Chapter 1 of 8

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銀三十枚

国枝史郎

「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざらの男振りでもない意だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」

ユダはこう云って抱き介えようとした。

猶太第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。

「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」

「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」

「胸をご覧、妾の胸を」

マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくらと目が廻った。

「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」

「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解った」

ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革商人のヤコブであった。

「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」

革財布をチャラチャラ揺すぶった。

「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、

「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」

寝室の戸をギーと開けた。

充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。

マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。

銀三十枚が股の上にあった。

「畜生!」と突然彼女は叫んだ。

「一杯食った! ヤコブ面に!」

三十枚の銀をぶちまけた。

「マリア!」とその時呼ぶ声がした。

「誰!」と彼女は娼婦声で云った。

「解らないのかい。驚いたなあ」

「あら解ってよ。お入んなさい」

彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。

「これはこれは」と彼は云った。

「銀の洪水と見えますわい」

「よかったらお前さん持っておいでな」

「気前がいいな。そいつアほんとか?」

カヤパは勿怪な顔をした。

イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹、橄欖、無花果の木々を、銀鼠色に燻らせていた。

肉柱の香、沈丁の香、空気は匂いに充たされていた。

十三人は歩いて行った。

小鳥が塒で騒ぎ出した。その跫音に驚いたのであろう。

と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。

月光は黎明を想わせた。

十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。

イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。

ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。

彼にはイエスが疑わしく見えた。

イエスに疑念を挟んだのは、かなり以前からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。

女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。

「瞽いた者は見ることが出来、跛えた者は歩くことが出来、癩病る者は潔まることが出来、聾いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺に来たる者は幸福である」と。

その時ユダはこう思った。

「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」

しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。

浅薄な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。

「神とは一体何だろう?」

ユダはここから発足した。

「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」

ユダはその説とは反対であった。

「宇宙は決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」

イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。

そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。

ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。

そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。

「お前達が俺を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」

「莫迦な話だ」とユダは思った。

「預言者どころの騒ぎではない。彼奴はひどい利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」

ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。

十三人は歩いて行った。

次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊のように痩せて見えた。

ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。

――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和さがなく、木の根や岩に躓いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。

楊の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流を徒歩渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。

イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。

「さあお前達は監視っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」

こう云ってイエスは奥へ進んだ。

「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」

ついに三人をさえ追い払った。

イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。

と、林が立っていた。楊、橄欖の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。

突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。

「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」

白痴か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。

ユダは後を尾行て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。

彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾くなかった事を知ることが出来た。

「彼奴はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者なものか! 預言者なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。

「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」

彼は心に痛みを感じた。

「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」

梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。

やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。

不安と疲労とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々として眠っていた。

イエスは一人々々呼び起こした。

「眠っては不可ない。お祈りをしよう」

ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。

しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。麻痺的に病的に眠いらしい。

「また眠るのか、何ということだ! 惑いに入らぬよう祈るがいい」

イエスは如何にも寂しそうに云った。

と、にわかに叫び声を上げた。

「時は近づいた! 遣って来た!」

麓の方を指さした。

山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。

打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。

「うん、来たな」とユダは云った。

それからその方へ小走って行った。

ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。

「マルコ」とユダは近寄って行った。

「接吻が合図だ。間違うなよ」

「大丈夫だ。大丈夫だ」

そこで一隊は歩き出した。傍路からユダは先へ廻った。

「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」

ユダは走りながらワクワクした。

マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。

使徒達はイエスを囲繞いた。

イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついていた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。

その時無花果の茂みを分け、つとユダが進み出た。

「ラビ、安きか!」とユダは云った。

そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。

イエスの顔はひん曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。

が、その次の瞬間には、以前の態度に返っていた。

兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。

「お前達は誰を訊ねるのだ?」

「ナザレのイエスを」とマルコが云った。

「ナザレのイエスを? では俺だ」

マルコと兵士とは後退りした。

「お前達は誰を訊ねるのだ?」

またイエスはこう訊いた。

「ナザレのイエスを」とマルコが云った。

「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」

こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。

ユダだけは一人立っていた。

それは劇的の光景であった。

だが何物にも変化はなかった。

沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。

ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側で、曳かれて来るキリストを待っていた。

それは劇的の光景であった。

使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。

「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。

「父から贈された盃だ」

彼は両手を差し出した。

彼は、従容と縄を受けた。

誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山は静かになった。

ユダ一人が残っていた。

「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望んでいた人の様に、従容と縛に就こうとは? 一体彼奴は何者だろう?」

ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。

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