半島の早春
三浦三崎
大正十二年二月一日午後、何処といふあてもなくアルスの牧野君と小田原駅から汽車に乗つた。その車室に前田夕暮君が居た。何処へ行くと訊かれたのでまだわからぬと答へた。君はと云つたら大島へ行くつもりだつたけれど汽船に乗り遅れたので引返すところだと云つた。ぢやあ一緒に何処かへ行かう、それもおもしろいと云ふ事になつた。で結局三崎行ときめて、横須賀へ出た。出て見るとその駅の前にはもう薄ら寒い日の暮の風が吹きしきつてゐた。
ぼろ自動車の上
日の暮のぼろ自動車にすくみゐつ赤き浮標見居り乗合を待ちて
風空に造船場の高く赤き鉄柱が焼け暮ならんとす
日暮れぬ路いつぱいに埋まり来る職工の群にひたと真向ふ
前まへと堰き溢れ来る人の顔どれもどれも青し押しわけてゆけば
雪のこる片山蔭の板びさし今は見て安し灯が点くも
外見ると幌ひきはづす手のつめたさ遥かの不二は吹雪雲の影
雪ふるは天城かと見る次の眼に夕焼の赤きまばら松見ゆ
山峡を遥に小さき人の影寒むざむと追ふ斑雪ぬかるみ
山間に愛し小さしと見し人が際に避くるこれの猿面
遥かの山ぎざぎざに白し半島の上をわが自動車はまつしぐらなる
良夜行
あまりに月が良いので自動車を下りる。三崎の一里てまへ、引橋の茶屋の少し先き、そこらが半島の最も高い道である。
この空の澄みの寒さや満月の辺に立ち騰る黄金の火の立
満月の辺に立ち騰る炎の粉宵空の澄みに澄み消なむとす
山は暮れぬましぐらに駛る自動車の真正面の空の宵の満月
月明き半島の夜を歩まむとし汐ふかき風をまづ吸ひにけり
とりどりに歩む姿ぞおもしろき松の並木のきさらぎの寒を
青く真澄む幻燈の空に枝さしかはす山松が景も早や二月なる
月の坂に我ら追ひ越す自動車の埃の立ちの秀の青さはも
太鼓うつ音のきこゆる月の森そこかここかと聴けば遠しも
おのづから岡の歩みは太鼓うつ月照る磯に近づきにけり
北条入江
この廓は燈火紅し草臥れて雪どけの道を行けばひもじき
宵はまだ月の入江の枯葦の影くきやかに汐あかり満つ
枯葦や入江の潟にのる汐の上づら寒し月はかがよふ
月と太鼓
私の雲母集中の異人館はその後海嘯で流されたとかで、もはや跡方もなくなつてゐた。
今は無き我家の跡に櫓かけて磯の良夜を子ら太鼓うつ
月がたたく太鼓ならしとおもひきや我家の跡の子らが興なる
春あさき囃子求め来て月の磯の我家の跡の汐あかり見つ
来て見ればいよいよ近き月明り通り矢も見ゆ城ヶ島も見ゆ
照り曇る月の夜ながら小童がたたく太鼓の冴えの愛しさ
童らがたたく太鼓は月の夜とこだましにけり島の森より
何がなし心安きはたぷたぷと石垣をうつ満ち汐の音
臨江閣
元の私の家の隣である。当時親しくしてゐたその家も代が変つて今は旅館になつてゐる。ここに私達は泊ることにした。
この宿は小松にまじる枯葦の影し騒げど月明りせり
月明く風やや烈し湯をいでてさやぐ小松の影を見てゐる
沖釣の宵の夜ふけの漁火の繁く遥るけき憂世なるかも
灘遠く連れてまたたく漁火の風のこなたの月夜さざなみ
あれだあれだ城ヶ島のとつぱづれに燈台の灯が青う点いてる
雨雲に月飛ぶ迅し旅蒸気のマストは青き燈をかかげたり
この宿の生洲の汐に映るもの石崖と岩の墨いろの影
友よ飲まむ寂しと言葉落したり音せぬは汐も満ちたるらしき
草臥ぶれておのれ素直になりにけり酒やふふまな歌はせ女子
われ酔ひぬ君もうたへよ童うたうたひ遊ばむあはれあはれ酔ひぬ 戯れて三首
頭に火をつけよ線香花火の火の粉の松葉菊ちふ華も咲かさな
童うた「金魚の鉢」ぞあなかしこおのれよろしよ「金魚の鉢」は
八景原
二月二日八景原に遊ぶ。
椿
この坂の椿の紅さ先のぼる一人は早くも佇ちて仰げり
女仏
あなかしこ女仏なりけり触り冷き石にてはませど常ならず見ゆ
つめたけど触りて愛しと惚れてしが石の女仏の眼眸の露けさ
椿葉の冷えの明りに浮き立たす石の仏のほそり肩はも
崖の上
崖の上の高畑道のはだら雪踏みほそりつつ一人は遠し
日は高きに雪と小松のほそり道人には逢はね下は波の音
振りかへれば振りかへり見つ荒布採りの海女一人が籠は紅つばき挿す
雪うすき小松が間に啼く鳥は頬白か否か春も浅きか
八景原
昆布噛み冷酒ふふむと昼磯に集へどさびし一面の照り
はるばるに潮満つらしく思ふとき手をかざしたり迎への舟より
午ちかきひたひた潮の岩照りを迎への舟が揺れてはひり来
舟上
八景原より城ヶ島へ
昼潮の照りの明りに漕ぎ馴れて遠く遊びし昔かなしも
昼潮に雙手ひたして思ふことかく父母と常に遊びき
満潮のゆたのたゆたに揺れゆかなゆくらゆくら漕げようつらうつら行けよ
昼潮の満ちのたたへに漕ぐ舟のねもごろにとろき櫓の音なるかも
城ヶ島
二月二日午後
萱原
萱わくる音こそすなれわがほかは先ゆく人も遠しと思ふに
萱原の萱の遥かに思はずも先ゆく友が頭見せたり
萱刈る人ひとり居りけり枯れかれし萱の中ふかく身をうづめつつ
島山に深き萱刈る鎌の音青空にひびき闌けんとす、昼
日小さしまだ遅からず仰ぎ臥て萱刈る音の刈り深む聴く
老媼
草刈りの七十ばかりのお婆さんに前田君がたづねてゐた。「お婆さん、この島でも盆踊の歌があるかね。」「お盆には無えだ、お正月には盆踊があるだ。」「なんと云ふ唄かね、」お婆さんはどう思つたか、ふと唄ひ出した。おもしろい手つきをして、唄つてゐる時はなんとも云へぬうれしさうな若やいだ顔をしてゐた。が唄ひをはるとむつりとした元の顔になつて黙つてまた刈り初めた。その唄はかうである。
つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて負けてやる
私たち二人は腹をかかへて笑つた。さうしてまた寂しくなつて了つた。
萱刈りやめ媼はうたふ日ののどかなんとその眼のうれしさうなる
歌ひをはり済まぬ顔しぬ島媼また枯草を刈りいそぎつつ
媼居り萱を刈りけり子らは来て萱を負ひけり日の小さきに
萱負ひて子らは子らとて下りゆけり媼は刈りぬひたむきの刈り
島鶉
島鶉啼きつと思ひぬ深き萱のそよぎの照りのしづもりの中に
島山の萱の閑かに鶉ゐて啼くなる昼は雌もこもり啼く
すれすれに鶉飛び立つ萱の風また一羽立ちぬこもりたらしも
遊びが崎
昼潮に櫓臍漕ぎ落し思はずも幼なごゑ立てぬそれがをかしき
大椿寺
同日薄暮、城ヶ島より宿へ帰つて後、散歩のついでに立ち寄つて見た。椿御所がこれである。宿の近く、同じ向ヶ崎にある。
この寺が大椿寺ぞとはひり来て寂しと出でぬ日暮を二人
この寺も古うなりぬと陽の隈に尿しつつ云ふ我も寒むかり
さびさびと暮れしづもれば磯寺の障子はかげる寒しとなしに
長井
二月三日薄暮、三崎より乗合自動車での帰途半で下車、長井で一泊することになつた。翌四日、その磯を散歩し、裏道から県道へ出、逗子行の立場まで行きその日暮れに其処を立つた。その間の所見である。
水あかり
黒川の浅夜の冷やき水あかり江につづくらし広き汐騒
黒川の葦辺の冷やき水あかり夜汐かまじる暗くにほへり
川間橋何か藻くづの青めくは夜釣のさしてにほふならしも
安旅籠
この晩は少し疲れて苦しかつた。心臓を弱めたのである。
灯のもとに夕餉の騒ぎ露はなるまづしき磯に行けばひもじさ
磯宿は下の祠に提燈が点き白い幟の月と風です
安宿のこれの硝子戸夜風に鳴り佐島の燈うつつなく見ゆ
磯宿のこの婢女が言なきはまたくつめたき鱗がどちか
友とゐてさびしとは思はね一つの蜜柑いつまでもむきて酒うまからず
寂しけどなにか今宵の気の安さこの磯宿の磯香くさきも
鰯子の函
雨かとも夜すがらききし点滴は朝起きて見れば幟竿の揺れ
この磯は半ば枯れたる浜木綿の日向かがやかし鰯子の函干す
磯に干す鰯子のかがやき目馴れねばうら寂しかり朝の餉はまだ
まじまじと眺めて蜜柑むきゐたり硝子戸越しの鰯子の浅照り
今朝はまだ太鼓たたかず磯の鼻に竹馬の子が遠く沖見る
入江の波いまだかがやかずつつましく箸さしおきて今朝暇あり
遠浅の春さきの江か今朝は晴れて風烈しけれど波の穂低し
風波の穂立の迅さ浅々に見えつつは走れ白く白く飜る
春と云へど横の出崎の日あたりもまださむざむし枯木三四本
寒い風の入江の潮にすれすれ出てる枯草の島に日があたるところ
海苔
潮ふくむ浅きみどりの青海苔の簀々を嗅げば春なり
この朝や風は高けど片磯の石垣に青く海苔簀干す
老らくの寂しごころか浜へ出て鶏追ひゆく万祝衣の爺
小竹の村
この磯は枯小竹多し行くところ吹かれ吹かれぬ小竹あらぬなき
磯村は風を荒みか背戸ごとに矢竹篠竹家垣にせり
家垣の篠の枯藪風をしげみほほけなびけりの障子に
この枯れし竹は矢竹か女竹かと立ちとまり見つつ見つつ行きけり
家垣の矢竹の裏の紅つばき咲きにけらしな花二つ三つ
丘窪
丘窪は刈田の泥も刈株もさびつくしたれ日のあたりつつ
丘窪は刈田に泥ぢし稲株のさびさびにけりそのこちごちに
丘窪の刈田のへりの溝川の青の水藻は目に新しき
群松の日かげのあをきはだら雪見て通るなりこころ冷えつつ
日のあたる枯篠藪の円丘のところどころのしら梅の花
目にとめてはや寒からず柴刈る子ら日あたりの丘に何か笑へり
日蔭田をむつりむつりと群れ来る子ら早や日あたりへ一人は出づも
何祭る二月の子らぞ青榊手に手に持ちてつつましく来る
春浅き片山蔭の女松原つばらつばらに日のあたりたり
岡裾も青みそめたり肥やると揺れかつぐ影もはや寒むからず
牛ひとつほつり出たり下丘の日照る畑の青きはづれに
雪ふかき窪田の畔の蚕豆のみづみづしさに見ておどろきぬ
誰かゐて豚小屋のぞく日のいとま安けからしと見て通りゐる
春あさき小葱がそばの草ぐみの実のつめたさを食べて見んとす
立枯銀杏
目にとめてはや寒からず冬銀杏かうかうと白う寂び明りたる
銀杏の立枯の枝の白金光のほうほうとして実にこまかさ
暇あり
梅はまだそこらここらの雑木山眺めつつ行かな遊び遊びに
たまさかの暇いただき出て遊ぶ二日三日ゆゑいよいよ愛しも
高畑道
風烈しき高畑越えて耳柔き斑らの仔牛道はかどらず
青麦の高畑道の日の光斑らの仔牛眼もさだまらず
春はいまだ風かはげしきこの丘や警報球を赤くかかげつ
風の下り坂
雪どけのぬかるみ坂を吹きあぐる早春の風はまだ頬につめたし
浅黄の外套に頬かむりしぬこの風の磯山道は梅ところどころ
長井遠望
かくばかり小竹多き磯と知らざりき通り抜けて薄き陽ざしに見れば
ここから出て見ようかと出て見てる洲崎の下の小竹の薄い陽
薯がらの小積のかげだ吸ふ煙草だ早春の出洲の烈風を除けて
県道へ出る道
道を問へばどの家も障子ひらかずしておつとりと答ふ午の里なる
早や青む畝の車前草つめたよと踏みつつ伝ふ友が後べを
風冷やき棕櫚の根方に尿して日向を走る子が前の矮鶏
林新道
向うの切りくづし崖の黄の壁に陽があたつてる菜畑も見えて
もう春だ春だほうれトロッコが走る走る走る誰か手をあげる
あの頃のあのこころもち手をあげてトロッコで走るちやうどあれです
どこやらから春が来さうな雪の後ですトロッコの土の東風です
さうだあの気合ださうださうだ一息に辷るトロッコの走り
入江の上
引き潮にほとほと涸れし江の上の隣田寒し藁のみ積みぬ
潮の路こちごちに光れ黒き洲のおほかたは涸れぬ葦むらの外に
風の向をりふし変る荻むらはたださわさわし眺めに出ても
枯葦が枯葦のかげを落してゐるただそれだけの温い冬の日