる声聞師で、柳田君が『郷土研究』に多くの例証を挙げて観察せられたのは、主としてこの方面のことであった。そしてそれはことごとく事実である。

しかしながら、かくの如きことのみで、多くの声聞師は生きて行かれる訳ではない。これを京都についてみても、北畠や桜町の声聞師の中の数人が、正月四日五日に禁廷へ出て千秋万歳を奏したり、十八日の三毬杖に囃を唱え、曲舞を舞ったからとて、それで一年中全部落の者が生きられるはずはない。元旦に禁裏の日華門に参じて、毘沙門経を読誦するの旧慣を存した俗法師のある一派の者は、祇園社に属していわゆる犬神人となっていても、なおかつ彼らは弦指の内職を必要として、つるめそと呼ばれていたのみならず、京都市中の葬儀に干渉して、ある特権を有していたのである。その他諸国の声聞師部落にしても、本来その数の多い上に、限りなく増殖するその子弟一族が、渡り芸人や祈祷卜筮のみで生きて行かれるはずがない。

これらはむしろ内職であって、実際の生計は本来かえって他の方面に求めていたに相違ない。それについて思い合わされることは、東寺の散所法師や、高野山の谷の者、興福寺の五箇所・十座の唱門等の使役である。東寺の散所法師が、諸国に算所あるいは産所といわれる唱門師の徒と同類であるべきことは、その名称からも推測せられるが、寺の所属としての彼らは、寺院境内境外の掃除を掌ったもので、『塵袋』にエタと称した浄人の徒であった。したがって彼らは掃除以外警固の任にも当たった。一朝ことある場合には、祇園の犬神人の如く、喧嘩の先棒となって、打ち壊しにも従事したことでもあろうが、そのほかにも必ずなんらか平時の内職を持っておったものと解せられる。ただこれを正確に立証すべき材料のなきを遺憾とする。彼らの住所は京都九条のうち、信濃小路猪熊の西にあった。後年九条のエタ(この村落後に退転す)として知られたものは、あるいはこの散所法師の後裔ではなかろうかと推察せられるが、確かでない。

なお散所法師のことは、算所または産所と関連して別に説明したい。

高野山の谷の者と金剛峯寺との関係は、正しく東寺と散所法師との関係と同じいもののようである。

したがってよくその沿革現状を明らかにするを得たならば、ために啓発するところが多かるべきを疑わないが、自分はいまだ親しくこれを調査するの機会を得ず、ここに詳説するをえざるを遺憾とする。

興福寺の五箇所・十座の唱門は、非人中の番非人の如く、寺の所属として雑役に従事する以外に、猿楽以下、渡り神子・渡り遊女・鉦打・猿引等七道の者を進退し、また警察獄吏の事務をも執行し、土木工事にも役せられ、戦時には陣夫にも用いられていた。そして彼ら自身また、少くともその後裔は、陰陽師・ヒジリ・梓神子・傀儡師・猿引・番非人等として知られ、鎧作りの工業家などもこれから出ているらしく、おそらく夙・エタの仲間となったものもまたその中にはあったらしい。否、夙・エタの徒の中にも、かつては彼らと同じ流れから出て、中ごろ袂を分かったものもあったであろう。これらのことは便宜上別に、「大和における唱門師の研究」と題して、次号に掲載する予定であるから、説明はすべてそれに譲ることとにする。

これらのことから推測して試みに想像を逞しゅうするならば、京都の北畠・桜町の声聞師も、ただに一定の日に禁裏へ出て千秋万歳や曲舞を奏するばかりでなく、やはり禁廷に付属して、お庭のお掃除や、市内の警固などを担当し、兼ねて種々の雑職に従事していたのではなかろうか。徳川時代にはお庭掃除は小法師と称して、もとは丹波の山国から出ておったが、中頃は三条余部村のエタ六人と、寺町今出川下ル町及び上立売下ル瓢箪図子から各一人、都合八人でこれを奉仕し、享保十二年以後は大和丹波市外六人のエタ村から出役し、さらに後には京都蓮台野からもこれを勤めておった。丹波山国は戦国時代における皇室御料の最後のものとして遺った庄園であったから、一時そこから勤仕したのであろうが、その以前においてそんな遠方のものを煩わす必要はなかりそうに思われる。後の小法師は箒と緒太(草履)とを献上する例であったが、これはもと河原者の習慣であったらしい。『言継卿記』に、河原者が年始に来て緒太と箒とを呈したことがみえている。

小法師のこの献上物も、河原者たるエタがこれを勤めるようになってからの例かもしれぬが、しかし本来は声聞師も河原者も類を同じゅうしたものと解せられるのである。

なお言わば叡山の山法師、三井寺の寺法師、さては南都の奈良法師など、その他各地の諸大寺にあって悪僧というありがたからぬ称号を与えられ、円頂緇衣に太刀を帯びて戦闘に従事した僧兵なるものの中にも、本来は三善清行のいわゆる課役を避けて身を沙門に托した社会の落伍者等の、これらの諸大寺に隠れ家を求めたものが多かったに相違ない。そしてそれが時に声聞と呼ばれたことは、柳田君のつとに注目せられた叡山の将門堂の名がこれを示しているかに解せられる。たといこれらに声聞の名称がなかったとしても、前項に述べた声聞師の名義の考説にして誤まりなくば、これまた祇園の犬神人や東寺の散所法師、興福寺の唱門などと同じく、みな声聞師の同類であると言わねばならぬ。人あるいは犬神人や散所法師、興福寺の唱門などは賤者であって、僧兵等は地位のそれよりも高いものであったとの故障を提出するかもしれぬ。しかしそれは境遇の相違であって、本来俗法師であり、口に法を説かざる羊僧である点においては同一であらねばならぬ。そしてそれが同じく声聞の名を得るにあえて異議はなかるべきである。

しかし僧兵のことはしばらく別問題として保留し、さらにこれを地方の荘園村里について考うるに、ここにもまた興福寺領における唱門の如き役務に従事するものが必要であったに相違ない。現に奈良においては、興福寺・東大寺等の諸大寺以外、いわゆる奈良七郷にもそれぞれ唱門師が付属していた。この事実から考えると、他の荘園村里にもまたその存在の事実は類推して認定せらるべきものである。ことに各地における課役規避の偽法師の立場からいえば、身を付近の荘園に托して、権門勢家の勢力の下に隠れることは、わざわざ遠く叡山や奈良等の諸大寺に走るよりも、いっそう便利であったに相違ない。かくて彼らはその荘にあって、荘官もしくは荘民の扶持を受け、警固や雑役に服するかたわら、かねて雑芸・雑職に従事したこと、なお徳川時代の各地のエタや、山陽道筋の茶筅、山陰道筋の鉢屋の如き状態であったと察せられるのである。かのエタや茶筅・鉢屋の徒が村里に付属し、旦那場と称する縄張りを有して、警固雑役に従事しつつ村民の扶持を受けておったのも、おそらくはこの遺風であると解せられる。もちろん茶筅・鉢屋・エタの類のすべてがこの徒に出でたものではない。彼らは別にその起原を有するものではあるが、課役規避の偽法師の徒が、流れてここに入ったものの多かったことを疑わぬ、そしてその茶筅が最後まで空也堂に属して、俗法師の亜流であることを証しているのは言うまでもない。鉢屋またはエタもまた、ハッチ坊主・エッタ法師と呼ばれ、また前記の如く、特にエタの中にも御所のお掃除に任ずるものを、最後まで小法師と称したが如きは、彼らがまた俗法師の亜流たることを示したもので、当然広い意味における声聞師たるべきものである。

しかしながらかくの如きものが、俗法師たる声聞師の行くべきすべての道ではない。彼らのある者は当初から雑遊芸・雑職業に衣食したのもあろう。中には一定の居所を有せず、旅稼ぎの渡り芸人となり、浮浪の傀儡子の仲間になったのも多かろう。勧進・禅門・西国などと呼ばれる乞食法師になりすましたのもあろう。各地に遊行して、托鉢に生きる真の修行者もむろん多かろう。そしてこれらの徒の中から柳田君の数え上げられたような、各種のものも発生したのであろう。奈良の唱門が陰陽師・ヒジリ・梓神子・猿引・傀儡師・番非人などになっていると同じようなことは、全国各地に存在したことを疑わぬ。かくてもとの流れは比較的簡単な俗法師の徒から出でても、その末ははなはだ多くの流派となって、多くは別々の名に呼ばれ、もとの声聞という総括的の名称は次第に失われて、ある地方、ある種類に限ってのみ、比較的後の世までもその名が存しておったが、それも近世ではほとんど忘れられてしまったのであろう。

声聞師がもと俗法師の亜流たることはすでにうるさいほど繰り返した。しかしその「声聞」の文字が不適当とあって、「唱門」の文字を用うべしと言われた時代にあっては、彼らはよほど本来の法師からは縁が遠くなっていた。否、正直に旧縁を保っているような徒輩は、もはや声聞の名をもって呼ばれなくなっていたことであろう。しかもなお彼らは文安の『曩鈔』の頃においても、主として鉦打聖の徒であるとして認められていた。降って応仁・文明頃の大乗院所属の五ヶ所唱門についても、彼らの人名に徳善・福善・心覚などと、明らかに僧名と見るべきものの少からずみえているのは、彼らが社寺荘官に属して非人の賤称をもって目せられ、雑役に服し、警察獄吏の事務に鞅掌するようになっても、なおいくぶん往時の声聞僧の名残りを留めていたものと言わねばならぬ。

Chapter 10 of 28
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