Chapter 1 of 4

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競漕

久米正雄

毎年春季に開かれる大学の競漕会がもう一月と差し迫った時になって、文科の短艇部選手に急な欠員が生じた。五番を漕いでいた浅沼が他の選手と衝突して止めてしまったのである。艇長の責任がある窪田は困った。敵手の農科はことにメンバアが揃っていて、一カ月も前から法工医の三科をさえ凌ぐというような勢いである。翻って味方はと見ればせっかく揃えたクリュウがまた欠けるという始末。しかし窪田は落胆はしなかった。そして漕いだ経験は十分だが身体がないので舵手になっていた小林を説きつけて、やむを得ず五番に廻した。舵手の代りなら、少し頭脳さえよくて、短艇の経験がちょっとあれば誰れにでも出来る。なあに漕法さえしっかり出来上ってれば舵はその日に誰れかを頼んだって間に合わぬこともない。これが高等学校以来もう六年も隅田川で漕いで来た窪田の肚であった。それでもいくら舵だって相応な熟練は要る。一刻でも早く定まれば勝味が増すわけである。窪田は艇の経験ある学生を二三人心で数えて見た。そして熟考のあげく、津島という前の年に二番を漕いだ男を勧誘することに決めた。ところが窪田が訪ねて行って見ると、驚いたことには津島は下宿の六畳の間一ぱいに蔵経を積め込んで卒業論文を書いていた。(津島は宗教哲学を専修していたのである)窪田自身も卒業期ではあるが、これでは自分の呑気をもって他を律するわけには行かないと思った。しかし話だけはして見ようというので相談して見ると、津島ももともと短艇がそう厭ではないし、ことに舵に廻るとなれば出たいのは山々であるが、到底出るわけには行かない。卒業論文の方はいいにしても四月始めには故郷へ帰って結婚するはずになっていると言うのである。さすがの窪田もこれを押しきって出ろと勧めるわけにはなおさら行かない。そのばかに困却した態度を見ると津島も気の毒に思った。そして二人でまた新らしく後任の誰彼を物色して見た。するとその時ふと窪田が久野のことを思い出した。久野なら高等学校の時、組選の舵を引いて敗けたことがある。その前年に体を悪くして転地していたが、もう帰って来ているはずである。現に二三日前も本郷の通りで会った。その時の話ではまた戯曲を書きかけているので、ばかに忙しそうなことを言っていたが、あの男が自分で言うのだから、そう忙しいと定まったわけでもあるまい。まあ行って勧誘して見よう。というようなことに二人は話を定めた。そして津島はまだ会ったことがないのだが、行って二人で攻めたら大抵承知するだろうと言うので、すぐ久野のいる追分の素人下宿へ行った。

久野はその時、彼の言葉通りに彼の第三番目の習作で、かなり大きな戯曲に取りかかっていた。机の上には二人の来たのを見て、急いで隠くした原稿紙が書物の下からはみ出していた。ちょっとした学生同志の挨拶が済むと、窪田はちらと机の上に目をやりながら、まだ何用でこの二人が来たのかを推測しかねている久野にいきなり言いかけた。

「実はねえ。短艇の選手が急に一人足りなくなったんで、君にちょっと舵を曳いてもらいたいんだが、出てくれないかい。ほんとに困ったんだ」

久野は用事の意外なのに少し驚いたらしかったが、日焼けのした窪田の顔をそっと微笑みながら見上げて言った。

「出し抜けに妙なことを持ち込んだものだね。しかし僕を引っ張り出さなくたって、ほかにまだあるだろう。僕なんぞ駄目だよ」

「ところがほかにないから君んところへ来たんだ。今もこの津島君のところへ行ったら、論文と結婚で忙しくていけないと言うんだ。それで二人で君しかないと決議して、わざわざ勧誘に来たんだ。どうか頼むから出てくれ給え」

「僕だって脚本を書いてるんで忙しいんだ。帝文の川田敏郎に今月は是非出すって約束してしまったんだからね」

「なあに、君のは一生の大事と言うほどのことではあるまいじゃないか」

「ところが今の僕にとっちゃ少くとも妻君を貰うより大問題だからね」と久野は黙って笑っている津島の方へ顔を向けた。ちょっと面を赤めた津島はこの時初めて口を切った。

「そんなことを言わないで、どうか出て下さい。窪田君もこの通り困り抜いてるんですから。メンバアが揃わなくちゃ他の人も練習に身が入らないんです。それに何でしょう。競漕なんてものは一度はやって見ると面白いものですよ。合宿生活なんぞも学生のうちでなければ、到底味わうことが出来ない経験ですからね。あなただってやって決して損なことはありません。きっと請け合います」

「そうだ」窪田もそれに力を得て口を添えた。「創作でもするっていう人ならなおさらのことだよ。たまにはこういう団体生活もして見るさ。合宿生活なんてものは、全く単純で原始的で面白いものだよ。ある種の獣的な生活だがね。是非一度はやって見る必要があるよ」

「それあ僕だって好奇心の動かぬことはない」と久野は答えた。「しかし何しろ脚本も書きかけているんだし、それに舵を曳いた経験も古いことだからなあ。僕に堂々たる文科の選手なぞが勤まりはしないよ」

「それあ大丈夫だよ」と窪田がようやく久野の心の動き出したのを見て言った。「その点については心配することはない」

「全くそれは大丈夫です」津島も窪田の後から言い足した。

「窪田君のような隅田川の河童がいるんですから、万事この人に任かせておくといいです」

「河童が川流れをするようなことはあるまいね」と久野は自身で、警句のつもりで言った。

「君が選手に出てくれなくちゃ流れるんだ」と窪田は久野の調子に引き入れられて彼には不似合いな冗談を入れた。

「全くです。流れかかってるんですよ。だからお願いします。溺れかかった人は藁でもつかむと言うじゃありませんか」と津島まで突拍子もないことを言い出した。

「じゃ僕を藁にしようと言うんだね」と久野は笑い続けた。「掴んで見てから無駄だったって後悔し給うな」

「大丈夫。助けると思ってどうか頼む」

「じゃ一つ甘んじて諸君の藁になるとするかな。しかし他の奴らはまた久野が野次性を出し初めたと言うだろう」

「言ったって平気じゃないか」

「うむ、それは平気だ。芸術家の第一歩はすべてのものに好奇心を動かすのにあるんだそうだからね」

「全くです。全くです」と津島は久野の心持がまた変りでもすると大変だと思って、念を押した。「じゃ出て下さるんですね」

「まだ思案最中なんですよ」と久野は快答を与えるのが惜しいような心持で言いながら、首を俛れてみた。「何しろ書きかけてるんだからなあ」

「一体いつごろまでに出来るんだい」

「十五日までには書き上げる予定なんだ」

「じゃ十六日からでいいから出てくれ給え。そうすれば正味二十五日間の練習だよ」

「じゃ十五日までに書き上げられたら出るとしよう」

「よろしい。ありがとう。これでやっと安心した。では僕らは明日から四日間佐原まで遠漕に行って来るから、その間に君の方は書き上げ給え」

「よし、全速力で書いて見よう」

こんなことでとうとう久野は文科の舵手として競漕に出ることになった。

合宿所は言問の近くの鳥金という料理屋の裏手にあった。道を隔てて前と横とが芸者屋であった。隣りには高い塀を隔てて瀟洒たる二階屋の中に、お妾らしい女が住んでいた。朝などはその女が下婢に何とか言いつけているきれいな声が洩れたりした。しかし合宿所を引き上げるまで、とうとうその女は姿を見せないでしまった。芸者屋の方では、こっちが朝九時ごろ起きて二階の雨戸を開けでもすると、向うの二階で拭き掃除をしていた女たちが、日を受けてるので眩しそうにこっちを見やりながら、微かな笑みを送ったりした。稀には「大変お早いんですねえ」などと言っても見た。雨の日などにはその家の妓が五人ほど集まって、一緒に三味線のお浚いをし出した。雛妓の黄色い声が聞えたり、踊る姿が磨硝子を透して映ったりした。とうとうお終いには雛妓が合宿へ遊びに来るようになった。そいつが「書生さんて随分大口をきくわね」なんぞと大人びたことを言った。……何だかすべてが久野には妙な落着きがないちぐはぐな周囲であった。

初め久野が合宿へ行った時、皆遠漕から前日に帰って、初めて練習を了えたところであった。久野は皆の顔のひどく黒いのにびっくりした。あんな穏やかな初春の日光が、四日間照りつけたからと言って、こう黒くなるとは到底信じることが出来なかった。久野が入って行くとその六つの黒い顔が一様にこっちへ向いて、「いやあ」と言ったなり飯を食い初めた。窪田は遠漕の話をぼつぼつしながら、「何しろ四日間ずっと天気がよかったんだからなあ。春の方がずっと日に焼けるよ。一つには油断して日に顔を晒すせいもあるし、徐々と焦げて来るんですぐ脱ちないせいもある」などと言った。久野は少しく浅ましいような思いで皆の飯を食うのを待っていた。二番を漕いでいる早川なぞは久野の目の前で何とか申しわけをいいながら七杯目の茶碗を下婢の前に出した。そしておまけに卵を五つ六つ牛鍋の中に入れて食べた。しかしその無邪気な会話と獣性を帯びた食欲の裏に、一種妙な素朴な打ち融けた心持が一座の中に流れているのを久野はすぐ感知した。

食後には皆が一間に集まって雑談した。女の人の話なんぞもかなり修飾のない程度で交わされた。が主な話は遠漕中の失策とか、練習中の逸話とかであった。そしてその合間合間に「短艇なぞは孫子の代までやらせるもんじゃない」とか、「もう死ぬまで櫂は握りたくない」とか言う冗談の下に、練習の苦痛が訴えられた。主将の窪田は黙って笑いながらそれを聴いていた。そして自分も高等学校の時、練習の苦るしさに堪えかねて合宿を逃げ出したが中途でつかまった話なぞして聞かせた。「苦るしいけれども今に面白くなるよ」と彼の眼瞼を垂れた黒光りのする面貌が語っていた。

打ち見たところ、皆はすっかり融け合っているらしかった。浅沼の去ったことが、皆の心もちにすべて異分子が除かれたというような感じを齎らして、皆の一倍親しみを作ったのであろう。小さな不和が大きな不和の去るとともに息を潜めたのであろう。すべてのことは主将の窪田の命令通りになされた。窪田はそれを命令として明白には口に出さなかったけれど、多年の経験から黙々として自分からやり出した。すると他の選手たちは命令によって動くという意識なしに、窪田の思い通りにそれに従い初めた。窪田の物倦げに垂れた眼瞼の奥には、勝利を孕む幾多の画策が黙々として匿されてあった。けれども彼は一言もそれを口に出さなかった。彼は他の選手に鞭撻めいたことを一言も言わなかった。そしてじっと他の選手が彼ら自身の方から自発的に気色ばんで来るのを待っていた。彼の態度にはちょっと老将というような概があった。

十時近くなると皆は五分ずつバック台をやってそして健やかな眠りについた。久野だけが永い間眠らなかった。彼はまだ脚本を書き了えなかった。そしてその草稿を合宿所の二階へ持って来て書くことにした。それで第四幕をとうとう未定稿のままで発表することにしてしまった。十二時過ぎたので彼も床に入った。先刻までかなり騒がしかった四隣の絃歌も絶えて、どこか近く隅田川辺の工場の笛らしいのが響いて来る。思いなしか耳を澄ますと川面を渡る夜の帆船の音が聞えるようである。うとうとしている間に二三軒横の言問団子の製餅場で明日の餅を搗き初める。しかしそれを気にして床上に輾転しているのは久野だけである。彼は他の人たちの健やかな眠りと健やかな活力を羨ましく思った。しかし明日から、彼らと同じく病的な蒼白い投影のない生活をすることができるのである、それが愉快な予想となって彼の心にあらわれ初めた。

「やっぱりこんな生活に入って見るのもよかった」彼はこうつぶやきながらも一度強いて枕を頭につけた。……

練習は朝の十時ごろから初まった。ゆっくり寝て、ゆっくり朝飯を済まして艇のつないである台船のところへゆく。敵手の農科はもう出てしまっている。もう千住くらいまで溯って練習しているのであろう、工科の艇も繋いでない。法科も漕ぎ出してしまった。医科と文科の艇だけがいつも朝はお終いまで残された。この二科はよく台船のところで一緒になった。

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