一
牛車や荷馬車、貨物自動車等のごったがえしている場末の鉄道踏切を渡ると、左の方へ小さな田圃路が折れている。その辺りからは路もぬかるみ、左右の水溜りでは雨蛙が威勢よく騒いでいた。小雨は音もなく夕暮の沼地をしっとりと濡らしている。
二人が、お互い黙々と歩いている中に、もう辺りは暗くなった。いくらか屠殺場の附近がぼうっと薄明るいだけだった。淡い電灯の光芒は水田の稲の穂がしらを白っぽく照らし、跫音に驚いた雨蛙は田の中へ音を立てて飛び込んだ。家畜小屋からは時たま豚がけたたましく金切声を上げていた。
二人は屠殺場の前を通りしなに幾人かの男達に出遇った。
「今帰るだかね」誰かが口ごもりながら呟いた。
元三爺は何やら話したげに心持ち立ち止りかけたが、白い眼を光らせるつれの男に気後れがして、そのままへーと笑ってついて行った。
「先達、乞食共だで」
男は答えなかった。
古戦場の土城廊は程遠くない所に蜿蜒と連なっていた。傾斜には棒切れや藁屑等で蔽われた土幕小屋が這うように一杯詰っている。そこへ二人が辿り着いた時は、丁度土幕はどれも雨の中にじーんと沈み込んでいた。所々煙が漂うている。二人は用心深そうに土幕の間を縫うて土城の上へ登って行った。高くせり上ったポプラの木は西瓜色の空をゆらゆら掻き乱している。西の方の平野を撫でて来る夕風が、濡れ着をばたばたとなぶる。二人はゆっくりと肩から支械(担具)を取り外すと、それを両手にかかえて西側の傾斜へ影陰のように静かに消え失せた。
爺は自分の土幕に近附いて行くと叺のおおい物をおし開いて大きな図体を這いずり込ませた。生温かい悪臭がむっと鼻息を詰らせ、身動きと共に膝元で藁がかさかさ音を立てる。敷藁も濡れていた。爺は手探りでやっとマッチを探し火台に火をつけた。小屋の中がぱっと明るくなり、焔はひらひらと隙間風に揺れ出した。
彼が小さな土幕の中にずしっと坐り込んだ様は丸で大きな石像のようだった。首は度外れに太く、長い口は締りなくあいて、空ろな目は所在ないほど大きかった。火光がてらてらと全身を隈取りつつ照らしている。爺は静かに濡れた上衣を脱いで背をちぢかめ、泥だらけの足袋をうんうん力んで脱ぎ取った。ばら銭が中からざらざらと藁の上に落ちて来るのだ。爺はくくくと笑って拾い上げると、一つ一つ掌の上にのせて調べてみた。そして如何にも満足そうに口を大きく開けると、ながながと欠伸をし、一度仰山に胴ぶるいをするのだった。
すぐ隣りの先達の小屋で急に何だか甲高い異様な声がしたようだ。暫しまどろんでいた元三は驚いて入口の方へずり寄って耳を欹てた。彼は少しばかり耳が遠いのではっきり聞えはしなかった。――
先達が元三爺と別れて自分の土幕へはいってみると、五つになる男の子が激しく泣いていたのだ。婦は目に角を立て蒼い火を点している。支械を下ろして先達は頼むように弱々しく叫んだのである。
「どんげして泣かせるだよ」
「へん、どんげしてだと」婦は立ち所に喚き返した。「餓鬼に訊いてみるがええでねえか。木偶の坊奴! よくもあつかましく訊けたもんだね!」と、云い様、発作を起して子供の足を捉えて吊り下げると、無慙にも背中を打ち叩いた。先達はかっと逆上せた。婦がそんなことをするのも、所詮稼ぎ帰りのよくない彼へのいやがらせに違いなかった。
「よせ、よさねえかよ」と彼は腕を振り上げて一喝した。
それでも彼女は手をゆるめないので、色蒼ざめて飛びかかり彼は婦をねじ伏せた。婦は悲鳴を上げ子供ははね飛ばされ、小屋はでんぐり返るような騒ぎになったのである。
「う……全く……」
気をもんでいた元三は呻くように独りごとを云った。
とうとう婦は逃げるように転がり出て来た。だがそれでも負けずに先達の怒りに煽りをかけて悪たれをつく。
「そんげに亭主風が吹かしたけりゃ稼いで来たらええでねえか、毎日さ、よくも人の米をふんだくるだよ! ……」
思わず爺は胸にどきっとこたえるものを感じて首をひっこめた。実は今日先達が持ち帰った米にしても自分の稼ぎ分で、いつものように先達に買わされたからである。だが元三は息を殺し再び首を突き出しておずおず入口の隙間から外を垣間見た。雨が降っているのに婦は上体に何も着けていなかった。それがぶよぶよと動いているのを見ると、爺はねばっこい唾をごくりと呑み込んだ。婦は何かをぶつぶつ呟きながら土鍋を持ち抱えて来る。それで爺は心持ち腰を浮したが、すぐに思い返したように手を揉んで再び坐り直った。土鍋を抱え麓の川に下りて粟をとぎ水を汲んで来るのがいつもの彼の役目だったが、ふと先達に悪いと思ったからである。
「爺や、水を汲んで来な」
婦はぶっきらぼうに先達にまで聞えるような大きな声で叫ぶ。先達は元三が自分の婦のためにそんなことをするのをひどく嫌うのだった。
反射的に元三は熊のように土幕を這いずり出た。雨が裸の上体へふりかかるので、うふふ、うふふ奇妙な悲鳴をあげた。雨がもっとひどくなって目の先が見えなくなる。爺は土鍋を抱えて一層うふふ、うふふおどけた叫び声を上げつつ、泥の中を踏み分けながら麓の方まで下りて行った。川は雨に打たれて騒然としている。水の中へ片方の足を入れてみた。冷かった。辷りこけそうになってもう一つの足を突き入れ、少しずつはいって行った。きたない溝川なので成るべく深くまではいらねばならなかった。一尺位の深い所まで水に漬ると、二三度粟をといで水をごぼごぼ汲み入れ、再びうふふ、うふふ奇声を上げながら飛び出した。そのとたんに雨がざあっと土砂降りにかわり、一陣の野風がごうと吼え襲って来た。爺は一寸たじろいてよろめいたが、ふと上の方で婦が何か悲鳴を上げたように思えた。先達が婦を引きずり込んで小突き廻しているのに違いないと彼は考えた。それで大変だとばかり慌てふためき泥をかき分けながら小屋まで上って来た。だが雨と風の音ばかりますますつのり、先達の小屋は死のようにしーんとしていた。何だか急に張りの抜けたような淋しい気持だった。
爺はじっと立ちはだかって、抑えたような声で不機嫌そうに呟いた。
「姐さん、持って来ただよ」
中からは答えがなかった。
「あ――ええだ。こっちさ持って来るだよ」
声のする方を振り返って見れば、雨よけの所に黒い影が跼っている。
「へ、そこさいただね」
爺は相好を崩して婦の方へ近寄って行ったのである。
先達は最近特に気力が衰え支械を背負って街に出ても、倉庫の傍や或は流れ美しい大同江畔の破船の中に躯を横にする時間が多くなっていた。彼は日々の米代も碌には稼げなかった。眼は深く落ち凹み、首は目に見えて細くなった。婦は日を経ると共にだんだん彼に辛く当って来る。いつも食いしゃぶらんばかりに喚くのだった。
「皆、誰のせいかよ。この妾をどうしてくれるだよ」
そうする中に、元三爺は名実共に先達一家の命の親となった。けれどそれは先達にとっては非常に心辛いことだった。ふだんは押し黙って目だけをぱちくる彼だったが、胸の中にはいつも赤い焔が燃えている。今日も元三と肩を並べて帰って来たが、みちみち内心穏かではなかったのだ。米屋の前に足を止めて爺に粟を買わせる自分の姿。それは何という嫌なものだったろう。婦は又「毎日人の米をふんだくる」と事毎につけて悪罵するではないか。
成程もとを正せば元三が先達の世話にはなっている。それは爺が先達の助けでこの土城廊に土幕を構えたからなのだ。爺はそれまで或る遠い山奥で土豪の奴僕をしていた。父も母も奴婢なので、生れて以来頭の毛から足の爪先まで何一つ自分のものはなかった。勿論嬶もいない。だが実に五十余年を過ぎて主家は没落し、始めて自由な身になった彼である。世界は新しく開けたのだ。忠僕の爺は悲運の迫った主家の邸下に跪いて慟哭し、山村の人々にも一々腰を曲げて別れを告げ飄然と出掛けて来た。まだ山の峠には雪が真白く積っていた。寒い風に吹かれつつ峠の上に突っ立って感慨無量にじっと懐かしい山村を眺めていたことを、今だに忘れることは出来ない。
だが夢に聞く平壌は二十里もある。歩いて三日、日も暮れ頃辿り着いた時は、さしずめ見るもの聞くもの凡てが戸惑いだった。しかも陰二月暮れの北風はまだ雪と霜に研がれて身をきりさいなんだ。爺はがたがた歯を慄わせつつ街外れの市場をうろつき廻った。ところが薄莫迦げた物腰や異様な風采のために、爺は周囲の支械軍(担荷人)達に取り囲まれて嬲られるようになった。積荷のあてがなくごろごろ寝転んでいた彼等にとって、それはもって来いの慰みだったのだ。
――山から出て来た熊のようだで。
一人が叫んだ。皆はにやにやわらい出した。
――いや虎だぞ。
「う、わっしあ」愚直な爺はうろたえて方々へ頭をぺこぺこ下げた。「丁元三でごぜえますだ。う、山の者でがすだ」と云いつつ、今度は一人一人の前をぐるぐる拝んで廻った。
――まるで粉挽屋の牛でねえか!
支械の林はどっと喊声を挙げた。元三はいよいよ間誤ついて大きな目をぐりぐりさせ、自分の身をどう始末していいか天手古舞いをした。支械軍はますます面白がってえへらえへら笑ったり、口々に脅かしてみたり小突いたりした。
これを見かねて或る中年の支械男が爺を静かな一隅へ連れて行った。男は爺にか細い声で何処から来たのかと質ねた。目の鋭く色の蒼ざめた男だった。危かしい程ひょろ長い脚にはよれよれの袴がまつわりついていた。元三はぶるぶるふるえつつ何度も腰を折った。
「孟山からでがす。丁元三ちゅうもんでがす……」
「ここさいねえで酒幕(木賃宿)へ行くがええだ」
「わ、わっしあ、う、おあしをもたねえんでがす」
「何だって来ただや?」
「わっしあ、う、これから働くんでごぜえます」
男は暫し小さな目をしょぼつかせ何かを考え込んでいたが、遂に爺を土城廊へ連れて行き土幕の構えを世話することになった。こうして元三と先達の家族との関係が始まったのである。
悪夢のような過去は葬られ、元三は新たに自分の生活を始めるようになった。爺は有頂天になった。他の土幕民と同様に自分一人の小屋を持ったのだ。屋根には持金をはたいて藁を葺いたので、アンペラや板屑やトタン切れの他の小屋よりは確かに見映えさえした。こういうことも彼にはひそかな誇りだった。そればかりではない。この土城廊の人々が大抵は乞食であるのに引きかえて、毎朝肩に支械を背負って心も浮々と出掛ける自分の姿は、後光のさすような幸福なものだった。街を歩く時もうずうずしてならなかった。百斤の重い荷を軽々とつけて、電車と駆けくらべをせんばかりにうふふ、うふふと笑い声を上げつつ駆け出すこともある。車掌はブレーキをかけて「莫迦野郎」と呶鳴った。でも依然としてうふふ、うふふ片手を振り振り走って行った。荷主の老婆は、鴨のように「泥棒、泥棒!」とぎゃあぎゃあ喚き立てる。路上の人々はにやにや笑いながらこんな異様な光景に目をやった。
元三はそれに先達一家を助けるということにも、人知れない悦びをもっていた。彼の身上、所謂恩に報いるということは彼には最も得意な所である。それで帰る時はいつも米を買い求めた。先達夫婦を感激させることが愉快でたまらないのだ。婦が言葉を尽して有難がる度に、爺は滅相もないとばかり両手を振った。「うふふ、何を云いなさるだね……」そして目を据えて宙を瞠める。「う、ただお互い様もたねえのでな。う、昔のように畑さ何町歩も持っていたらなあ……」それから舌をべろりと舐め、「全くこうなるちゅうこたあわっしゃ知んねえだったに……」
そしてへーと笑った。
だがそうこうする中に、先達夫婦の間には争いが絶間なく起って来た。先達は訳もなしに元三を憎み始めた。婦はそうなれば働き者の爺を引合いに出して、気力の弱って来た夫の気をいよいよ逆立てる。先達はますますいきり立って婦に悪たれをつき、さては忠良な元三さえ逆怨むようになった。だが奇妙なもので、丁度その頃から爺は自分の心が先達の婦へ傾きかけているのを朧げならが覚り出したのである。いつしか初め頃の興奮もやわらぎ、その日暮しにも疲れを覚え出した為だろうか。それ所か爺は婦を食わしているのは実は自分だという亭主じみた悦びさえ持つようになった。
爺は先達の婦のことを思い出すと、背中を丸くすぼめて蕩然と蒼空を眺めつつ、
「わっしも嬶さ迎えにゃな」といつも呟いた。「う、わっしあ、はあ、五十七だもなあ。後嗣もねえではなあ」
支械の同僚達は嫁さんを貰ってやるからと、よく爺をからかった。元三は嫁さんという言葉を聞いただけでも口のたがが弛んだ。
「爺やにどんげな嫁さんを貰ってやるだかな」
「くくく、くくく」
「サッチョンコルの酒婦はどうだかな」
「くくく、もうわっしあ若えでねえでもええだよ。昔あわっしにも若えのがいてな、餓鬼も二人さいただが、う、疫病にみな斃っちもうただよ。ふんとう、ふんとうだとも」
いつだったか兎も角、爺は同僚達に連れられてサッチョンコルの酒婦の所へ行ったのだ。目の小さい歯の大きな酒婦はひやひやと囃し立てられつつ、元三の背中を抱いて酒をすすめた。その瞬間爺は体がとろけ込み気も遠くなったようだった。実に生涯始めてのことだった。所が突然爺はその場にがくんと跪いて頭を温突につけ、
「う、わっしあ、丁元三でごぜえますだ。う、始めてお目にかかるでがす……」
と、得意な所を一くさりやったので、みんな上を下へとあっはは腹をゆすぶって笑い合った。
その日元三は少々不機嫌になって帰りながら、やはり婦は先達の嬶に限ると独りごとを呟いていた。