Chapter 1
「鐵」の字古く「銕」また「※」に作る。「銕」の字は旁が「夷」に従っている。夷は東方異族の称で、「銕」はすなわち東夷の金の義である。東方の国早くこの金属を産し、シナに輸入したものと見える。『魏志』〔(弁辰伝)〕に「国鐵を出す、韓・]・倭皆従ひて之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ」とある。「神功紀」に、百済谷那の鉄山の事もある。わが国にも随処砂鉄を産する地多く、鉄を採るの術早く開けて、いわゆる青銅器時代を経ずして、太古の石器時代から、ただちに鉄器時代に移った場合が多かったようである。これは石器時代の遺蹟から、ただちに鉄※の出る遺蹟に続いている場所の少からぬによっても察せられる。
次に「※」の旁の「截」は「切」だ。その金属で作った刃物の切れ味が、従来の青銅器の刃物よりも鋭利であることを意味する。シナでは鉄器時代の前に青銅器時代があった。秦のころまでの武器が青銅で作られていたことは、『史記』に始皇帝が天下の兵を鋳潰して、十二の金人を作ったとあるのによっても察せられる。しかし鉄の利器が出来ては、青銅器の鋭利はとうてい鉄の切れ味よきに及ばぬ。
そこで「※」の字が出来た。わが国には古え軽箭・穴穂箭の名があった〔(「安康即位前紀」)〕。軽箭は青銅の鏃、穴穂箭は鉄の鏃が着いた箭である。允恭天皇の二皇子軽太子と、穴穂皇子すなわち安康天皇とが戦われたとき、青銅鏃の箭を使った軽太子が敗れて、鉄鏃の箭を使った穴穂皇子が勝利を得られた。軽箭はとうてい穴穂箭の敵ではなかった。このお話は青銅の利器が鉄の利器に駆逐さるるに至った状態を、伝説化したものであろう。別に青銅の利器を使う軍隊、鉄の利器を使う軍隊というような、そんな区別があったのではなく、両種の武器の優劣を、両皇子の争いに附会したに過ぎないものと察せられる。必ずしも「軽」と「穴穂」との名に、青銅と鉄との意義があるのではなかろう。
ついでにいう。わが国にも太古青銅の利器がなかったのではない。筑紫鉾と言われた銅剣・銅鉾の類は、少からず土中から発掘される。しかしこれはシナ伝来の文化の結果で、現にわが国で製作せられ、わが国の意匠の表現せられたものがあっても、その製作法は起原をシナに有するものと察せられる。しかしてこれとは別に鉄の精煉は行われたものらしい。これらのことについては、他日別に詳説の機あることを期待する。
この機会をもって、自分は一言懺悔せねばならぬことがある。
たしか一昨年のころのことと思う。今の北野神社の宮司、当時は国学院大学長の山田〔(新一郎)〕法学士が、日本歴史地理学会で、日本においては銅器よりも、鉄の製造が前に発達したとのことを、長々と述べられたことがあった。当時自分は、わが考古学界に古鏡の研究が盛んになって、わが古代の鏡は、シナ伝来の漢鏡で、その以前のものはないとのことが、黙々の間に承認されそうな形勢であったので、それに対するある意味の防禦線ではなかろうかと考えた。したがって、はなはだ失礼ながら、その学説に対しても、深く耳を傾けようとはしなかった。もとよりこれについて、口頭でも、また文字をもってでも、あえて反対意見を発表したのではなく、ただ批評を求められたについて、われらと研究方法が違うとのことを述べたに過ぎなかったから、別に自分に責任を生じた訳ではないが、その後さらに研究を重ね、ことに冶金専攻の斎藤〔(大吉)〕工学博士の教えを受くるに及んで、少くもわが太古において、シナ伝来の青銅器製作法とは別に、鉄器製造の技術の発達を承認せざるを得なくなった。鋳物師なる青銅器の製作とは別に、鍛冶部なる鉄の鍛冶の発達を認めたくなった。ここに至って自分は斎藤博士に謝するとともに、山田学士に対しても、過去の不明を白状し、研究の動機を与えられたことを謝せねばならぬ。ただしその研究方法は依然として山田君とは違う。したがって山田君の御説の全部を承認したのではないことを、ここに保留しておきたい。ただ古く鍛冶部の存在した事実を承認して、ともに研究を進めたいと思う。その詳細は他日の発表を待たれたい。
●図書カード