Chapter 1 of 3

帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。

この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。

一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。

東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯う云わしめた。

「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。

群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、

「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。

こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。

オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。

そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行い、

「汝を神聖ローマ皇帝となす」

と宣言し、その冠を頭上に置き、

「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。

これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至は攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。

こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。

次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、

「羅馬教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」

というのである。

ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。

すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。

こうなっては如何なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。

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