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東京景物詩及其他
北原白秋
わかき日の饗宴を忍びてこの怪しき紺と青との
詩集を“PAN”とわが「屋上庭園」の友にささぐ
東京夜曲
公園の薄暮
ほの青き銀色の空気に、
そことなく噴水の水はしたたり、
薄明ややしばしさまかえぬほど、
ふくらなる羽毛頸巻のいろなやましく女ゆきかふ。
つつましき枯草の湿るにほひよ……
円形に、あるは楕円に、
劃られし園の配置の黄にほめき、靄に三つ四つ
色淡き紫の弧燈したしげに光うるほふ。
春はなほ見えねども、園のこころに
いと甘き沈丁の苦き莟の
刺すがごと沁みきたり、瓦斯の薄黄は
身を投げし霊のゆめのごと水のほとりに。
暮れかぬる電車のきしり……
凋れたる調和にぞ修道女の一人消えさり、
裁判はてし控訴院に留守居らの点す燈は
疲れたる硝子より弊私的里の瞳を放つ。
いづこにかすずろげる春の暗示よ……
陰影のそこここに、やや強く光劃りて
息ふかき弧燈枯くさの園に歎けば、
面黄なる病児幽かに照らされて迷ひわづらふ。
朧げのつつましき匂のそらに、
なほ妙にしだれつつ噴水の吐息したたり、
新しき月光の沈丁に沁みも冷ゆれば
官能の薄らあかり銀笛の夜とぞなりぬる。四十二年二月
鶯の歌
なやましき鶯のうたのしらべよ……
ゆく春の水の上、靄の廂合、
凋れたる官能の、あるは、青みに、
夜をこめて霊の音をのみぞ啼く。
鶯はなほも啼く……瓦斯の神経
酸のごと饐えて顫ふ薄き硝子に、
失ひし恋の通夜、さりや、少女の
青ざめて熟視めつつ闌くる瞳に。
憂欝症の霊の病めるしらべよ……
コルタアの香の屋根に、船のあかりに、
朽ちはてしおはぐろの毒の面に
愁ひつつ、にほひつつ、そこはかとなく。
オロンの三の絃摩るこころか、
ていほろと梭の音たつるゆめにか、
寝ねもあへぬ鶯のうたのそそりの
かつ遠み、かつ近み、静こころなし。
夜もすがら夜もすがら歌ふ鶯……
月白き芝居裏、河岸の病院、
なべて夜の疲れゆくゆめとあはせて、
ウヰスラアーの靄の中音に鳴き鳴きてそこはかとなし。
四十二年一月
夜の官能
湿潤ふかき藍色の夜の暗さ……
酸のごとき星あかりさだかにはそれとわかねど
濃く淡き溝渠の陰影に、
青白き胞衣会社ほのかににほひ、
多く、而もみな閉したる真四角の煙艸工場の
煙突の黒みより灰ばめる煤と湯気なびきちらぼふ。
橋のもと、暗き沈黙に
舟はゆく……
なごやかにうち青む砥石の面を
いと重き剃刀の音もなく辷るごとくに、
舟はゆく……ゆけど声なく
ありとしも見えわかぬ棹取の杞憂深げに、
ただ黄なる燈火ぞのぼりゆく……孤児の頼りなき眼か。
つつましき尿の香の滲み入るほとり、
腐れたる酒類の澱み濁りて
そこここの下水よりなやみしみたり、
白粉と湯垢とのほめく闇にも
青き芽の春の草かすかににほふ。
湿潤ふかき藍色の夜の暗さ……
かへりみすれば
いと黒く、はた、遠き橋のいくつの
そのひとつ青うきしろひ、
神経の衰弱にぞ絶間なく電車過ぎゆき、
正面なる新橋の天鵝絨の空の深みに
さまざまの電気燈の装飾、
そを脱けて紫の弧燈にほやかにひとつ湿れる。
あはれ、あはれ、爛壊のまへの官能のイルユミネエシヨン。
しかはあれども、
湿潤ふかき藍色の夜の暗さ……
溝渠の闇の中病院の舟は消えゆき、
青白き胞衣会社にほふあたりに、
整はぬ鶯ぞしみらにも鳴きいでにける。
四十二年三月
片恋
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋の薄着のねるのわがうれひ
「曳舟」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
四十二年十月
露台
やはらかに浴みする女子のにほひのごとく、
暮れてゆく、ほの白き露台のなつかしきかな。
黄昏のとりあつめたる薄明
そのもろもろのせはしなきどよみのなかに、
汝は絶えず来る夜のよき香料をふりそそぐ。
また古き日のかなしみをふりそそぐ。
汝がもとに両手をあてて眼病の少女はゆめみ、
欝金香くゆれるかげに忘られし人もささやく、
げに白き椅子の感触はふたつなき夢のさかひに、
官能の甘き頸を捲きしむる悲愁の腕に似たり。
いつしかに、暮るとしもなきあかり、
七月の夜の銀座となりぬれば
静こころなく呼吸しつつ、柳のかげの
銀緑の瓦斯の点りに汝もまた優になまめく、
四輪車の馬の臭気のただよひに黄なる夕月
もの甘き花子の薫してふりもそそげば、
病める児のこころもとなきハモニカも物語のなかに起りぬ。
四十二年七月
S組合の白痴
雑艸園
悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷き愁と、――
霊の雑艸園の白日はかぎりなく傷ましきかな。
たとふればマラリヤの病室にふりそそがれし
香水と消毒剤と、……の外なる蜜蜂の巣と、……
そのなかに絶えず恐るる弊私的里の看護婦の眼と、
霖雨後の黄なる光を浴びて蒸す四時過ぎの歎に似たり。
見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに点りたる瓦斯の火の病める瞳よ。
かくてまた蹈み入りがたき雑艸の最も淫れしあるものは
肥満りたる、頸輪をはづす主婦の腋臭の如く蒸し暑く、
悲しき茎のひと花のぺんぺん草に縋りしは、
薬瓶もちて休息める雑種児の公園の眼をおもはしむ。
また、緩やかに夢見るごときあるものは、
午後二時ごろの Caf に Verlaine のあるごとく、
ことににくきは日光が等閑になすりつけたる
思ひもかけぬ、物かげの新しき土の色調。
またある草は白猫の柔毛の感じ忘れがたく、
いとふくよかに温臭き残香の中に吐息しつ。
石鹸の泡に似て小さく、簇り青むある花は
ひと日浴みし肺病の女の肌を忍ぶごとく、
洋妾めける雁来紅は
吸ひさしの巻煙草めきちらぼひてしみらに薫ゆる
朝顔の萎みてちりし日かげをば見て見ぬごとし。
見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに瞬ける瓦斯の火の病める瞳よ。
あるものは葱の畑より忍び来し下男のごとく、
またあるものは轢かれむとして助かりし公証人の女房が
甘蔗のなかに青ざめて佇むごとき匂しつ。
ことに正しきあるものはかかる真昼を
饐え白らみたる鳥屋の外に交接へる鶏をうち目守る。
噫、かかるもろもろの匂のなかにありて
薬草の香はひとしほに傷ましきかな、
哀れ、そは三十路女の面もちのなにとなく淋しきごとく、
活動写真の小屋にありて悲しき銀笛の音の消ゆるに似たり。
見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに黄ばみゆく瓦斯の火の病める瞳よ。
あはれ、また
知らぬ間に懶きやからはびこりぬ。
ここにこそ恐怖はひそめ。かくてただ盲人の親は寝そべり、
剃刀持てる白痴児は匍匐ひながら、
こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。
またその傍に、なにとも知れぬ匂して、
詮すべもなく降りゆく、さあれ楽しくおもしろき
やぶれかかりし風船の籠に身を置く心あり。
あるは、また、かげの湿地に精液のにほひを放つ草もあり。
見よ、かかる日の真昼にして
気遣しげに青ざめし瓦斯の火の病める瞳よ。
悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷き愁と、
霊の雑艸園の白日の声もなきかがやかしさを、
時をおき、揺り轟かし、黒烟たたきつけつつ、
汽車飛び過ぎぬ、かくてまたなにごともなし……。
四十二年十月
瞰望
わが瞰望は
ありとあらゆる悲愁の外に立ちて、
東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。
七月の白き真昼、
空気の汚穢うち見るからにあさましく、
いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍く黄ばみたれ、
あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、
(新嘉坡の土の香は莫大小の香とうち咽ぶ。)
また、青ざめし羽目板の安料理屋のの内、
ただ力なく、女は頸かたむけて髪梳る。
(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)
洗濯屋の下女はその時に物干の段をのぼり了り、
男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。
九段下より神田へ出づる大路には
しきりに急ぐ電車をば四十女の酔人の来て止めたり。
斜かひに光りしは童貞の帽子の角か。
かかる間も収まり難き困憊はとりとめもなくうち歎く。
その湿めらへる声の中
覇王樹の蔭に蹲みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。
煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。
白昼を按摩の小笛、
午睡のあとの倦怠さに雪駄ものうく
白粉やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。
交番に巡査の電話、
広告の道化うち青みつつ火事場へ急ぐごときあり。
また間の抜けて淫らなる支那学生のさへづりは
氷室の看板かけるペンキのはこび眺むるごとく、
印刷の音の中、色赤き草花凋え、
ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾は
げにいかがはしき病の臭気こもりたり。
(いま妄想の疲れより、ふと起りたる
薬種屋内の人殺、
下手人は色白き去勢者の母。)
何かは知らず、
人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、
肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、
「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色は一瞬にして隠れたり。
いたづらに玩弄品の如き劇場の壁薄あかく、
ところどころのの色、曇れる、あるはやや黄なる、
弊私的里性の薄青き、あるは閉せる、
見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、
(亡き人おもふ哀愁はそこより来る。)
獣医の家は家畜の毛もていろどられ、
歯科病院の帷は入歯のごとき色したり、
その真中にただひとつ、研ぎすましたる悲愁か、
冷き理髪の二階より、
剃刀の如く閃々と銀の光は瞬けり。
あらゆるものの疲れたる七月の午後、
わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、
凡ての上にうち湿る「東京の青白き墳墓」
ニコライ堂の内秘より、薄闇き円頂閣を越えて
大釣鐘は騒がしく霊の内と外とに鳴り響く。
鳴り響く、鳴り響く、……
四十二年十月
心とその周囲
窓のそと
1
わがのそと、
黄なる実のおよんどんのちまめは小さなる光の簇をつくり、
葉かげの水面は銀色の静寂を織る。
白くして悩める眼鏡橋のうへを
鉄輪を走らしつつ外科医院の児は過ぎゆき、
気の狂ひたる助祭は言葉なく歩み来る。
鐘を撞け、鐘を撞け、
恐ろしき銀色の鐘を……
この時、近郊を殺戮したる白人の一揆は
更にこの静かにして小さなる心の領内を犯さんとし、
すでにその鎗尖のかがやきはかなたの丘の上に閃めけり。
正午過ぎ……一分……二分……三分……
日は光り、そよとの風もなし。
2
ある日、わがの硝子のしたに、
覆されたる蜜蜂の大きなる巣激しく臭ひ、
その周囲に数かぎりなき蜂の群音たてて光りかがやき、
粗末なる木の函へすべり入り、匍ひめぐる。
かがやかしき歓喜と悲哀!
すべてこの銀色の光のなかに
太くしてむくつけき黒人の手ぞ
働ける……甘き甘きあるものを掻きいださんとするがごとく。
その前に負傷したる敵兵三人、――
あるものは白き布にて右の腕を吊したり――
日に焼けたる絶望の顔をよせて
そこはかとなきかかる日の郷愁に悩むがごとく
珍かにうち眺めたる……足もとの黄色なる花
湿りたる土の香のさみしさにりつつうち凋る。
鐘は鳴る……銀色の教会の鐘……
硝子のなかには
薄色の青き眼がねをかけたる女、
かりそめのなやみにほつれたる髪かきあげて、
薬罎載せたる円卓のはしに肱つきながら
金字見ゆるダンヌンチオの稗史を閉し、
静かなる杏仁水のにほひにしみじみときき惚れてあり。
ああ午後三時の郷愁……
S組合の白痴
夕まぐれ、石油問屋のS組合の入口に、
つめたき硝子戸のそと、
うち潤る石油色の陰影の中、薄ら光る銀の引手のそばに
薄白痴のわかきニキタは紫の絹ハンケチを頸にむすび、